日蓮宗 長榮山 二条半 妙法寺

 

 

堺市は京都市に次いで寺社仏閣の多い町だそうで、堺区の環濠内(堀之内)寺町筋には、延々とお寺が軒を連ねていたりします。お寺の個性も様々で、広大な敷地のお寺もあれば、ひっそりと佇んでいるお寺もあります。
今回訪問するお寺は、宿院の東にある古刹で、門は開け放たれて前庭から本堂に向けた石畳がすっきりと見えます。どこも良く手入れされていて、清々しく明るい印象を受けます。
住職の佐々木宏介さん・妙章さんご夫妻から、妙法寺の歴史と今をお聞きすることにしました。

 

■妙法寺の歴史

 

 

妙法寺の一室で、佐々木さんにお寺の歴史にまつわる資料を見せていただきましたので、簡単にまとめてみましょう。

日蓮宗長榮山妙法寺の設立は、興国4年(1343年)。教科書的に言えば、時代は鎌倉時代から室町時代へと移り変わる狭間の南北朝時代で、足利尊氏が征夷大将軍となったものの、剣戟の響きに満ちた時代です。そんな時代に、日蓮聖人の弟子である日像上人に堺布教を命じられた直弟子日祐上人が拠点としたのが、この妙法寺でした。

日蓮宗にとって、堺に妙法寺を作ったことは、後に僥倖をもたらすことになります。
創立から200年近く後の天文5年(1536年)、比叡山延暦寺か京都市内の日蓮宗21本山をすべて焼き払った「天文法難」が起きます。京都の日蓮宗の僧侶や宗徒は、堺に逃れました。妙法寺には、大本山の妙顕寺の住職が滞在することになったのですが、妙顕寺は京都の二条通と三条通の真ん中あたりにあったことから、妙法寺は「二条半」と通称されるようになったのです。

 

▲本堂には、屏風仕立てで、江戸時代の元和の町割りの大絵図を見ることができます。

 

この「二条半」という通称から着想を得て「二畳半」の茶室を作った人物がいました。
それが堺の医師にして茶匠の北向道陳(きたむきどうちん)です。北向道陳は唐物の茶器の目利きとしても知られていますが、なんといっても人物の目利きでもありました。若き千利休の才能を見抜いて最初の師となり、その後親友であった茶匠武野紹鴎(たけのじょうおう)に弟子入りさせます。北向道陳の茶は、「台子の茶」「書院の茶」とも呼ばれ、書院式の茶室で唐物を愛でる茶だったようですが、自然の造形美を取り入れ後の「佗茶」の原型となる茶風を作った村田珠光にも学んでいました。これに初めて「佗茶」という言葉を使った武野紹鴎に、利休を弟子入りさせた北向道陳はやはり慧眼というしかないでしょう。
もし、北向道陳が利休の適正を見抜いていなかったら、見抜いていても優秀な弟子を他人に推薦するような心の広さを持っていなかったら、利休の茶も随分違ったものになっていたことでしょう。

その北向道陳のお墓は、今、この妙法寺にあります。

 

■茶人と縁の深いお寺

 

 

本堂の南、北向道陳のお墓があります。ブロック塀と本堂に挟まれ、境内墓地に向かう通路のようになった場所です。お隣には、豊臣秀吉のお伽衆として知られる曽呂利新左衛門(そろりしんざえもん)の供養塔が仲良く建っています。
妙法寺の観光の見所でもあり、筆者も何度も訪れています。ところが何年か前に訪れた時と、随分印象が違ってみえたのでした。
――前に比べると不思議と明るい印象がします。特に何か変わったわけではないのに。
佐々木「はい。何かを変えたわけではないのですが、雰囲気が変わったと良く言われます」
――門の所の前庭であれば、造園されたりしたので、雰囲気が変わったのは当然ですが、どうも、それだけではないですね。お寺全体の印象が変わってきたのではないでしょうか。何かなさったのでしょうか。
佐々木「それは明確にあります。私たちが、このお寺にきて10年になります。最初の2年は先代の住職の下で下積みをして、続く3年間は開かれたお寺にしようと、こちらから外へ出続けました」
――お寺に対する敷居を下げられたんですね。
佐々木「ところが下げすぎた部分もありました。お寺は公民館のような施設とは違って宗教施設です。そこを勘違いされる方もいたのです。その頃、東京の勉強会に参加したことをきっかけに、毎日お経を全部読むことにしたのです。法華経というのは八巻あるのですが、一日一巻ずつ、八日で八巻読むことにしたのです。お寺の雰囲気が変わってきたのはそれからでしたね。お檀家さん、ご信者さんの中からも、お経をあげて御利益があったという方が次々に現われて、一緒にお経をあげる方がどんどん増えています」
――お寺に人が通うようになって、自然に活気が溢れてきたという事なのでしょうね。
佐々木「お経をあげることで、家もお寺も空気が変わってくるんですね。もう休む暇もないほどたくさんの人が日毎、お参りやご相談にいらっしゃるようになりました」

 

妙法寺では北向道陳の命日に、北向道陳忌を開催するようにもなりました。その道陳忌には、長く途切れていた縁が最近になって復活した、北向道陳が養子に迎えた竹田家の子孫の方の顔もありました。これも、佐々木さんが、妙法寺を人が通うお寺へと変えた効果でしょう。

 

▲利休十哲の一人、荒木道薫と名乗った荒木村重のご供養もなさっています。

 

そして、もう1人。妙法寺は、ある歴史上の茶人と深い関わりが浮かび上がってきました。
その人物とは、千利休の弟子「利休十哲」に数えられる荒木道薫です。戦国武将荒木村重としても知られる人物は、織田信長と対立して放浪生活を送った後、堺に流れ着き利休の弟子となり、茶人として名をなしました。

ここ最近、大河ドラマ「軍事黒田官兵衛」にも登場したことから、歴史ファンがネットで情報を検索し、墓所があると記載されている南宗寺を訪れることが多くなったのだそうです。
佐々木「しかし南宗寺に行くと、お墓はなく、大坂夏の陣以前に南宗寺の敷地だった妙法寺にお墓があるのでは? と言われるそうで、こちらに足を運ぶ方が増えたのです」
妙法寺にも荒木村重のお墓もなければ、資料もないのですが、佐々木さんは不思議なご縁を感じる体験を境に、荒木村重の供養をするようになったとか。

 

妙法寺は、普段から門を開放しています。法華経の教えを表現した庭(作庭:大阪芸大、福原成雄先生)や、北向道陳のお墓、曽呂利新左衛門の供養塔なども自由に見ていただけます。ご住職がいらっしゃれば、本堂なども案内していただけるので、ご希望の方は連絡してみてください。

 

妙法寺
堺市堺区中之町東4丁1

 


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