臨済宗東福寺派 宿松山 海会禅寺

 

 

堺市の大寺院といえば、「北の御坊さん」こと浄土真宗本願寺派の本願寺堺別院、「夜泣きの蘇鉄」で知られる日蓮宗妙國寺、そして徳川家康の墓があることでも知られる臨済宗大徳寺派の南宗寺の名があがるでしょう。

今回紹介するのは、南宗寺の寺域にある海会禅寺(海会寺)です。この海会寺、実は南宗寺と同じ臨済宗ですが、大徳寺派の南宗寺に対して、東福寺派のお寺なのだとか。なぜ、違う派のお寺の中にあるのか、そこには一体どんな経緯があったのか? まずはその歴史から紐解いてみましょう。

 

 

■数奇の運命をたどった古刹

 

 

南宗寺の門をくぐり、広い境内を奥へと進みます。国指定重要文化財の甘露門を横目に、日本庭園の橋を渡って、石畳の道を進むと、海会寺が見えてきました。瓦壁の向こうには端正な本堂が顔を覗かせています。

その本堂で迎えてくれたのは、ご住職の奥さんでした。見せていただいた資料によると、海会寺の歴史は以下のようなものでした。

 

海会寺の創立は、鎌倉時代の末期に遡ります。

鎌倉時代から南北朝時代にかけて重職を歴任し活躍した公卿洞院公賢(とういんこうけん)が、檀越(だんおつ:檀家)となって、元弘2年(1332年)に海会寺を創建します。開祖には、東福寺の乾峰士曇(けんぽうしどん:廣智國師)を招きました。当時の寺地は、今の開口神社の西門前付近にあり、六つのお寺を塔頭に持つ大寺院でした。

 

開口神社の西門といえば、名水の井戸として金龍井が知られていますが、その起源もこの時代に遡ります。伝説によれば、干ばつの際に、乾峰士曇の前に竜神が化身した老人が現われます。前世の咎で蛇身となった老人に乾峰士曇が「念仏を一身に祈りなさい」と教えると、そのお礼に竜神は水の湧き出る場所を教え、それが今の金龍井だと言われています。(開口神社webサイトより)

 

▲開口神社の西端にある「海会寺金龍井」。

 

その後、海会寺は、一時は大いに栄えましたが、戦国時代には戦乱の影響もあって荒廃していました。しかし、天正13年(1585年)に、豊臣秀吉が紀州根来寺を攻め、そこにあった大伝法院の建物を移して再興したのだそうです。その時の寺地は、開口神社近くから堺南東の祥雲寺辺りへ移転したと伝えられます。この時点でも、海会寺は広大な寺地を所有する大寺院でした。

ところが、慶長20年(1615年)、大坂夏の陣によって堺は灰燼に帰し、せっかく再建された海会寺も焼失します。戦火が収まると、堺の町衆はすぐに堺の再建に取りかかり、いわゆる「元和の町割」が行われます。「元和の町割」では、寺社の整理再配置が行われ、海会寺のあった場所には南宗寺の沢庵宗彭の采配によって祥雲寺が建てられ、その代わりに南宗寺の寺域内に海会寺が建てられたのでした。

こうして海会寺は南宗寺の塔頭となったのですが、大徳寺派の南宗寺の末寺となることは、東福寺派の海会寺にしては当然面白くないことでした。沢庵和尚の没後、海会寺は奉行所に訴訟を起こします。長く時間はかかりましたが、結果独立は認められ、海会寺は東福寺派となり、寺地は旧のように南宗寺内となったのでした。これが、今日に続く、南宗寺内にありながら塔頭ではないという、不思議な海会寺の存在の事情でした。

 

そういう事情を知ってしまうと、ちょっと心配になってしまいます。江戸時代に訴訟までして以後数百年、ご近所づきあいは大丈夫なのでしょうか?

「住職も言ってますが、東福寺派か、大徳寺派かなんて違いはないですよ」

と、奥さんは笑います。どうやら対立もすっかり過去の歴史となっているようです。

 

 

■700年の歴史を今に伝える

 

 

海会寺は創建以来2度の移転を経ていますが、幸運にも太平洋戦争の戦災・堺大空襲では被害に遭っていません。そのため、建築や文化財も貴重なものが遺されています。そちらも紹介してみましょう。

 

南北朝時代のものとしては、本尊の阿弥陀如来立像並びに「牡丹花詩集」があります。「牡丹花詩集」は、開祖乾峰士曇をはじめ33人の禅僧が「牡丹」を題に作った漢詩を集めたもの。これは乾峰士曇の自筆で、日本の書道史・文学史においても貴重な作品であるとして、市の指定有形文化財となっています。

また建築としても、江戸時代初期に建てられた本堂・庫裏・門廊は国指定重要文化財になっています。本堂と庫裏(くり)は一棟の建物になっており、共に入母屋造りの屋根で本瓦葺が見た目にも美しい傑作です。境内に入れば、華頭窓(かずまど)という特別な形をした窓が印象的な門廊が、本当と庫裏の境にあります。これをくぐれば枯山水の万丈石庭「指月庭」を見ることが出来ます。四方を南宗寺に囲まれた「指月庭」では、一際静寂を感じることが出来るようでした。

 

 

 

こうして、長い歴史を振り返れば、海会寺という名前も納得です。創建当初、海会寺が開口神社の西門より西に広大な敷地を持っていたとすれば、当時の海岸線はずっと内陸にあったはずですから、海会寺は海に接する、まさに海に会うお寺です。港町堺という町の性質を考えても、注目すべき歴史を秘めたお寺と言えそうです。

 

海会寺は、拝観寺ではないため、普段はひっそりと佇んでいます。境内を見学されたい方は、電話で問い合わせくださいとのことです。また、堺市の文化財特別公開に参加することもあるので、その時に来ていただければじっくりと見学することができますので、堺市の情報は要チェックです。

 

宿松山 海会禅寺
堺市堺区南旅篭町東3丁1−2
072-233-1398

 


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