臨済宗大徳寺派 龍興山 臨江寺

 

 

臨江寺は、堺の環濠内の南端にあるお寺で、広大な敷地を持つ南宗寺の門外塔頭(敷地外にある末寺)です。南宗寺からは、細長い住宅地を挟んで西隣で、末寺ですから山号も同じ龍興山。塔頭ではありますが独自の歴史があって、境内には数々の史跡があり、見所は盛りだくさんのお寺なのです。
今回の取材では住職の磯部宗寛さんに案内してもらい、お寺の歴史についても教えてもらいました。

 

■茶人の眠る寺

 

▲今井宗久ではないかと伝えられている像(本堂)。

 

由緒をたどると、臨江寺は、千利久、津田宗及と並び「天下三宗匠」と称された茶人にして豪商の今井宗久の曾孫になる今井兼続が、今井家の菩提寺として創建したお寺です。大名とかでもない、商人が建てたお寺というのは驚きです。

磯部「今の人がお墓を買うような感覚で、お寺を建てたのでしょう」
――お墓感覚でお寺を! 堺の豪商の財力恐るべしですね。

創建は、承応元年(1652年)で、堀に臨んでいたことから、臨江寺と名付けられたそうです。また、かつては境内に多くの萩が植えられたことから、「萩の寺」とも称され、お月見やお茶会なども盛んに行われたとか。今も萩を植えているのですが、残念ながらオフシーズンでした。

――茶人が眠るお寺に相応しいですね。
磯部「今井宗久から歴代の今井家のお墓がありますが、明治時代に今井家は東京に移ってしまったので、今は縁も薄くなってしまいました。堺には、今井家の菩提寺としてもう1つ日蓮宗のお寺があり、奈良の今井町にも今井家と縁のある称念寺というお寺があって、現在も今井姓の方がご住職をされており、こちらは浄土真宗のお寺でした」
――宗派をまたいでいるのも、当時の堺商人たちの宗教観がうかがえますね。

 

▲今井宗久や千利休の師でもある茶人武野紹鴎の墓も臨江寺にある。

 

 

磯部「ただ、この臨江寺は、もともと臨江庵といって、今でも古い人はそう呼びます。歴代の住職のお墓をみていると、どうも住職がいない時もあったようです」
――臨江寺は、堺大空襲の戦災にはあったのですか?
磯部「当時のお堂に焼夷弾が落ちたのですが、発火しなかったかで燃えずにすんだようです。なので、被害にはあったということです。今の本堂は先代の住職が昭和40年代に建て直したものですが、建て直した1~2年後に亡くなったそうです」
――磯部さんはいつこちらのご住職に?
磯部「先代が亡くなってから、長い間奥さんと娘さんがお寺を守っていたのですが、昭和60年代に、私がこちらの住職になりました」
――そういう風に別の所から住職が来られるのは珍しいことなのですか?
磯部「今では臨済宗も結婚して妻帯しますから、お寺を子どもに譲ることも多いのですが、元々臨済宗では弟子を育てて譲るというパターンが良くありました」

磯部さんから、臨江寺の歴史をお聞きしたところで、そろそろ境内を案内してもらうこととしましょう。

 

■臨江寺史跡巡り

 

▲埋まっていたという松尾芭蕉の句碑も磯部さんが整備しました。

 

まず見せていただいたのは、松尾芭蕉の句碑でした。
句は「口切りに さかいの庭ぞ なつかしき」とあります。
--芭蕉さんがこちらに来たのですか?
磯部「そうではないようです。この句碑は、本堂を改築した時に埋もれていたのが出てきたもので、芭蕉がここに来て詠んだのではなく、お茶といえば堺だなと詠んだ句のようですね」

臨江寺の境内には、小さな社もありました。乳守明神社です。
――このあたりは乳守といったはずですが、乳守明神社には何か言い伝えがあるのですか?
磯部「口伝ですが、漁師の奥さんでお乳が出ずに困っていた人が、夢のお告げがあってお乳が出るようになったといったような話があります。乳守というのは、津守がなまったものとも聞きました」
――そういえば住吉大社の宮司は元々津守氏です。住吉大社と縁の深い堺なので、津守氏の土地だったのかな? 
磯部「乳守遊郭もこのあたりにありました。私がこちらに来た頃は、まだ長屋でおばあさんが三味線を弾いていたりしてね。古い話を聞かせてくれたりしました」
--時代を感じさせる話ですね。貴重なお話、記録しておきたかったですね。

 

▲境内にある乳守明神社。もともとは住吉大社の宮司の津守氏の津守だった?

 

磯部「遊郭といえば、鎌倉時代の仇討ちで有名な曾我兄弟の兄、曾我十郎の恋人だった遊女虎御前が十郎の死後、石になったという虎ご石もあるよ」
――乳守遊郭があったことから、虎御前の伝説も結びつけられたのでしょうか。また、大きな石ですね。
磯部「石棺の蓋みたいな形をしてるでしょう。さてそろそろ、今井家のお墓を見に行きましょうか」

本堂の脇をすり抜けて南へ折れると、一般の墓地があり、その向こうに今井家の墓所がありました。正方形の地所の辺に墓が列を連ねています。それらは明らかに他とは別格の大きさと風格を備えています。
――すごい迫力ですね。
磯部「墓所の手前にあるのが歴代の住職のお墓と、こちらにあるのが武野紹鴎のお墓」
――武野紹鴎! 三宗匠の師匠ですね。これはすごい。
磯部「お茶をする人はみんなそういうね」
――そりゃそうですよ。お茶を学ぶ方は、利休屋敷跡に行った後は、こちらにも足を伸ばして欲しいですね。津田宗及のお墓は南宗寺にありますしね。

 

▲この一角がまるまる今井家代々の墓で、ちょっとした大名のお墓ぐらいの規模です。この壁の向こうは環濠で、そこから臨江寺と名付けられたそうです。

 

 

さて、磯部さんは、20年前から近隣の寺社仏閣と協力してスタンプラリーを行ったり、音楽イベントを開催したりという活動も行ってこられました。お寺と地域をつなぐ活動の先駆者ともいえるでしょう。そんな磯部さんにこれからのお寺についてうかがってみました。
磯部「この辺りも、新しい人が来て綺麗になってきたけれど、路地裏の面白さが無くなってきました。銭湯も無くなったしね。綿々と続いてきたものを維持していくのが大変です。今の私は、次の代までお寺を引き継ぐというのが役目ですね。あとは、それぞれのお寺が独自性を持って活動すればいいんじゃないかな。それで地域の方が相談に来るような場にお寺がなっていけばいいと思いますよ」

気取らない磯部さんの人柄もあるでしょうが、沢山の史跡もごく当たり前に存在していて、臨江寺は自然体のお寺という印象でした。この臨江寺の門は、普段から日中は開け放たれているそうです。境内の史跡の見学は可能ですので、お気軽に手を合わしにいらしてください。

 

臨江寺
堺市堺区南半町東2丁1−3
TEL 072-232-6047


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