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ミュージアムへ行こう! 「与謝野晶子を支えた実業家たち」(2)

 

前篇に引き続き、2019年6月16日まで開催予定の企画展「与謝野晶子を支えた実業家たち」を観に、さかい利晶の杜を訪ねています。この企画展はスペースこそ一室だけという小さなものですが、さかい利晶の杜学芸員グループが企画した意欲的な展覧会でした。
テーマは、与謝野晶子を支えた実業家たちとの交友関係。与謝野晶子がどれだけ優れた素晴らしい芸術家であっても、それを理解し支援する人達がいなければ、これほど大量に質の高い作品を世に問うことが出来たでしょうか。
たとえば、文学青年であった小林天眠が立ち上げた出版社天佑社は、毎月の原稿料という形で何年間も未刊の現代語訳源氏物語の執筆を支え続けました。

小林天眠と高島屋の重役であった川勝堅一を紹介した前篇に続き、後篇では3人目、芸術に理解のある実業家としては大物中の大物、小林逸翁に登場してもらいます。

 

■歌劇の父 小林逸翁

 

 

小林逸翁、本名は小林一三といえば、言わずと知れた阪急電車の創設者。そして宝塚歌劇団の創設者としても知られています。そして、美術品の蒐集家であり、茶の湯を愛する文化人でもあると、パトロンとして全てを兼ね備えたような存在です。
「小林逸翁は、関西のイメージが強いですが、関東の人です(山梨県出身)。慶應義塾を出て、三井銀行に勤めてから、30代で大阪へ移住しました」
と、学芸員さんの解説。阪急電車は阪神間や北摂、京都への交通の足、宝塚少女歌劇団は北摂の宝塚市だし、小林逸翁のコレクションを収蔵した逸翁美術館も池田市に存在し、たしかに関西、特に北摂のイメージが強い人なので意外でした。

1917年に小林逸翁は、与謝野晶子夫妻を宝塚に招待します。夫妻は、少女歌劇を観劇し、小林逸翁の自宅で歓待を受けたのだそうです。
その後も、小林逸翁は晶子さんの揮毫した書を購入するなど、経済的な支援を惜しみませんでした。そして、この交流は晶子さんが亡くなるまで続いたのです。
企画展には与謝野晶子が小林逸翁に当てた書簡や歌などが、パネル展示ですが展示されています。

 

 

「封建時代には芸術家を抱え支援していた公家や大名が明治に入っていなくなり、代わって芸術家を支援したのが、芸術に造詣の深い実業家たちでした。また、お茶も大名たちが茶人を抱えていたのですが、三千家の中ではお裏さん、裏千家などは女子教育の中にお茶を入れていくことを熱心にやりました」
芸術が芸術だけで生き残ることは難しい。それが与謝野晶子や茶道であっても。そんな中で、実業家たちが果たした役割は大きいものだった。そんなことがわかる企画展でした。

企画展「与謝野晶子を支えた実業家たち」の解説は以上でしたが、学芸員さんからちょっとしたオマケの解説もしていただきました。それは常設の与謝野晶子記念館での、特別な鑑賞法です。

 

■与謝野晶子が生きたまちで

 

 

さかい利晶の杜の2階にある、与謝野晶子記念館には、与謝野晶子さんが実際に使った鏡台が展示されています。
「鏡台の前に自分の顔がまっすぐ写るように立ってください。それから90度、身体ごと左を向いてください」
すると、左手に実物大に再現された晶子の生家である駿河屋が見えます。
「丁度、大道筋の大阪厚生信用金庫の前あたりに立った時に駿河屋やガス灯が見えた位置なんです。駿河屋の壁の時計も見えます。ここからまっすぐに歩くと、当時はまだ路面電車はありませんでしたが、線路沿いに歩いて駿河屋の真正面に前に出ることになります。どうです、おしゃれな建物でしょう」
確かに和洋折衷の不思議な魅力のある建物です。盾型の鎧窓に、軒の漆喰による装飾も妙に凝っています。
「今は紺ののれんが下がっていますが、夏には白ののれんに模様替えしたそうです。晶子さんのお父さんが趣味の良い人だったようです」

 

そののれんをくぐると帳場になります。
「ここが晶子さんがいた駿河屋の帳場、レジカウンターですね。和菓子の小豆を炊く湯気と音がすごかったそうですよ。晶子さんは、この帳場を仕切っていたのですが、非常に数学が出来た人で、女学校の先生から数学の先生になったらと勧められたそうです」
後に、実業家小林天眠の天佑社の経営に参加した与謝野晶子ですが、計算が得意で高い実務能力の持ち主だったという文学者とは違う横顔が見えてきます。
「晶子さんは、ここで源氏物語やトルストイを読んで文学者としての素養を養ったのです。私は南アフリカ共和国の議員団や、フランスなどの外交官の卵の皆さんを案内して、そうした説明をしたのですが、皆さん非常に感動されていました。それは貴族や資産家の子女ではなく、貧しくはないもののごく普通の商家の娘さんが、世界的な文学者になったことが凄いと感動されたのです。情熱の芸術家で、略奪婚なんて、そんなの向こうでは当たり前で、だから何って感じですよ。感動されるのは、そこではない」

 

 

与謝野晶子記念館の出口を出て、そのまま2階からエントランスの吹き抜けを見下ろすロビーに進みます。真正面の外壁は硝子張りで、硝子越しに表を横切るフェニックス通りと、その向こうに北へまっすぐ伸びる道が見えます。
「ここは昔市民病院で大きな区画を占有していたおかげで、南北の筋が綺麗に見えますね。ここから見える道は、与謝野晶子さんの実家駿河屋の裏手にあって、どう考えても晶子さんが良く歩いた道のはずです。これはこのさかい利晶の杜が、生まれ故郷の堺にあるから。この風土にあるからの価値です。与謝野晶子さんが歩いた道を歩き、与謝野晶子さんが吸った潮の香りがする空気を吸う。それは、東京や京都では出来ないことです」
もちろん、これはさかい利晶の杜のもう1人の主役・千利休さんにも対してもいえることです。千利休屋敷跡は、さかい利晶の杜に隣接しており、これも窓から様子を窺うことができます。

 

▲阿口神社にある与謝野晶子の歌碑。晶子から若い女性たちへのエール。

 

この渋い企画展と、学芸員さんだからこそ知っているとっておきのさかい利晶の杜の魅力。いかがだったでしょうか? 取材して感じたのは、施設のハードとしての魅力、堺市がもっている所蔵品の質の高さの魅力も素晴らしいものですが、それに負けず劣らず素晴らしいのが、ハードや所蔵品を組み合わせて一般の方に魅力を伝える企画力をもった学芸員の皆さんです。こうした知識やセンスをもった人達も、堺市のかけがえのない資産といえるのではないでしょうか。

さかい利晶の杜
堺市堺区宿院町西2丁1−1
072-260-4386
http://www.sakai-rishonomori.com/

 

 

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