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ミュージアムへ行こう! 「与謝野晶子を支えた実業家たち」(1)

 

堺市博物館の魅力的な展覧会を紹介したばかりですが、今度はさかい利晶の杜の企画展を紹介しなければならなくなりました。その企画展とは「与謝野晶子を支えた実業家たち」。与謝野晶子の作品や生き方を取り上げた企画はあっても、背景関係に注目したこんな渋い企画はこれまであったでしょうか?
展示は、さかい利晶の杜の2階にある1室だけという、小さな企画展ですが、それだけにテーマを絞った意欲的な企画のようです。学芸員さんにお願いして、この企画展の解説をお願いしました。

 

■近代日本の文化を支えるものたち

 

 

今回の企画展は、さかい利晶の杜の学芸員グループが企画したものだそうです。
その意図について、学芸員さんは以下のように語ってくれました。
「江戸時代には、公家や大名が芸術家をお抱えにして日本の文化を支えていました。しかし明治になって、公家や大名がいなくなった後、誰が文化を支えたのか。それが、明治の実業家たちです。しかも、与謝野晶子を支えた実業家の中には、自らも晶子さんと同じように文学者になりたかったが、実業界に進んでいって晶子さんや他の文学者を支えた実業家もいます。だから、与謝野晶子の文学だけでなく、与謝野晶子を広く知って欲しいと、交友関係にスポットをあてたのがこの企画なのです」

まずは、企画展のポスターにも使われている1枚の写真を見てみましょう。
ソファに座る与謝野晶子・鉄幹夫妻に挟まるようにして立つ、スーツを着こなした2人の紳士が写っています。
向かって右が小林天眠、左が川勝堅一という実業家です。2人とも知られた名前ではありませんが、与謝野晶子を支え、明治の文学界にも影響を与えた重要な人物です。まずは2人と与謝野晶子との関わりに迫りましょう。

 

■文学青年が実業家へ 小林天眠

 

 

1877年生まれの小林天眠は、与謝野晶子より1才年上。本名は政治(まさじ)。兵庫県の農家出身で、大阪へ出て文学者・実業家への道を進みます。
「農家といっても自作農で、貧農の出というわけではありません。小林天眠は文学青年で、関西青年文学会の創設者の1人です。この関西青年文学会には、1899年に晶子さんも入会しています。小林天眠は、先に鉄幹と出会ってから、1901年に上京して晶子さんと会っています」

与謝野晶子最大の支援者とも言われる小林天眠は、実業家としては大阪変圧器株式会社(現、株式会社ダイヘン)の創業者で初代社長となります。そして、天佑社という出版社を立ち上げ、多くの与謝野晶子の著書をはじめ、他の作家の作品でも後世に残るような作品を数多く出版します。

 

 

企画展には、与謝野寛(鉄幹)名義の天佑社株券が展示されているのですが、そのデザインがさすがに文学の出版社らしくしゃれています。それもそのはず、この株券のデザインは与謝野晶子が企画し、背景のイラストを画家に描かせたものなのです。与謝野晶子は、作家としてだけでなく、経営面でも天佑社に参加していたのです。
もちろん作家としも数々の仕事をこなしています。特筆すべきは、源氏物語の現代語訳に取り組んだことで、その原稿料として天佑社から毎月の経済的なサポートも得ていました。与謝野晶子はすでに別の出版社から「新訳源氏物語」を出版していましたが、この2度目の現代語訳は、与謝野晶子による「源氏物語講義」であり完成にまで膨大な年月をかける大事業でした。

しかし、大事業完成間近になって、大災害が与謝野晶子と天佑社に降りかかります。多くの犠牲者をだし、東京に壊滅的な被害をもたらした関東大震災が起こったのです。この震災によって、数千枚とも1万枚とも言われる与謝野晶子の現代語訳源氏物語の原稿は焼失し、被害を受けた天佑社も倒産してしまうのです。

心血を注いだ原稿の焼失は、どれほどの絶望を与えたことかわかりません。与謝野晶子は、「地震の夜の草枕をば吹くものは 大地が洩らす絶望の息」など、大震災の歌を何首も詠んでいます。

 

 

しかし、その後も小林天眠と与謝野夫妻の関係は続きます。実は、与謝野晶子の長男与謝野光と小林天眠の3女迪子が結婚し、与謝野家と小林家は親戚関係になるほどの仲だったのです。
小林天眠は、与謝野晶子をはじめ当時の文学者たちと幅広い交友を持っていたため、文学者たちの貴重な著作や自筆の短冊などが彼の手元には集まり、「小林天眠文庫」として今に残っています。企画展では、それらから貴重なものが展示されています。

 

■晶子を支援した歌の弟子 川勝堅一

 

 

川勝堅一は、高島屋の重役で、晶子が没するまで生涯にわたって支援を続けた実業家で、小林天眠と並ぶ存在です。川勝堅一も、晶子と鉄幹の歌の弟子でもあり、彼もまた文学に理解のある実業家でした。

「高島屋では「百選会」という呉服の催事が行われたのですが、川勝はこの「百選会」の顧問に与謝野晶子を迎えます。晶子さんは、着物にも造詣が深く、催事の顧問になってもらったのです。催事では一流の画家と晶子さんの作品がコラボレーションで並べられ、豪華な屏風や掛け軸なども並ぶ催事になったのです。こうした屏風や掛け軸などは、『川勝コレクション』として堺市に寄贈されています」
企画展には、川勝コレクションの美しい屏風なども展示されています。堺市の所蔵する様々なコレクションの中でも、とっておきのコレクションの1つでしょう。思わず、尋ねてしまいました。
――こんな素晴らしいコレクションを常時展示していないのは、やはり堺市博物館のスペース不足が問題なのでしょうか?
「そういうことではなくて、西洋の作品に比べて東洋の作品は傷みやすいので、常時展示は難しいのです」
--展示していると傷んでしまうんですね。
「はい。なので貴重な機会です。東洋の作品は重厚感という点で軽く見られがちなのですが、決してそんなことはありません。こうして展示する機会にじっくりと見ていただければわかると思いますよ」

 

 

川勝堅一と晶子さんの関係も細やかなものだったのでしょう。川勝コレクションには、川勝堅一が高島屋の取締役に就任した時に、晶子さんから贈られた祝福歌15首の自筆原稿も展示されています。
「自筆原稿というのは、決して読みやすいものではありませんが、作者が実際に書いたものに触れることが出来るというのは、やはりいいことだと思います」

 

 

こうして見ていくと、小さな企画展故に一点のテーマで深く掘り下げられており濃厚な展覧会になっています。

後篇では、与謝野晶子を支えた3人目。実業家としてはとてつもないビッグネームのあの人について触れることにします。

 

さかい利晶の杜
堺市堺区宿院町西2丁1−1
072-260-4386
http://www.sakai-rishonomori.com/

 

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