松岡祐太 バレーボール選手(堺ブレイザーズ)
新生V.LEAGUEとなった、バレーボールの男子トップリーグ。2018-2019シーズンも終わり、堺市をホームタウンとする堺ブレイザーズは、昨季を上回りファイナル6入りを果たしました。
そしてシーズンが終わると、コートを去る選手が発表されます。今年は、3人の選手の現役引退が発表されました。それは内藤和也選手、松岡祐太選手、堤智久選手の3選手です(後にジョルジェフ・ニコラ選手の退団も発表される)。
決して長いとはいえないバレーボール選手の現役生活を終えようとしている今、3選手に自身のバレーボール人生を振り返ってもらいました。
トップバッターは、サウスポーのオポジット松岡祐太選手です。貴重なレフティーとして、当たりだしたら止まらない切れ味鋭いスパイクやサーブで会場を魅了してきた選手です。果たしてどんなお話を伺えるでしょうか?
■田舎のスポーツ少年団でバレーボールをはじめる
――松岡選手がバレーボールを始めたきっかけはなんでしょうか?
松岡「仲が良かった友達がバレーボールをするというので僕も始めたんです。中学校1年生の時でしたね。福井県の相当な田舎で、スポーツ系の部活動といえば、剣道、野球、バレーボールに卓球ぐらいしかなかったんです。入ることが出来る部活動が限られていました」
――その頃から背丈は高い方だったのですか?
松岡「そうですね。一応背の高い方でした」
――成績的にはどうだったのですか?
松岡「監督、メンバーも良くて、先輩たちの時から少しずつ強くなって、僕らの代で県で優勝もしました。ただ全国の中学校の大会には出ることが出来なくて、それが残念でした」
――では、高校もバレーボールで全国を目指そう! みたいな気持ちで進学したのですか?
松岡「進学した福井高校は県内では強豪でしたが、そこまでやる気があったわけではないんです。高校を卒業したら就職するのが一般的な田舎だったので、手に職をつける工業系をメインにして、友達が行く高校に一緒に行こうと考えていました。その中でバレーボールが出来たらいいなと思っていたのですが、高校の監督さんにバレーボールで誘ってもらえました」
――高校ではどんな活躍を?
松岡「一年からスタメンで出ることが出来ました。強豪校でしたから、全国大会も何回も経験させてもらいました。先輩の力もあって、ベスト16やベスト8にも行かせてもらいました。春高バレーは出たのですが、インターハイには行けなかったのが悔やまれます」
■地元を離れて
――さて、立派な成績でしたが、高校を出たら就職という考えは変わらなかったのですか?
松岡「やはり、そのまま就職しようと思っていましたが、中学の時の恩師から、行けるなら大学は出ろとアドバイスされて、スポーツ推薦で愛知学院大学へ行くことになりました」
――福井から愛知へ引っ越しですね。
松岡「県から離れるのが一苦労でした。福井から出たくはなかったのですが、ここは腹をくくって行くことにしたのです。でも、愛知でも外れの方だったこともあって住みやすくて、結局ホームシックになるわけでもなく、居心地が良かったです」
――バレーボール選手としてはどうでしたか?
松岡「大学の2年生の時にオポジットのポジションをさせてもらったのですが、それが転機だったと思います。そこの経験があって、今に生きています。当時は筑波大学が強かったのですが、4年生の時に、その筑波に全日本インカレで負けて終わりました」
――お話を伺うと松岡さんは、中学生時代からずっと全国でも活躍してきたわけですが、トップリーグで戦うバレーボール選手になろうと考えたのはいつ頃からだったのですか?
松岡「想像も出来なかったですよ。次は社会人バレー、実業団なのかな、とは考えていましたけれど。ここに進んだきっかけは、大学の東西対抗です。12月のインカレの後に、大学の東選抜と西選抜が戦うのです。自分は3年生の時から呼ばれて活躍できたのですが、その対抗戦が開催されていたのが、この場所、新日鐵住金堺体育館(現・日本製鉄堺体育館)だったんです。3年生、4年生と活躍したのが認められて、周りの方がプッシュしてくれ、チームも必要としてくれたこともあって、堺ブレイザーズに入団することになったんです」
■熱いチームに入団
――堺ブレイザーズに入団して第一印象はどうでしたか?
松岡「選手のみなさんが大人だなと感じました。もちろん自分も成人は迎えていたけれど、学生上がりでしたから、社会人としての立ち居振る舞いに、1年目のギャップを感じました。丁度、チームとしては、金井修也選手(セッター)、エンダキ・エムブレイ選手(オポジット)が引退された年でした。堺ブレイザーズはクラブチームとして、リーグの先頭を行かなければいけないチームだという意識があって、選手全員のプロ意識が強かったですね。優勝以外は意味がないと思っていたし、ファンを大切にしていて、みんながみんなプロ意識が高かった」
――選手として自分が通用するという手応えのようなものはいつ頃からもてたのですか?
松岡「自分はウェイトトレーニングをしてこなかったので、体の強さは全然違いました。体の差は特に想像していたよりも皆すごかった。頑張らないといけないと思いましたね。だから若手の頃はやっていけるなんて一切思わなかったです。実力が同等に立っていなかったから。やっていけるなというのは、自信を持って言えなかった。でも、1年目に近畿総合という大会で優勝できたのは自信になりましたね」
――松岡さんのポジションはオポジットで、堺ブレイザーズでは強力な外国籍選手がライバルとして存在しましたね。試合には途中交代で出場することが多かったと思うのですが、選手として難しいところがあったのではないですか?
松岡「そうですね。試行錯誤はしましたが、どれが正解だったかは、答えが見つからなかったです。スタメンもプレッシャーがありますが、途中交代は難しい。いかにコートで早く馴染めるか、それがはまってくれたらいけるのですが」
――これまでプレーをしてきて一番の想い出はなんでしょうか?
松岡「どの年も良くも悪くもありました。今振り返れば全部が想い出でしたね」
――松岡さんにとって堺ブレイザーズとはどんなチームでしたか?
松岡「入った時から、鉄人。熱いプレーのチームでした。特に観客を巻き込む熱さに関しては熱くて良いチームだと感じていました。チームメイト同士の仲が良いというよりは、チームワークが良いチームでした。クラブチームとして、みんなで支え合ったチームでしたね」
――ちなみに、堺というまちで暮らしてみてどんな印象でしたか。
松岡「大阪なんで、めちゃめちゃ都会なのかと恐る恐るきたら、人情味のある人が多いまちでした。全然知らない方からも声をかけられたりもしました。田舎ではないけれど、都会過ぎない感じもあって、すぐ馴染めて、住みやすかったですね」
――さて、現役生活を振り返って、やりきった感じでしょうか、それとも悔いが残る感じでしょうか?
松岡「悔いは絶対に残っていると思います。リーグ優勝はしましたが、優勝した、していないにかかわらず、(バレーボール選手として)いい形で終わるのは難しい。ほんの一握りだと思います」
――では、今後のことですが、現役生活は(インタビュー時点では)残すは黒鷲旗大会のみとなりました。
松岡「1日1日をスタンスは変わらないけれど全力で、変わらずに続けていこうと思っています。もっと思うように、全力でやれることをやっていこうと思います」
――現役引退後については何か考えていますか?
松岡「バレーボールに関わることをやりたいと思っていますが、その先はバレーボールと関係ないこともやりたいですね。セカンドキャリアの選択肢を狭めないで考えたいです」
――では、バレーボールをはじめた子どもたちに何かアドバイスをおくっていただけますか?
松岡「バレーボールをはじめたばかりの子には、まず楽しんで欲しいなと強く感じます。楽しくないと、苦痛になってしまったら意味がないです」
――将来バレーボール選手になりたいという子には?
松岡「今は色んなポジションを同時にできる選手が増えてきています。上に上がれば固定されることになると思うけど、ミドルブロッカーだからサーブレシーブの練習はしませんとかでなく、自分の可能性を広げる意味では、リベロでもスパイクの練習をしたりとか、他のポジションのプレーをすることで視野が広がります。やる気があるのであれば、色々やっていけばいいと思います。自分もそうすべきだったと、今になって思いますしね。もちろんそのポジションをやり遂げることも大切です」
--今日はありがとうございました。
チーム内のライバルは常に強力な外国籍選手だった松岡選手。限られた出番は、どちらかといえばあまり状況の良くないシチュエーションで巡ってくることが多かったのではないでしょうか。それでも、しなやかなサウスポーは、抜群の切れ味の一撃でコートを沸かせてくれました。
このインタビューでは、癒やし系の空気を漂わせ、穏やかな口調で真摯に質問に答えてくれました。これから先のキャリアは、バレーボールに限定しないとのことですが、きっとどこであっても、マイペースで柔軟に対応し、実力を発揮されていくのではないでしょうか。