空爆を生き延びたマンガ少年(1)

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1945年7月10日の未明。B29の大群が焼夷弾の雨を降らせ、堺は炎に包まれました。3000人近い死者・行方不明者を出した堺大空襲です。この年本格化した空爆によって、堺だけでなく日本全土を炎に包まれました。
その当時を知るものも少なくなり、記憶も薄れつつある73年後の2018年7月13日。堺区八千代通にあるカフェ「きらっと」の壁面には、柔らかいタッチのまんが作品が展示されていました。それは戦時中のこどもたちの暮らしや、原爆を生き延びた体験をテーマにした作品でした。
作者は大阪の大空襲を生き延びた竹村健一さん。この日、竹村さんを招いてのお話会が開催されました。80才を越える竹村さんの画風は、デフォルメとリアリズムが絶妙に同居したもので、しっかりとしたまんがのタッチで、あの誰もが知る巨匠を彷彿とさせます。一体、いつどこで竹村さんはこの画力を見につけたのかも不思議です。
今回は、竹村さんの戦争体験談となぜまんがを描くようになったのか、それを当日集まった他の戦争体験者の体験談を交えながら、3回シリーズでお伝えします。
■14回目の『平和のための戦争展』
小松清生さん
▲つーる・ど・堺には度々登場していただいている小松清生さん。堺たんけんクラブや大和川での活動など八面六臂。
実は、この展示とお話会は、7月末に開催される「平和のための戦争展2018」のプレ企画として企画されたものでした。「平和のための戦争展」の開催は、今年で14回目となります。主催者の1人・小松清生さんには、今回は特別な感慨がありました。小松さんは冒頭の挨拶で切り出します。
「今年はようやく堺市から初めて後援をつけてもらえたのです。なかなか簡単にはいかないことでしたが、実はこれまでも堺市の方が様子を見に来てくれていたそうなのです」
ついに行政からも、小松さんたちの長年の努力が認められたのでした。
「堺市も前向きになってくれましたし、小学校でも校長会にはかってくれたこともあって、(7月13日)現在で32校の小学校でチラシを全校生徒に配布してもらえました」
過去を振り返ると、竹村さんと小松さんとの出会いは、第2回の「平和のための戦争展」に遡るそうです。新金岡小学校の小南先生が、教え子のおじいちゃんとして同行されたのです。それより前、堺市発行の戦争体験集で竹村さんの絵に出会い、この先生にお会いしたいとあこがれていたのです。
「そして、私は錦小学校に勤めていて4年生の担任でしたので、昔の暮らしの授業に竹村さんをお呼びして戦時中戦後の暮らしについて話していただくことになりました。1時間では足りないということで、2時間枠で喋っていただきましたが、竹村さんの体験があり、漫画があり、写真もあり、こどもたちはものすごく真剣に話を聞いていました。それで翌年の第3回「平和のための戦争展」には、教え子のおじいちゃんとして来ていただきました」
では、そんな竹村さんの体験とはどのようなものだったのでしょうか。竹村さんご自身の口から語られる半生について耳を傾けてみましょう。
■空爆下を生き延びて
竹村健一さん
▲戦争体験をまんがにされた竹村健一さん。
竹村健一さんは、1937(昭和12)年の生まれ。出身は、大阪市西成区で天下茶屋の近くだったそうです。
「薬局をしていた私の父は徴兵され、日米開戦の前に帰されてきました。体が弱くてひどい痔だったのです。これは幸運だったかもしれません。もう少し時期が遅かったら、痔ぐらいなんだ、と帰されなかったでしょう」
1941年12月8日の真珠湾攻撃で日米開戦し、日本帝国軍は戦線を拡大し続けますが、1944年11月にはB-29による本土爆撃が始まり、翌1945年3月10日には10万人もの死者を出した東京大空襲が起きます。
「それまでも結構空襲はありました。艦載機による空襲もありましたが、南方のサイパン島やテニヤン島が全滅してB-29 が飛んでくるようになりました。最初は1万メートル以上の高さから砲兵工廠を狙っていたのですが、なかなか当たらない。アメリカ軍の司令官が変わって、低空からの無差別攻撃になって、女子供もお構いなしになったのです」
アメリカ軍が使用した爆弾は焼夷弾でした。木造建築が多い日本の都市を研究し、一般市民にダメージを与えることで戦争を終わらせようと考えたのです。
1945年3月10日の東京大空襲を皮切りに、名古屋、大阪とその最初の大空襲が3月13日の大阪大空襲でした。竹村さんの住む西成区も空襲にあいます。
「大空襲の時は墓地に逃げ込んだのですが、不思議とB-29が墓地に爆弾を落とさなかった。空襲が終わって家に帰ったら、丁度家が爆発的に燃えだした所でした。薬局だったので、保管していたベンジン、アルコールなどに火がついて燃えだしたのです。それを見て母が『うちの家よう燃えてるやんか、今頃』とやけくそのように言ったのを覚えています」
ランチ
▲カフェ「きらっと」のランチ。お魚をメインにヘルシーなランチでした。
この日の空襲だけでも死者は3115名、焼失した家屋は13万戸を越えました。
「祖母の家が焼け残ったので、焼け出された人たちが今日だけは置いてくださいと頼み込んでやってきました。祖母はいいですよと言って、家は知らない人で一杯になりました。でも、食べ物が無くて困りました。向いの家の蔵に置いていて黒焦げになった米があったので、わけていただき焦げ臭い米を皆で食べました。とにかくまちには食べ物が全くといっていいほどなくなっていました」
焼夷弾の雨と炎を生き延びた人々を待っていたのは、飢餓の地獄でした。
■困窮する生活
向井さん
▲ご近所にお住まいの向井さん。終戦時16才。もう少し戦争が長引けば戦場に行っていたかもしれません。
この日、竹村さんのお話会に参加した人たちの中には、戦争体験者が少なからずいました。その中でも最年長での向井さんは、当時は16才で高野山に住んでいました。
向井さんは、食糧不足で堺からも食糧を求めて人がやってきたことを良く覚えているそうです。
「堺から電車でやってきました。女の人が駅から2里ほども歩いてきて、女性の着物をお米やこも(むしろ)と交換するのです。それから重い荷物を担いで2里の道を帰るのですが、帰りの電車で検査が入って、みんな闇物資と言われて没収されました。家族のためのものやとゆうても通用しなかった」
食糧だけでなく、金属も町から姿を消していました。
「金属は供出やというと、火鉢もお寺の鐘も、学校の鉄棒や屋上の鉄柵も供出させられました」
「お寺の釣鐘堂に何もないのは寂しいからと、石やコンクリートの塊をぶら下げたりしていましたね」
金属は全て軍艦や戦闘機、武器に使われたのですが、終戦間近になると最優先の軍隊にも金属が回らなくなっていました。
「工場へ行っていた中学校の女の先生から聞いた話ですが、戦闘機のボディもベニヤ板、プロペラもペラペラだったそうです」
きらっとでの展示
▲「きらっと」の壁面に展示された竹村さんの作品。「きらっと」はちょっとしたギャラリー並みにスポットライトが充実していました。
金属不足は戦後も続きました。工場跡に建てられた学校の校庭では、、みんなで掘り返して集めた鉄くずを売って学級費にあてたりもしたとか。戦後生まれの小松さんも、永久磁石で鉄くずを集めた記憶があるのだとか。
戦争が終わっても、すぐに生活が楽になるわけではない。そんな話は、竹村さんと戦争体験者の皆さんから、この後も何度も聞かされることになります。(中篇へ)
きらっと

大阪府堺市堺区八千代通3−26
072-227-7150
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