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門を開いた愛染院(1)

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堺で歴史のあるお寺というと、南宗寺や妙国寺といった旧市街区を抱えた堺区のお寺が有名ですが、もちろん名刹は他の区にもあります。今回は、大寺院に負けない歴史あるお寺の1つとして、北区にある普光山愛染院を訪ねてみました。
愛染院の本堂は江戸時代初期に建造され、秘仏である観音様は平安時代のものとされ、どちらも堺市の指定有形文化財です。
この由緒あるお寺の現住職は野口真龍さんです。野口さんと親しい落語家の桂紅雀さんのよると、野口さんは10年以上前から様々なイベントを開催し活気あるお寺になっているのだとか。
しかし、野口さんが愛染院にやってきた当時は、かなり寂しいお寺だったそうです。歴史がありながらもさびれたお寺が、落語家や地域の方も親しく門をくぐるお寺になるまで、一体どんな経緯があったのでしょうか。

■棟札が証明した文化財
地下鉄御堂筋線「北花田」駅からほど近く、住宅地の中に愛染院はあります。「普光山愛染院」の表札がかかった山門の扉は大きく開かれていました。ご近所の方でしょうか、丁度門を通って本堂にお参りしてそのまま帰られる方の姿も見られました。地域の生活に溶け込んだお寺といった印象です。
インターホンでご挨拶すると、すぐに住職の野口さんが現れて招き入れてくれました。
まずは野口さんからお寺に伝わる愛染院の歴史を語っていただきましょう。
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▲愛染院の住職・野口真龍さん。

普光山愛染院。寺伝によれば、行基菩薩によって奈良時代の天平年間に開基され、創建時は普光山池浦観音寺と称していました。
「ただ行基開基の四十九院の中に、池浦観音寺の名前はありません。だから堺市のホームページの観光案内にはこの話は載っていません。江戸時代以降の三つの資料が残っているのですが、その三つの資料に大体同じように、寺伝ということで伝わっています」
現在の堺市西区家原寺出身の僧行基は、お寺やため池・橋などを数多く作りました。『行基年譜』という資料に名前のある四十九院は確かに行基開基のお寺とされていますが、それ以外にも行基開基とされる寺院は日本中に存在します。行基の徳を慕ったり、箔をつけるために、自分たちの歴史に行基を取り込んだのでしょう。
ただ行基には彼の弟子や支持者として「知識」と呼ばれる集団が従っており、行基に代わって現地に赴いて建設に関わった可能性もあるので、すべてが伝説とはいいきれません。行基の故郷とは目と鼻の先にある池浦観音寺もそうした、知識の関わったお寺かもしれませんね。
その後、安土桃山時代の天正年間になると織田信長の兵火によって愛染院の諸堂が焼失してしまいます。
「本当かどうかはわかりませんが、ご近所に伝わる話では、火災が迫った時に観音様を池の中に投げ入れて避難させて、そののちに引き上げたのだというのです」
寺伝では、本尊の観音像は、船堂村(現在の堺市北区船堂町)の道専居士が造った土室に安置されていたそうです。その後、江戸時代の慶安年間になって現在の位置に、今の本堂が建立されます。
「慶安年間の棟札が残っていて、慶安5年(1652年)にここに建立されたことが証明されたのですが、建物を鑑定してくださった方によると、おそらくその時に作られたのではなく、以前に建造されていた建物を移築したものではないかということです」
この本堂は文化2年(1805年)に大修理が行われているのですが、その時の棟札も残っています。
「昔はこのあたりは旧国では泉州ではなく河内でした(昭和38年まで南河内郡大字蔵前)。このあたりに領地があった秋元但馬守(秋元家は幕末には上野館林藩を治める)が愛染院への信仰が篤かったらしく、大旦那として文化2年の棟札に名前が残っています」
文化2年の棟札には「普光院観音寺愛染院」と記載されており、もともとは観音寺の塔頭として愛染院が存在したのではないかと思われます。

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▲愛染院の価値を証明した棟札。向かって左は文化2年の大修理の際の棟札。右は慶安5年の建造時の棟札。
愛染院に大事に保管されている棟札二枚も見せていただきました。
「この二枚の棟札が残っていたことが確かな証拠となって、堺市から文化財の指定をいただく事が出来たのです」
大名にも信仰された愛染院ですが、”景気のいい”お寺にはなりませんでした。それには、こんなわけがあったのです。

■弘法大師を追い返した、札はずれの観音様
普光山愛染院は真言宗のお寺です。真言宗といえば弘法大師空海ですが、愛染院には弘法大師にまつわる話が残っています。
「昔は近所の人に愛染院という名前を言っても通じないことが多かったのです。お年寄りなんかは『愛染院ってなんや、観音さんのことかいな』と『観音さん』と言わないと通じなかったりもしました。そうした土地の人に伝わっている話で、本当かどうかは知りませんが、こんな話があります。実はこの愛染院に、お大師様(弘法大師空海)がやってきたことがあったのです。しかし朝早かったので門が閉まっていたのですね。それでお大師様はそのまま藤井寺にいかれて(紫雲山)葛井寺が五番札になった。もし起きていたら第四番槇尾山旋福寺に続いて、愛染院が第五番になっていたはずなのになり損ねた。だから愛染院は『朝寝の観音、札外れ』と言われるのです。『起きていてくれたら、ここは門前市でみんな儲かったやろうに』って近所の方はおっしゃるのです」
地域に伝わる伝説はどうあれ、愛染院は遠方から参拝者が列をなすようなお寺ではなかったものの、江戸時代には秋元但馬守のようなスポンサーもいて大修理を行うようなこともできました。ところがその状況も変化します。

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▲平安時代の秘仏である観音様が収まっている厨子。
「江戸時代が終わって明治になると、廃藩置県が起きて大名がいなくなります。愛染院も館林藩のようなスポンサーの支援もなくなってしまいました。しかし、お寺に田んぼがあったので採れるお米で住職と弟子ぐらいならなんとかやっていけたのです」
普通お寺というと檀家に支えられているイメージがあるのですが、当時の愛染院はほとんど檀家がなかったのだそうです。
「昔から真言宗は庶民の檀家ではなく、武家や公家がスポンサーになって鎮護国家や加持祈祷を任されてきた宗派でした。また大阪は浄土真宗が多いこともあって、大阪の多くの真言宗のお寺は檀家がほとんどないスタイルでした。ちなみに、真言宗が多いのは四国四県と和歌山県や岡山県で、真言宗の王国と言えますね」
大スポンサーが消えて明治に入ってからは田んぼのお米で食いつないでいた愛染院ですが、今度はその田んぼすら失ってしまいます。
「昭和の戦後になってGHQの指導のもと農地解放がなされました。それで愛染院の田んぼもわけてしまったのです」
日本の歴史の変動と共に、愛染院はスポンサーも田んぼもなくして、ただ10軒ほどの檀家さんに支えられて昭和の時代を過ごしたのだそうです。

■何もないお寺を引き継いだのは……
そんな愛染院にやってきた野口住職は、実は羽曳野にある野中寺の次男として生まれました。それが愛染院の住職になったのはこんな経緯でした。
「愛染院の前のご住職は池浦さんというのですが、ご子息は社会人をされていたのですね。その池浦さんは長生きなさって96才で亡くなったのですが、その時すでに息子さんも70代で今更お坊さんになるのも難しい。そこで息子さんが、縁のあった野中寺にやってこられて、愛染院の面倒を見てもらえないかとおっしゃったのです。だったらこの次男をやりましょうということになって、私が愛染院の住職になったのです。24歳の時のことでした」
それは昭和62年のことで、世の中はバブルの景気に沸いていましたが、檀家が10軒しかない愛染院は物静かなものでした。
「お盆の時も、他のお寺が大急ぎの中、午前中だけで檀家回りが終わってしまう。他所は景気がいいのに、景気の悪いお寺でした。それで何もやることがなくてひまなので、考える時間だけはたっぷりありました」
このたっぷりあった「考える時間」が、野口さんと愛染院の運命を変えることになります。
中篇へつづく)
※愛染院 節分のふるまいぜんざい
■日時:2018年2月3日(土)
 10:00~ 野口真龍住職による法話
 11:00~ 振舞いぜんざい
高野山真言宗 愛染院
堺市北区蔵前町2丁12-12
TEL 072-252-0795

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