白鳥の軌跡を追って~大鳥大社~1
桜は葉桜に、入れ替わるようにツツジが花咲く境内。珍しい八角柱の鳥居をくぐって訪れたのは、堺市西区鳳にある大鳥大社です。神社には森がつきものですが、この森は「千種の森」といわれ、ヤマトタケル伝説のある森です。そして、行基建立の「神鳳寺」もかつてこの境内にあったとか。
数々の歴史と伝説が彩る大鳥大社の境内をゆくと、丁度一人の男性が落ち葉掃除をされているところでした。この方が大鳥大社の禰宜(ねぎ)を務める水無瀬忠俊さんでした。
▲禰宜の水無瀬忠利さん。 |
■神話時代~白い鳥終焉の地
「春と秋は落ち葉が大変で」
なにしろ大鳥大社は泉州の神社の筆頭である「和泉一宮」とされ、「摂津一宮」の住吉大社などと肩を並べる神社で、一万坪ほどの敷地があります。
素朴な疑問としてこの神社は「大鳥」大社と二文字で「オオトリ」を書きますが、町名や駅などでは「鳳」と一文字で書きますが、なぜなのでしょうか?
「おそらく二文字の大鳥の方が古いんでしょう。大鳥大社に遠慮して、地域の方が地名には一文字の鳳を使われたのではないでしょうか」
この大鳥大社にお祀りされている祭神の一柱は「大鳥連祖神」(オオトリノムラジノオヤガミ)で、古代には「大鳥氏」という天皇に身近に仕える有力な氏族がこの一帯を治めていました。
「大鳥を治めていたから大鳥氏なのか、大鳥氏が治めていたから大鳥なのか。氏族名が先か地名が先かはよくわかりません」
▲本殿は大社造りの次に古い作りである大鳥造り。その後、住吉大社の住吉造りが登場する。この本殿には官幣大社ゆえ、菊の御紋の使用が許されている。 |
境内には、古代の装束をつけた若者の銅像があります。これは大鳥大社のもうひとつの祭神「日本武尊」(ヤマトタケル)です。
第12代景行天皇の息子である日本武尊は、父の命で西国から東国へと遠征し、伊吹山の神と対峙して病を得て伊勢国で薨去(こうきょ=皇族などが死ぬこと)します。日本武尊の魂は大きな白い鳥となって飛び立ち、大和国琴引原、河内国古市に一端降り立ち、最後に大鳥に降り立ちます。
「その時に一夜にして樹木が生い茂り『千種の森』(ちぐさのもり)となります。これは日本武尊の魂をそこにとどめたいということなのでしょう。ここでどうぞお休みくださいと。大鳥の人にとって、日本武尊が降り立った最後の地だというのは、長く自慢となっていると思います」
▲祭神の一柱である日本武尊像。昭和59年に奉納されたもの。 |
つーる・ど・堺で取材した南区の伝統的な「こおどり」は、もともとは上神谷に降り立った天照大神の化身である神鳳を祀った國神社に伝わるもので、後に神鳳は大鳥大社で祀られるようになったと伝えられていました。
大鳥大社ではこの伝承は伝わっているのでしょうか。
「境内に大鳥美波比(みはひ)神社があり、天照大神がご祭神です。もともとは大鳥美波比神社は鳳の北王子にあり、その前はもっと南にあったと伝わっていますから、そのことではないでしょうか。白鳥伝説と(白)神鳳伝説が重なっている部分があるのではないかと思います。日本武尊の白鳥もいわゆる白鳥(はくちょう)ではなく、白い鳥、それもかなり大きな鳥のことでしょう。日本には古来、白いものに対する恐れや敬いがあったのです」
日本神話の白い鳥の伝説が、この大鳥大社の地に引き寄せられ舞い降りた。千種の森の梢にとどまる白い鳥たち。ふと、そんなイメージが浮かびます。
■歴史時代~神宮寺となる
その後大鳥大社は歴史の中に登場します。
河内国から分割して和泉国が誕生したころ(8世紀前後)。大鳥大社にほど近い家原寺出身の行基は、聖武天皇の命により大鳥大社の境内に寺を開基します。これが大鳥山勧学院神鳳寺、神社とお寺が一体化した神宮寺です。行基開基と伝わるお寺には、伝説だけのこともあるのですが、神鳳寺は「行基年譜」にも記載のある「四十九院」のひとつで存在が確かなものです。
「行基という人は、民衆を主に考えた方だったのだと思います。土木工事なども、民衆の声をきいてされた方です。これは宗教は違いますが、神道とも通じるところではないかと思います」
神職の水無瀬さんも行基には自然な敬意を抱かれていました。
10世紀前半の「延喜式神名帳」にも大鳥大社の名前は登場します。
「大鳥大社は特に霊験あらたかな名神大社でした。干ばつなどの時には一大事だから幣帛(へいはく=くもつ)を捧げて、顕著な働きのあるお宮=名神大社で祈祷をしなさいとされたのです。和泉にある名神大社は大鳥大社だけで、和泉一宮とされたのはこの時です」
▲平清盛の愛馬・飛鹿毛の神馬像。胴体にあるのは大鳥大社の紋。 |
名高い大鳥大社には、歴史上の有名人物も人生の一大事にあたって祈願に訪れています。その人物とは平清盛。熊野参詣の途中で平清盛・重盛親子は都で平治の乱が起きたという報を聞き、急ぎ取って返します。帰路、親子は大鳥大社に立ち寄り戦勝祈願のため愛馬と和歌一首を奉納したのです。
「愛馬の名は飛鹿毛、歌は『かひこぞよ かへりはてなば飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神』。『かひこ』とは蚕のこと。蚕が蛾にかわって飛びたつように、平家も武功をたてるので大鳥の神よ育んでほしいと、歌ったのです」
日本武尊は武勇の神であり、だからこそ清盛は大鳥大社で祈願したのでしょう。
その後、平治の乱に勝利した平家は「平家にあらずんば人にあらず」と権勢を誇ることになります。
しかし、大鳥大社/神鳳寺はしだいに荒廃し、大坂の陣では戦火のため灰塵に帰します。江戸時代に入って再建されたのですが、これ以降はむしろ神鳳寺として知名度が高くなっていたようです。大鳥神社はしだいに衰微し、古代から続く大鳥氏も廃絶してしまいます。
「今、大鳥美波比神社のあるあたりに神鳳寺があったようです。当時は参道が東西にあって、本殿の向きも今は南向きですが、かつては東向きだったようです」
こうした過去の大鳥神社の様子を語る時、水無瀬さんの説明はどこか伝聞調になってしまうのですが、それにはわけがあります。大鳥大社というよりは、神鳳寺というまでになっていた神仏習合の神宮寺の様子がこれも歴史的大事件を機に一変したのです。それは明治維新の到来でした。
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大鳥大社
堺市西区鳳北町1丁 西区鳳北町1丁1ー2
TEL 072-262-0040
御祈祷受付9:00~16:30(予約不要)