赤レンガの遺産(1)誕生

2017_02_11_daiser1_00_face01.jpg
川を越えて電車が堺で最初の駅「七道駅」に到着する手前に、赤レンガの建物が見えてきます。
この建物が建てられたのは1910年(明治43年)というから、もう100歳を越える歴史的な建物です。今は、「イオンモール堺鉄炮町店」の敷地にただ一棟だけ残っているですが、つい最近までは広大な敷地に数多くの赤レンガの建物群が広がっていました。
それはダイセル化学工業株式会社(旧称:堺セルロイド株式会社)の堺工場でした。
この工場は1世紀に渡って存在し、日本の近代化や堺の工業化と発展に貢献してきました。工場の100年を振り返ることは、わたしたちの住む町の100年の歴史の一側面を知ることにつながるかもしれません。
まずは、100年前、明治から大正にかけての時代にタイムスリップしてみましょう。
■東京は壮大、大阪は個性的な洋風建築
この赤レンガの工場は、明治時代の末期に作られたいわゆる近代建築です。しかし近代建築と一口でいっても、幕末から明治にかけての半世紀の間にも様々な変転があり、また地域によっても違いがありました。
まず、大阪は建築の近代化についていえば、東京に遅れていました。
大名屋敷などが多かった江戸=東京と、町人の商店が多かった大坂=大阪では、町割りの大きさも違っていて、せせこましい大阪では壮大な洋風建築を建てづらかったようです。そして何より、西洋化を急ぐ首都東京とは必要性が比べられなかったということかもしれません。
大阪に本格的な洋風建築の波が押し寄せるのは、明治30年代以降のことのようです。
2017_02_11_daiser1_01_hamadera01.jpg
▲堺にある辰野片岡建築事務所の建築といえば、南海本線「浜寺公園」駅の駅舎。
大阪近代化の流れが一足遅れたおかげで、試行錯誤を経て日本の建築界が成熟して日本人建築家も育った、その成果を受け取ることも出来たともいえそうです。
大阪の近代建築をリードしたのも、そうした建築家たちでした。たとえば建築界の巨人・辰野金吾が大阪の片岡安と手を組んで作った「辰野片岡建築事務所」もそうです。堺の人にとって馴染みのある浜寺公園駅の駅舎などが「辰野片岡建築事務所」の作品ですが、東京に比べると壮大な建築は少ないものの、当時流行の様式や独自のデザインを大胆に取り入れるなど大阪の洋風建築はユニークなものが多いのだとか。
また、施主も建築家に任せっきりの東京に対して、大阪の施主は建築家にガンガン注文をつける傾向がありました。大阪人に、新しいもの好き、珍しいもの好き、一言居士が多いのは、どうやら昔からだったようですね。
■赤レンガ工場の誕生
では、堺の赤レンガの工場が生まれたのは、どんな経緯があったのでしょうか。
まず、セルロイドの化学工場を大和川のそばに建てることになったのですが、こうした最新の化学工場を建てるためには、西洋建築の技術を使わなくてはなりませんでした。それは大型の機械を入れ、機械と機械の間をパイプや動力伝達機関をつなぐためには、柱と柱の間隔も広い大きな空間が必要だからです。これを和風の建築技術で行おうとすると、お寺のお堂のように巨木の木材が必要になってくるため、材料の入手からも現実的でありません。
当初、堺セルロイドの工場群の建築計画は、アメリカ人化学者アクステルに依頼されました。明治初期の文明開化の頃などには、このように建築家ではない技術者に建築まで任すケースがあったようです。アクステルの設計では、安全管理上全ての建物に地下室が設けられていたのですが、工場の用地が大和川近くで地下水位が高いためそのままでは問題がありました。あくまで化学の専門家であって、地質的な問題にまでは対応できなかったのでしょう。
そこで登場したのが茂庄五郎という建築家です。茂庄五郎は、片岡安よりも一世代前の明治20年台から工場建築専門で知られた建築家でした。実績のあった茂建築事務所に依頼して、建築計画が練り直され、建築されることとなりました。
2017_02_11_daiser1_02_yamatogawa01.jpg
▲工場脇の大和川には、潮止めのダムが作られていましたが、今は役割を終え撤去されています。
建築計画を練り直してまで、なぜ大和川近くに工場を作ったのかというと、それは大和川の水量と水運を利用するためでした。
大和川に潮止めのダムが作られたのも、この堺セルロイドのため。このダムで海水が川の水に混じるのを防ぎ、工場で使う真水を確保したのです。
ちなみに、このダムは近所のこどもたちにとってはかっこうの遊び場にもなりました。度胸試しでダムの上を向こう岸まで渡ったものは英雄になれたのだそうです。
こうして化学者と工場建築の専門家によって作られた工場は、建物が碁盤目状に建物が配置されていました。これは安全対策として「採光・換気・防火」に配慮したためで、建物の中には消火用スプリンクラーが、外部には消火栓が配置されていました。化学工場ということもあって、安全対策が徹底された設計だったのですが、後の戦後昭和の大事件を思うと、ちょっと皮肉なことのようにも思えます。
ともかくこうして、大和川の河畔に広大な赤レンガの工場群が誕生したのです。

後篇へ

※参考資料
「大阪府の近代化遺産」(大阪府教育委員会/非売品)
「水の都と都市交通」(三木理史/成山堂書店)
「日本の近代建築」(藤森照信/岩波新書)
「大阪の近代建築と企業文化」(橋爪紳也他/ブレーンセンター)

灯台守かえる

関連記事

Remodal

Remodalテスト

Write something.


PAGETOP

remodal