天下一の鉄砲鍛冶屋敷(3) 歴史を書き変える新発見
伊予大洲藩のお抱え鉄砲鍛冶で、最盛期は60藩もの大名と取引のあった日本一の鉄砲鍛冶・井上関右衛門は広大な鉄砲鍛冶屋敷を遺しました。鉄砲作りも鍛冶屋も辞めた今も、第二次世界大戦の戦火を免れたこともあり、鉄砲鍛冶屋敷は往時の姿を保っています。
戦国時代から、江戸を経て、明治・大正・昭和の井上家の歴史を駆け足で辿ってきましたが、後篇では、いよいよ平成に入ってからの驚きの大発見について迫ります。
■平成の鉄砲鍛冶
現当主井上修一さんの弟・井上俊二さんが、はじめて大洲市を訪れたのは17年ほど前のことになります。
「驚いたのは、大洲市では井上関右衛門の名前が有名で良く知られていたことです。市役所の観光課だったかと思うのですが、お願いすると後日しっかりした資料が大洲市から送られてきました」
井上さんは、「関右衛門」が大洲藩お抱えの鉄砲鍛冶であることを越えたブランドだったことを知りました。こうして井上家と大洲市の関係がはじまり、俊二さんも個人的に井上関右衛門に関する調査をはじめるようになります。
「2年前に大洲城復元10周年記念式典で特別展示として『井上関右衛門展~大洲藩の鉄砲を作った職人~』が開催されました。このイベントに堺からも参加するために、堺観光ボランティアの土井健一氏が大洲市と調整され当主修一氏・弟俊二氏をはじめ観光ボランティア11名・堺市文化財課の職員4名が参加しました。観光ボランティアは甲冑姿で応援し、華美芝居や天守閣では井上関右衛門のガイドし盛上げました。当主井上修一さんは式典で清水大洲市長から感謝状を賜りました。『関右衛門』が、大洲市で大々的に取り上げられるほどの存在だということに、堺市の方も認識を新たにされたようです」
この訪問をきっかけにして堺市における鉄砲屋敷の調査も進展しました。
▲井上家で使われていた天秤。大洲市の『井上関右衛門展』のポスターにもなりました。 |
井上家の方でも驚きの発見がありました。所蔵されていた膨大な資料が発見されたのです。この資料は、関西大学なにわ大阪研究センターで調査がはじまりました。
「何しろ古文書なので私たちには何が書いてあるか読めませし、膨大な数量になりますので協力していただきました。今で調査をはじめて3年目になりますが、まだまだ読み切れていません」
この資料に関しては、幕末に井上家を大いに発展させた井上関右衛門寿次さんの人柄がうかがえるエピソードがあります。
「なにわ大阪研究センターの方が感心していたのですが、資料の保存状態が非常に良くて、綺麗に整理されていたんだそうです。もし、これほど状態が良くなかったら、資料の解読にはもっと時間がかかっているはずです。この資料の保管と整理をしたのは、年代的にいっても寿次さんのようなんです。後世にこうやって調べられることも意識されて、こういう仕事をされたんじゃないかとも思えます」
10代目井上関右衛門寿次も、業績の巨大さに対してその名が広まっていない、知られざる堺の偉人の1人といえそうです。
▲井上家には槍や弓も所蔵されていました。記録によると寿次は、文久3年(1863年)にロシア艦隊がやってきた時に、大洲藩の依頼で家来3人と出張しているそうです。井上家と大洲藩には深い縁がありました。鉄砲鍛冶というだけでなく、武士待遇だったことがこのエピソードからも伺えます。 |
■未来永劫の文化資産に
「日本には剣術が500流派、鉄砲200流派があるそうですが、他では聞いたことがない流派の鉄砲の秘伝書も出てきました」
鉄砲鍛冶屋敷から発見された資料の中からは、剣術や鉄砲術に関する秘伝書のようなものも数多く出てきました。そればかりか、鉄砲製造に関わる貴重な資料も多くあって、安全のためにも堺市に保管をお願いしたそうです。
「出てきた資料の中には、これまで定説となっていた火縄銃の歴史が一変するんじゃないかと、なにわ大阪研究センターの方もおっしゃっています」
調査が進めばどれほどの新事実が明らかになるか、今から楽しみです。
▲壁のように見えるのは、実際に使用していた巨大なふいご。手前にあるのは、その模型。両側から押し引きするごとに空気を押し出す無駄のない優れた構造になっている。右手に見えるのは、試射用の的。 |
日本で唯一の鉄砲鍛冶屋敷は、大洲市との交流や資料の解析によって、ますます貴重なものであることがわかってきました。
「わたしたちは、この鉄砲鍛冶屋敷を未来永劫残していきたいと思っています。そのためには行政の協力も必要不可欠です」
堺の大切な文化資産である町家歴史館山口家住宅は江戸時代の庄屋の生活が伺える貴重なものですが、それと比べても鉄砲屋敷は所蔵していた資料の質と量は圧倒的です。資料が整理され恒常的に一般公開されるようになれば、多くの人を驚かせる施設となることでしょう。
この堺市に遺された歴史文化資産をぜひ活用し、後世へと引き継いでほしいものです。それは、後の世へのまなざしを持った10代目井上関右衛門寿次の遺志にもかなうことではないでしょうか。
▲鉄砲だけでなく大筒も作っていました。細長い鉄板をぐるぐる巻きにして砲身を作ったようです。 |
鉄砲鍛冶屋敷
堺市堺区北旅籠町西1丁3-22
※内部非公開につき、外観からの見学をお願いします。