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千年の神事 こおどりのルーツを訪ねて 2

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「櫻井神社のこおどり」として知られるこおどりは、元来は上神谷の鉢ヶ峯寺地区に数百年の昔から伝わる國神社の神事でした。(前篇
現在は、上神谷(にわだに)地区全体の神事として大切にされているのですが、なぜそうなったのか、まずは地域の起源から歴史を紐解いてみましょう。 
 
 
■こおどりの起源 
上神谷(にわだに)という名も、神秘的な名前です。 
このあたりには神が降りてきた伝説があり、もともとは「上神郷(かみつみわのさと)」と言われていたそうです(http://niwadani.ojaru.jp/intro.html)。 
國神社は格の高い式内社で、江戸時代の百科事典「和漢三才図絵」によれば、「垂仁天皇8年(BC22年)に、天照大神が鳳凰に化して山の峯(襲の峯)に降臨し、垂仁天皇の皇子(ホムチワケ)が登臨して化跡を礼祭し、景行天皇二十四年に神託によって、武内宿禰に命じて社を営み、五十五年に神鳳を千種の森(大鳥神社)に移した」とあります。 
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▲石津川の上流にあって汚れない水に恵まれた上神谷の田園風景。大鳥神社との関係からも、神鳳信仰の奥の院といえるのではないでしょうか。

神様が降臨する神聖な上神谷というエリアで、國神社は稲作とも関係の深い天照大神の信仰から始まった神社だったようです。おそらく神の鳥は稲作に不可欠で恵みをもたらす太陽を象徴したものとして、神話の中に現れたものでしょう。 
最近はブランド米として上神谷米が知られるようになってきましたが、上質の水に恵まれた上神谷は古来から米作に適した土地で、こうした信仰が根付いたのかもしれませんね。 
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▲こおどりの踊りや衣装には、鎌倉時代や室町時代の面影が残る。
 
このような神話的な背景の中、こおどりは國神社で長らく旧暦の8月27日に神事として國神社に奉納されてきました。
起源を推測すると、踊りや衣装に鎌倉踊りや風流踊りの影響がみられることから、鎌倉時代か室町時代初期から始まったとされます。
こおどりの「こ」とは何かについては諸説あり、雨乞いから「乞おどり」、鬼神が背負っているかんこを子どもに見立てて「子おどり」、踊り手が鼓を持っているから「鼓おどり」などと言われています。 
 
長い歴史の中、地域に密着した神事だった こおどりですが、明治になって危機が訪れます。 
 
 
■こおどりの中断と復活 
明治に入ってから、神仏分離の廃仏毀釈活動は日本全国に広がりました。國神社ももともとは向かいにある法道寺と習合していたのが、分離させられました。そして、明治39年には神社合祀令が出され、國神社は櫻井神社に合祀されることになり、こおどりも執り行われなくなってしまいました。 
 
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▲櫻井神社の割拝殿は市内で唯一の国宝。この櫻井神社への合祀以前の日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37年~38年)もこおどりの中断する期間となったようです。
 
 
復活のきっかけは、昭和7年のことでした。 
廃仏毀釈・神社合祀令によって、こおどりだけでなく地方に伝わっていた伝統的な舞踊の多くが失われようとしていました。それを危惧した高名な民俗学者・柳田国男を筆頭に全国郷土舞踊民謡大会が企画され、、堺の郷土史家・小谷方明氏などの尽力で、昭和7年にこおどりに出演依頼があったのです。 
これをきっかけに昭和8年櫻井神社で試演会が行われ、その後東京都明治神宮外苑日本青年館で開催された、第7回全国郷土舞踊民謡大会に大阪府代表として出演したのです。 
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▲新發知(しんぼち)の口上は見所のひとつ。右手に持つ軍配の房が舞に合わせて美しい弧を描く。
それは30数年ぶりの復活でした。30数年といえば、丁度当家の当番が回ってくるぐらいの期間です。2016年に本当家をした北野さんのように、若いころに一度当家をした人もいたかもしれません。一世代前の記憶が残っており、なんとか伝統を繋ぐことが出来たのでしょう。 
 
鉢ヶ峯寺地区で「鉢ヶ峯寺こおどり保存会」が結成されただけでなく、上神谷の地域全体で大切にしようと上神谷のこおどり保存会、そして堺全体でもこおどり保存会が結成されました。 
以降、10月の第1日曜日に櫻井神社で奉納されることとなったのです。 
その後昭和の終わり頃には、鉢ヶ峯寺の若衆が中心になって、踊り手集団「鉢栄会(はちえいかい)」が結成されます。 
 
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▲扇振の子どもたち。地域の子どもたちは、小学校4年生以上になると、夏休みに10日間の練習に参加します。
 
「鉢ヶ峯寺こおどり保存会」の森口巌会長に話を伺いました。 
「少子化の中で、こおどりを継承していく良さと難しさが背中合わせにあります。室町、鎌倉から続く無形文化財で、いろんな謂れのある踊りですから、時代感覚でアレンジできないものです。基本形に基づいて踊らないといけない」 
正調は18名で踊るこおどりを、櫻井神社の奉納では25名で踊ったのですが、これも理由があります。 
「見に来てくれている方たちに、綺麗な踊りを見せたいという気持ちはありますが、子どもたちにもひのき舞台をあげないといけません。だから、子どもたちの間に、上手なベテランを挟んで奉納したんです。継承は絶対していかないといけないことですし、周知して認識してもらうことも必要です」 
 
伝統ある踊りを正しく見せるということと、継承していくということ、その2つを叶えることは簡単なことではないのですね。 
 
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▲鉢栄会やこおどり保存会に守られこおどりは続く。
この日、数百年の歴史を持つこおどりが、地域の生活の中で生きた伝統として息づいている姿を見ました。 
明治から昭和にかけては神仏習合や戦争という危機を乗り越えたこおどりは、平成になって今度は少子化や過疎化、地方の疲弊といった危機に面しています。地域の伝統行事が消失するか、ただの観光資源になる中、この危機も乗り越えて未来に続いて欲しい……、こおどりはそんな貴重な神事ではないでしょうか。 
 
  
取材協力:堺市文化財課 
 
 

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