木津川千年物語(4) 仏の道をゆく 瓶原

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日本各地で土木事業、まちづくりを行った堺出身の僧・行基。その足跡を追う「行基のまちシリーズ」。今回は木津川市・加茂地区編の後篇。僧侶たちが瞑想した辺境の聖地・小田原(当尾エリア)から、後編では行基が建造にかかわった恭仁宮が築かれた瓶原エリアへと向かいます。取材に協力していただいたのは、木津川市の西谷さんと、観光協会の渡辺さんです。
■行基と恭仁宮
陽が傾いていくなか、私たち一行を乗せた車は住宅地を通り抜けて広い公園まで来ました。ここに恭仁宮の痕跡があります。
長方形に盛り土され少し高台になったスペースは、知らなければただの空き地にしか見えないでしょう。この広々とした空き地のところどころに四角く切り出された大きな石が埋まっています。これは天皇が住まう宮殿である大極殿の礎石です。苔むして、摩耗もしていますが、1300年前の人の手になるものがそこにはしっかりと残っていました。
「以前ご案内したお客様が、ここがパワースポットだとおっしゃって、私はここに来るたびに行くようにしちゃうんです」
観光協会の渡辺紀子さんがそういうのは、おそらく聖武天皇が座った玉座のあたりです。
大極殿の大極とは北極星のことで、宇宙の中心を意味します。宇宙の中心に天皇がいて、政治を司るという、当時の日本人たちの世界観がここに表れています。
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▲パワースポットかどうかはわかりませんが、聖武天皇と皇后がこのあたりに玉座を置き座ったのではないかと思われる場所に碑がありました。
木津川市の西谷昌豊さんは、この跡地が思わぬ活躍をしたことを教えてくれました。
「平城遷都1300年祭の時に、平城宮大極殿を復元したのですが、その時に復元のもとにしたのがこの恭仁宮の礎石でした」
恭仁宮は、大急ぎで築かれた都でした。あまりにも突貫工事だったため、大極殿は平城宮にあったものを移築し、間に合わないところは幕を張って新年の儀式をしたほどだったそうです。そんな経緯があるので、恭仁宮の大極殿の大きさを測れば、平城宮の大極殿の大きさもわかるという寸法だったのです。
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▲大極殿の礎石が今に残ります。
大極殿から道路を隔てた隣には、七重の塔の跡地もあります。そちらへ向かうと、跡地周辺で親子連れが遊んでいました。史跡であることも気にしていない風情で、それはいかにも歴史が日常の中に溶け込んでいる風景でした。
塔の礎石は大極殿のそれと比べると密集しています。こうした仏塔は宗教施設であって、人が登ったりすることは想定されていません。大きな礎石の中央はでっぱっており、木の柱の方にくぼみを作ってはめ込むようになっています。この片隅の礎石が一つ欠けているようにも見えますが……。
「どうやら誰かが持って帰ってしまったようなんです」
貴重な石を庭石にでもしてしまったのでしょうか。
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▲七重塔のあと。恭仁宮が都で無くなったあとは、宮殿は国分寺としてそのまま使われたそうです。
聖武天皇は何度も遷都を試みた天皇でした。
それはこの天皇の御代がちょっと他にないぐらい天災や戦乱に見舞われたからです。人智ではどうにもならないと思える災難と人心にも見放されたさなかに出会ったのが行基でした。
国の禁を犯して街中で民衆へ仏教を布教していた行基は、権力から見れば犯罪者でしたが、知識と呼ばれる支援者集団をはじめ多くの民衆に支持され、木津川に橋をかけ宿泊施設である布施屋を建て活動していました。その姿は、聖武天皇には救い主のように映ったのかもしれません。
聖武天皇はわざわざ泉橋寺を訪れて丸一日行基と過ごしました。何を話したのかはわかりませんが、行基の協力を取り付けたのでしょう。よほど気に入ったのか、馬が合ったのか、そののちも2人であって木津川に船を浮かべて遊んだという記録も残されています。
行基の協力も得て恭仁宮は740年(天平12年)の勅命によって平城京より遷都されますが、743年(天平15年)に都として完成しないまま建造は中止されます。わずか3年余りの都でしたが、ここで3つの重要な勅命が出されています。「国分寺建立の詔(741年)」「墾田永年私財法(743年)」「大仏建立の詔(743年)」がそれです。
仏教を柱として律令国家が完成していく一方で、私有財産を認めることで律令制の崩壊も始まった現場がここだったのか。そして私有財産を持つこととなった民衆も、「財産を持つ」という新しい苦悩に直面することとなり、苦悩と向き合う術として仏教や僧侶のような存在も必要になってきたのではないか……。恭仁宮の跡でそんなことを想像したのでした。
■国土を作り変える僧たち
開墾した土地は自分たちのものになるという墾田永年私財法は、人々の欲望を強く刺激し、大地は次々と開墾されていきます。ここ瓶原は恭仁宮の周辺には現在、広大な田園風景が広がっていますが、すぐにこうなったわけではありませんでした。
「木津川が間近にありながら、より標高の高い瓶原は水利に恵まれない土地だったのです」
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▲今に残る瓶原大井手用水。昭和28年の大水害で破壊されたものの、大工事で再建され、翌年の田植えには間に合ったとか。
この乾いた大地を一変させたのが、行基から500年後の鎌倉時代の僧でした。その名は慈心上人(覚真)。加茂エリアの重要なお寺・海住山寺の僧です。慈心上人は瓶原を潤す水路の土木工事を計画します。彼が水源に選んだ地域は6キロも離れた地域でした。
「水源地の住人にしてみれば大切な水ですから、いい話ではありません。しぶる水源地の住民を慈心さんは粘り強く説得したそうです」
こうして瓶原の住民たちとともに十数年をかけて1222年(貞応元年)完成させたのが全長6755mに及ぶ瓶原大井手用水です。これだけの長さの水路の高低差はわずか5.5mにすぎません。高度な計測技術があったのではと思わされます。
渡辺さんによると、この用水路を守る役割を背負う人たちが今もいるのだそうです。
「大井手16人衆(井出守衆)と呼ばれる一族が、鎌倉時代から現代にいたるまで用水路を守り続けています。時期によっては朝番、昼番、夜番を務めているんです」
今も現役で活躍している水路から見下ろすと、眼下の斜面に見事な段々畑ができています。実りの季節になれば、一面の稲穂の海が広がっていることでしょう。
行った事業が何百年ののちも、人々の暮らしを支え続けているのです。慈心上人もまた直接の弟子ではないけれど、その業績において行基の後継者の一人ではないでしょうか。そして、この慈心上人には、もうひとつ偉大な業績があるのです。
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▲大井手用水によって瓶原は豊かな地となり、江戸時代には伊勢神宮や東照宮に幣を収める所領となりました。
大井手用水の上には、青々とした灌木の畑がありました。茶畑です。この茶畑も用水路のおかげで生まれたものなのでしょうか?
「いや、お茶はそれほど水を必要としないので、用水路はあまり関係ありません」
しかし、中国から僧・栄西が持ち帰った茶の種を日本に広めた僧・明恵から、種を譲り受けて南山城地方にお茶を広めたのが慈心だというのです。このお茶こそ、千利休も愛した宇治茶です。
■お茶の故郷
木津川市を含めた木津川流域の南山城地方は、日本のお茶のハートランドというべき場所です。
抹茶、煎茶、玉露という日本茶を代表する三つのお茶の楽しみ方・製法が生まれたのが、茶の栽培に適した南山城地方なのです。
栄西より以前、平安時代には中国から日本にお茶は伝わっていました。当初は嗜好品ではなくて医療品、そして瞑想する僧侶の覚醒薬として使用されていたお茶でしたが、南北朝時代には茶の産地をあてる「闘茶」という遊びが流行しました。その後、16世紀になって葦で編んだ「す」で茶畑を覆う覆下栽培法が編み出されて「抹茶」が誕生します。ブランドとなった宇治の「抹茶」によって「茶の湯」が発展します。千利休や堺の茶人たちも、このお茶を使っていました。
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▲瓶原の茶畑。製法にもはやりすたりがあり「一時期は抹茶ブームで抹茶ばかり作ってましたね」と西谷さん。
江戸時代中期になると、やはり宇治で宇治製法と呼ばれる製法が編み出され「煎茶」が生まれます。抹茶のようにお茶を溶かして飲む文化に対して、茶葉をお湯に浸してエキスを抽出して飲む楽しみ方が生まれたのです。
そして江戸時代後期になると、覆下栽培法で旨みを増す「玉露」が、やはり宇治で開発されます。
「いい景色が見れるので、行ってみますか」
と、西谷さんが絶景ポイントに連れて行ってくれました。
車を降りて茶畑の中を登りつめるて振り返ると、一面の茶畑が広がっていました。茶畑は山の山頂まで覆い尽くしています。
鎖国体制が崩れた幕末には、木津川市の山城町の上狛エリアに茶問屋街が形成され、お茶は木津川を通って開港した神戸や横浜まで運ばれ、海外へと輸出されました。当時の欧米ではお茶ブームが巻き起こっており、日本茶は中国茶やインドの紅茶と覇権を競う日本の重要な輸出品となりました。その頃の上狛と木津川の港は「東神戸」とも称されたそうです。
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▲山頂にまで茶畑が広がる「山なり茶園」の開墾は明治時代にはじまった。
眼下の茶畑の向こうには、木津川や日本神話の聖なる鹿背山が見えます。このすべてを内包する恭仁宮はついに完成せず、わずか3年で姿を消しましたが、この時に描いた聖武天皇の夢や、行基たちが汗を流して行った事業は、大きく波及し時代や距離を超えて私たちの今につながっているように思います。
木津川市の加茂地区に行基の足跡を追った今回の旅。時代をゆきつもどりつし、脇道にも入りましたが、行基の業績と、そして精神が今に生きている様子を見ることができたのではないでしょうか。
木津川市マチオモイ部観光商工課
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