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破格の人慧海と、慧海を生んだまち 2

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命を賭してヒマラヤを踏破し、閉ざされたチベット王国に、仏教の教えを求めて密入国した堺の偉人河口慧海を、3つのメイン会場と地域のお店や施設など、まち全体で紹介する「慧海と堺」展が開催されています「(会期2016年10月26日~12月4日)。
後篇では、なぜ破格の人慧海が堺で生まれたのか、そして慧海研究の新発見に迫ります。
→前篇
■反骨の人、応援する人々 
 
我が道を行く慧海の生涯を貫いたのは、反骨精神でした。
展覧会を企画した堺市文化財課の中村晶子さんによると、慧海は生涯反権力の人でした。
「お坊さんになる前に、小学校の臨時教員をやっているのですが、校長に不正に気づき、校長先生の不正糾弾集会をあちこちで開いたりしているんです。黄檗宗のお坊さんになってからも、えらいお坊さんに立てついたり、チベット旅行の時も同時期にネパールやシルクロード探検隊を組織した本願寺大谷派で後に法主になる大谷光瑞とも対立するんですね。片や日本最大の仏教教団、片や一介の僧侶。組織に属して偉くなろうとは思わない。慧海は正しいと思ったことを貫く尖った人だったんです」
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▲慧海が死を賭してチベットに潜入する際に親友・肥下徳十郎(ひげとくじゅうろう)に送った「くりぬき日記帳」。少年・慧海が学んだ漢学校には、親友肥下徳十郎以外にも、後に東京藝術大学の第5代校長を長くつとめた正木直彦がいます。彼の功績を讃えて設立されたのが、今も大学校内には「正木記念館」があります。
そんな慧海を、少年期からの友・肥下徳十郎をはじめ堺の人たちは暖かく見守るばかりか、様々に支援をします。
「慧海を応援しても何か見返りがあるわけではない。彼にはただ仏教を貫くという思いがあっただけなのに、お金を支援したり、家族の面倒を見た人が何人もいました。そればかりか、慧海の願いで家業を変えてしまった人もいたんです」
慧海は15才の時に肉食、飲酒、女性を断つ誓いをしていますが、友人たちがチベット旅行の餞別を贈るとなった時に、慧海は餞別として殺生を止めるように頼みます。趣味の網打ちを止めた人もいますが、大変だったのはかしわ屋さんを営んでいた友人です。
「鶏を〆て売るかしわ屋さんが殺生を止めたら、転業するしかありません。この友人は、本当にかしわ屋をやめて商売替えしたそうです。もっともその商売で成功したそうですが」
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▲鉄砲鍛冶屋敷として知られる井上家は江戸期には全国66の藩に出入りする鉄砲職人でした。幕末にイギリス製の洋式銃(上)を入手すると、分解して精密な図面を引き、寸分たがわぬ複製を(下)を作る技術をもっていました。
中村さんは、慧海の反骨気質には堺が職人のまちだったことも大きく影響しているのではないか、といいます。
「観光ボランティアガイドの方ともそんな話をしたのですが、職人さんは技術が全てです。いくら上から言われてもおかしなことには従わない。丁度、清学院は鉄砲鍛冶屋敷に隣接していて、鍛冶場があったのですが、その槌音を聞きながら慧海さんは勉強して、職人の知恵と技術・合理性に親しんだのではないでしょうか」
それにしても慧海自身の人柄がいかに魅力的だったとはいえ、堺の人たちのバックアップぶりは過剰なものにように思えます。時代も、家制度が重くのしかかる明治日本です。慧海のような人がなぜ生まれ、このように応援されたのでしょうか?
■破天荒を愛すまち 
慧海は多才な人でした。医者としての知識も持ち合わせチベットで活躍しますが、語学の達人でもあって、日本語の他に英語・中国語・チベット語にインドのパーリ語の5か国語を操るマルチリンガルでした。それも数年学んだだけで、現地人のフリが出来るレベルに習熟できるのですから、天才というしかないでしょう。
慧海だけでなく、明治の堺人は与謝野晶子にせよ、アサヒビールの創始者鳥井駒吉にせよ、道なき道を切り開く人であり、多岐に才能を発揮するの万能人です。こんな多士済々が堺から湧き出てきたのは、職人文化の影響だけでなく、もっと幅広く深く影響を与えるものが堺にはあるのではないかと、中村さんに疑問をぶつけてみました。
「堺が職人のまちであったというだけでなく、豊かで自治のまちだったことも大きいのではないでしょうか? 中世自治都市の歴史はもちろんのこと、江戸時代も天領としてかなりの自治を任されていました。奉行所はあっても、お侍の数は少なく、お殿様がいるまちとは大きく違う。税金の徴収までまちの年寄たちがやっていて、まちの自治が完結していました。封建社会の中にしては、比較的な自由な雰囲気があり、締め付けが緩かった。また、大阪に多数堺商人が出ていったとはいえ、幕末の頃にも幕府に何万両も用立てた堺の商人が何人もいたように、ずっと豊かなまちでした」
自由と経済的な豊かさも、多彩な人材を生んだ背景だったことでしょう。
堺の経済的な豊かさは文化的な豊かさを生み、文化をを肥やしに人と違う志をもった変わり者が生まれる。そして変わり者が現れても押さえつけるよりは応援する自由な風土が堺にはあったのです。
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▲町家歴史館山口家住宅では慧海自筆の書や、慧海を兄と慕った河合醉茗が慧海に捧げた詩が展示されています。
■慧海研究の新発見・堺の夢 
 
最後に慧海らしいエピソードを紹介しましょう。
実は今回の展覧会には、慧海研究の新発見が展示されています。
それは、文化財課の中村さんと同僚の小林さんが、慧海の姪御さんのお宅で資料を調査していた時に発見されました。
「日記が出てきたんです。すぐには気づかなかったのですが、明治35年の日記でした。明治35年というと、慧海がチベットから脱出した年でした」
はたしてそれは慧海の命がけの脱出行を記した日記でした。

 

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▲慧海の第一回チベット旅行の往路と脱出の復路を記した地図。
「明治34年3月にチベットのラサに入った河口慧海ですが、35年の1月ごろから日本人ではないかと怪しまれ始めます」
当時、西洋化にまい進する日本を鎖国中のチベットは怪しんでおり、日本人とばれれば死罪となるだけでなく、日本人を匿っていたものも罪に問われかねませんでした。
「日記は丁度怪しまれ始めた34年の1月から始まっています。有名な『チベット旅行記』は、新聞社のインタビューに応える形で書かれた、いうなれば公に向けて書かれたものですが、日記は完全にプライベートですから、正直な心境が書かれています」
もはや日本人であることが隠しきれなくなり、慧海は5月にラサを脱出します。往路は関所を避け、間道を遠回りして1年かけてラサに入った慧海でしたが、帰り道はそんな悠長な旅をしていられません。
「ラサからインドのダージリンに向けて最短コースをとります。間に5つの関所があったのですが、慧海は自分はラサの医者で、ラサの急病人のためにインドに薬を取りに行くんだと言い張って、堂々と関所を通ったのです。現地の人でも2週間かかる道をわずか4日で突破したそうです」
死地を脱した慧海ですが、それで気が緩んだのかダージリンではマラリアにかかって死にかかったとか。その後、命がけで逃げたにも関わらず、自分を匿ったため投獄されたチベット人を助けるために、慧海は再入国を図ります。豪胆で情熱的なだけでなく、人のために自分を顧みない、慧海はそんな人でした。
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▲メイン会場のひとつ町家歴史館山口家住宅。
「几帳面な慧海さんですから、日記の最初は整った字で書かれていたのですが、脱出行の頃は荒れた感じになっていて、さすがに慧海さんも大変だったんでしょうね」
この日記の発見は新聞報道もされました。
「記者会見をした後になって最近気づいたんですが、この日記の4月23日に慧海が見た夢の話が出て来るんです。夢の中で、慧海は故郷の堺で水浴びをしていたそうです。チベットでは頻繁にお風呂に入る習慣はないでしょうから、さっぱりしたかったのでしょうか」
それとも、脱出を前にして、夢の中だけでも故郷にたどり着いたのでしょうか。
いずれにせよ、この日記が研究者に解読されるのはこれからです。一体どのような内容が書かれているのでしょう。それまでに、日記を直接目にしたい方は、堺市博物館で全ページが展示されているとのこと。
慧海の生まれ故郷で慧海の生涯と思想を体感できる「慧海と堺」展、そして慧海自身の魅力を2回にわたってお伝えしましたが、いかがだったでしょうか? 会期終了までに一度足を運ばれることをお薦めします。
「慧海と堺」展
会期:2016年10月26日~12月4日
メイン会場:町家歴史館清学院・山口家、堺市博物館
詳しくは、

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