酒造家「大澤徳平商店」に見る堺の繁栄と「旦那」の系譜
明治28年の「全国の酒造石数番付」を見ると、後にアサヒビールとなる鳥井合名会社の前頭8枚目を筆頭に堺の酒造会社が多く並びます。
この貴重な番付を見せてくださったのは、大澤徳平さん。18世紀から戦中まで続いた大澤徳平商店の9代目です。大澤商店では、代々「徳右衛門」・「徳平」の名を継いでいるのですが、すでに大澤本店では酒造は行っていないので「襲名」ではなく「改名」したのだと大澤さんはいいます。三つの蔵があった大澤徳平商店が酒造を続けることが出来なくなったのは、1944年に大澤さんの父、鯛六さんが幼い徳平さんを遺して病死し、また、翌年の堺大空襲で酒蔵も全焼したことによります。(北蔵は、灘に移転し戦後「大澤本家酒造」に)
「戦時中のことだから、ろくな手当も受けられなかった。若くして死んだので徳平の名を襲名する前のことだった」
と、徳平さんは語ります。鯛六という不思議な名前は、生まれた時に大きな鯛が六匹も送られてきたことに由来する号です。この号は、当時の紳士名鑑「趣味大観」でも関西最高峰の収集家として紹介されています。
堺の豪商の中でも羽振りが良く、教養があり、芸事を収めた者のことを「旦那」と呼びました。鯛六さんは、そうした旦那の一人で、何万点にも及ぶ玩具の収集のみならず、明治時代に途絶えた堺の湊焼きを、京都から陶工を呼び窯を開いて昭和の湊焼きとして復活させたのでした。
戦災を免れた鯛六さんのコレクションの中には、大きな鯛の焼き物も残っています。
さらに6代目の徳平さんの「旦那」ぶりも大したもの。酒の小売と醤油の醸造からはじまった店を三つの蔵を持つまでに大きく発展させたのは6代目でした。この徳平さんは、朝日新聞の企画で、日本初の世界一周旅行の一員に名を連ね、アメリカ大統領やヨーロッパ各地の要人を表敬訪問し、その詳細な記録が残されています。
堺のお酒は6代目徳平さん同様、海を渡っています。韓国やアメリカへも輸出され、ヨーロッパの博覧会に出品し数多くの賞をとっています。当時の堺のお酒のラベルを見ると、誇らしげに獲得したメダルが意匠に描かれています。
大澤商店のお酒は「麒麟正宗」「国光」「千代鶴」の銘柄があったそうですが、今回のラベル展ではどのお酒のラベルが展示されているでしょうか? 探してみてください。
戦後、鯛六さんの妻・美代さんは、湊焼きの登り窯を引き継ぎました。深日の窯に自ら赴いて働き、塩壺や土鍋などを焼き販売したそうです。この窯も台風被害を受け止む無く窯を閉じ廃業することになった後、先祖代々の大浜の土地に貸しビルを建てるのですが、この時美代さんはビルの中にあり得ない施設を作ってしまいます。
それは総檜造りの本格的な能楽堂でした。
「堺の商家では、茶道に能の謡、女性ならさらにお花をするのが習いでした。しかし能舞台が無かったので舞のお稽古ができなかった」
能を趣味としていた美代さんはだったら能舞台を作ろうと思い立ったのです。美代さんもまた堺が誇る「旦那」だったのです。
当代の徳平さんは、この能楽堂を受け継ぎ、能舞台でクラシックやポルトガルの歌謡ファドのコンサートを開いたり、小中学校の能体験などに開放しています。文化に寄与する「旦那」の姿をそこに見るのですが、徳平さんは否定します。
「私なんかは到底旦那ではありませんよ。私が思う旦那といえる最後の方は10年ほど前になくなりました。なんでも良く知っている博識な方でした」
商人による堺の黄金時代といえば、いつも室町・戦国の南蛮貿易の時代しか思い出さない私たちですが、明治から昭和にかけても酒造の富が土台になった黄金時代があった。 その残照の中に私たちはいるのだということも覚えておくべきではないでしょうか。
その輝きに満ちた時代の繁栄を築いたお酒、それを彩ったラベルの数々をじっくりとご覧ください。
文責:渕上哲也