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▲鳥井商店の日本酒ラベル。(タチバナ印刷所蔵) |
ここに「南海鉄道案内」という一冊の本があります。初版発行は明治31年で、上下巻だったものを一冊にして昭和53年に復刻されたものです。
当時大阪難波から和歌山まで開通していた南海鉄道路線の名所、名刹、名物などを取り上げた観光案内の一冊となっているのですが、「堺」にも多くのページが費やされています。そして広告ページに目を移すと、堺の会社、特に酒関係の広告が多いことに気づきます。
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▲「南海鉄道案内」の広告ページに掲載された「春駒」の広告。 |
今ではすっかり忘れられていますが、堺は灘・伏見と並び称される酒どころだったのです。
今回取り上げるのは、清酒「春駒」を海外に売り出し、後に「アサヒビール」の創業者となり、「南海鉄道」二代目社長ともなった鳥井駒吉です。
鳥井駒吉の曽孫で、現在も堺在住の鳥井洋さんにお話を伺うことが出来ました。
■駒吉伝
鳥井さんとお会いしたのは、三国ヶ丘の方違神社に隣接する「江久庵」でした。
「駒吉の父親である伊助は、宿院にあった米の仲買商『和泉屋』さんの主人が亡くなった時に、実子・伊六さんが幼かった事から養子として『和泉屋』を任されました。その後、伊六さんが成人すると『和泉屋』を譲り、独立して甲斐町に住まいを移し酒造会社をはじめたんです」
1861年(文久元年)のことで、日本酒の銘柄は「春駒」とされました。1853年(嘉永6年)生まれの鳥井駒吉がまだ幼い頃でしたが、すでに寺子屋の先生から秀才ぶりを高く評価されていたそうです。
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▲鳥井駒吉の曽孫にあたる鳥井洋さん。 |
時代が明治に代わって1870年(明治3年)。父・伊助が亡くなり、駒吉は17才で酒造業を継ぎます。事業は順調で27才の若さで堺酒造組合長に就任します。
組合長となった駒吉の活動は革新的なものでした。精米会社を設立して蒸気機関を使った精米機を導入して精米し、各店が安定した品質の酒を出せるようにしたり、醸造研究所も設立し杜氏の育成を効率化します。
活動は海外にも向き、スペイン、フランス、アメリカの万博や博覧会に清酒を出品しては数多くの賞を受賞。更には、瓶詰向けに清酒の濾過技術を開発し、はじめて日本酒を瓶詰で売り出すという一大革命を成し遂げ、海外販売への道を開きます。
駒吉の活躍は酒造分野に限りません。酒造業の発展のためには流通の発展が欠かせないと、阪堺電鉄の設立に参画します。この時、駒吉が大和川の橋のたもとに立って、人が通れば白豆、馬車が通れば黒豆をたもとに入れて交通量を調べたという伝説があります。本当にあった話なのでしょうか?
「さぁ、どうなんでしょうか? わかりませんね」
と洋さんは笑います。
「駒吉は1904年(明治37年)に鉄道会社の二代目社長になりますが、どうも本心は社長になりたくなかったようですね。自分の本業は家業である酒造業で、そのための鉄道だったからでしょう。1906年(明治39年)には健康を害し社長を辞めています」
本業である酒造業では、1889年(明治22年)に「有限責任大阪麦酒会社」を設立し、本格的にビール事業を開始。1892年(明治25年)には「アサヒビール」の商標登録を行い、これが現在の「アサヒビール」に繋がります。
子孫である洋さんから見て、鳥井駒吉はどんな人物なのでしょうか?
「『俺の仕事はこれしかない』というタイプではない。あっちもやり、こっちもやりで、やったら成功、やったら成功でしょ。本当無茶苦茶な人だと思います。うまく時代の波に乗ったんでしょうね。失敗したら大笑いですからね。ほんま滅茶苦茶です」
「無茶苦茶」な企業人・駒吉ですが、彼の魅力はそれだけではありません。
「大きな人だったと思います。道を歩いていて貧しい人に出会ったら、何かをあげずにいられないような人ではないでしょうか」
駒吉は、小学校や市役所といった公共施設のための寄付金や、火災風水害に対する寄付金を毎年のように行っています。これは堺のみならず、全国に及んでいました。
「母・おゑいさんのために、自宅の近くに別宅として『娯観家』を作りました。親思いだったんですね」
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▲方違神社の三国丘の石碑の裏には、駒吉の句が刻まれています。 |
文化人としての駒吉にも注目しないわけにはいきません。
「茶道は表千家で免許皆伝の腕前、書画もたしなみ、俳句や短歌も堪能でした。私も知らなかったんですが、堺の図書館に駒吉の短歌集が四冊所蔵されていたのが見つかりました」
方違神社には駒吉が寄贈した「三国丘」の大きな石碑がありますが、その裏には駒吉の句が若い頃の号・半静とともに刻まれています。
「耳原に来て鶯の初音かな」
方違神社に参拝された時は、石碑の裏にも注目です。
鳥井駒吉は母のために建てた「娯観家」で闘病生活を送った後、1909年(明治42年)、その生涯を閉じます。
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▲闘病生活中娯観家から毎日通ったという開口神社の石碑。 |
■駒吉後伝
1945年7月10日。
堺大空襲によって、堺の町は壊滅的な打撃を受けます。
鳥井合名会社のあった甲斐町も、自宅や別宅のあった市之町も爆撃によって焼野原と化しました。
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▲「娯観家」にあった鳥井家の灯篭は焼け残り、「江久庵」の庭に置かれています。灯篭には「駒」が刻まれています。 |
堺の多くの酒造会社も戦災で甚大な被害をこうむりました。その復興を託されたのは、駒吉の孫にあたる鳥井伊太郎でした。
「戦後、政府の指示があって、11の酒造会社が協力して『堺酒造』を作ります。その社長には私の父である鳥井伊太郎が就きました」
甲斐町には「春駒」に使った良水の出る井戸が残っており、その水を使って「新泉」という日本酒を売り出したのでした。
「堺は灘や伏見と同じぐらいいい水が出る場所だったんです。しかし、それも昭和40年ごろまででした。クーラーの普及で一般家庭でも地下水をくみ上げて使うようになったからでしょうか、水が濁り始めたんです」
濁った水で美味しい日本酒を作ることは出来ません。「堺酒造」は昭和37年には「新泉酒造」と名を改めていましたが、昭和44年に「新泉」の商標を灘の企業に売り、廃業します。
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▲現在の甲斐町は大道筋の拡張によって、かつて1丁のあった所が道路になり、かつての2丁が今の1丁となっているようです。 |
洋さんも、若い時に「新泉酒造」の社長になるという道もあったのですが、すでに将来を予見していた父・伊太郎さんの助言により、醸造学から発酵・酵素学を学び、大手製薬会社に就職し、研究畑へと進んだのでした。
「酒造業の権利なども皆売ってしまい、今は酒造とはすべて関係なくなってしまいました」
酒造とはすっかり縁も切れた鳥井家でしたから、鳥井駒吉のことについて家族の間で伝わっているようなことも、話題に上ることもなかったそうです。
しかし、ひょんなことから「駒吉」が洋さんの姿を現します。
「私は四人兄弟の末っ子で、兄はすでに東京にいるんですが、墓を東京へ移すことになって、お寺に預けてあった仏壇などを整理することにしたんです」
すると、堺の最勝寺に預けていた仏壇の中から手書きの原稿が発見されたのです。タイトルは「鳥井君半生涯」。
「鳥井駒吉の半生記の原稿でした。出版するつもりだったものが果たされず、そのままに残っていたのではないでしょうか」
この貴重な資料を発見したことによって、洋さんは駒吉と向き合うことになります。
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▲鳥井家にあった灯篭と、鳥井洋さん。 |
「『鳥井君半生涯』をワープロで清書するのを手伝っていただいた元『アサヒビール』の田村さんからも、兄弟からも、『これをどうにかするのが貴方の役目だ』と言われたんです」
理系の研究畑にいた洋さんですが、駒吉の資料を集め、その半生について丹念に調べる作業にあたったのでした。
そうして洋さんは資料を綿密に精査し、まとめあげた文章は、本として出版されることになりました。堺の偉人の生涯がもっと周知され、身近なものとなる第一歩です。
かつて繁栄を誇った堺の酒造は失われましたが、鉄道や学校、銀行など多くの駒吉の遺産に囲まれて私たちは暮らしています。ビールや日本酒を楽しむ時、時には駒吉のことを思いだして、一献傾けるのも良いのではないでしょうか?