インタビュー

片桐功敦 花道みささぎ流

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片桐功敦
 
profile
1973年、堺市生まれ。花道みささぎ流の家系に育つ。中学卒業後、米国留学。現地で大学に進学するが、1994年帰国。1997年、24才という異例の若さで家元を襲名。2001年、弘川寺(ひろかわでら)で初個展。2005年、教室とコラボレート・スペースを兼ねた主水書房を開設、2007年、BIWAKOビエンナーレ出品。2008年、写真集『見送り/言葉』を刊行。画家でデザイナーの東學の個展に参加するなど、異分野とのコラボ多数。
大阪と南相馬市を行き来し、震災や原発事故の被害から未だに立ち直ることができない地に再生の祈りを込めて花を活ける活動をしている。
堺の海抜の低い市街地から、一条通、二条通、三条通と『御陵さん』の丘を登って中腹あたりに、目指す『主水書房』がありました。その主は、24才の若さで『花道みささぎ流』の家元となった片桐功敦さんです。展覧会を開催するだけでなく、福島県南相馬市に長期滞在し被災地に祈りの花を活けるなど幅広い活動を行なう片桐さんにお話を伺いました。
■独学で学ぶ
『花道みささぎ流』は、片桐さんの祖父が堺ではじめた若い流派です。
「祖父は市役所に勤めていて、多趣味な人でした。日本画にお花、書もやってましたね。丁度、高度成長期になって余暇でいけばなを楽しむ人が増えてきた頃で、祖父は市役所の花道サークルの指導を定年まで続けていました。定年後も花を教えるのもいいかと思い『花道みささぎ流』が出来たんです。なりゆきといえばなりゆきですよね」
そして、片桐さんが小学校6年生の時に父が亡くなり、流派の後継者不在のまま月日が過ぎます。
「16才から叔母を頼ってアメリカに留学しました。面白そうだと思って。東海岸の北にあるメイン州という『スタンド・バイ・ミー』の舞台にもなった、あんな田舎です」
高校の選択授業では陶芸を選びました。
「家がこういう家ですから、器を沢山見ていたので、思い出してあんなのやこんなのを作ってたら、高校の先生にせっかくだから続けてみたらと勧められて、ワシントン州の大学で陶芸を学びました」
しかし、その頃、祖父の体調が悪化します。片桐さんは長い夏休みに帰国したまま、大学を休学して花道の勉強を始めますが、ほどなく祖父は亡くなります。20才の時でした。
陶芸・アートは学びましたが、それまで正式にはいけばなを習ってはいません。「いけばなも面白そうだ」と片桐さんは継ぐことを選びます。
「最初は花の本を手あたりしだいに買って、真似て活けてコピーすることからはじめました。母や師範の方もいたので、素直に教わってたら近道もあったかもと思いますけど、独学でやったのは人に聞かずにやる自分の性格ですから」
24才の時に家元となり、10年近く堺に籠って研鑽をつみます。もともと決まりの少ない若い流派だったことや、独学で学んだ経緯もあって、今の『花道みささぎ流』は、片桐さん独自の色彩を持ったものになりました。
28才で最初の展覧会が開催されます。
「河南町の弘川寺で、母との二人展でしたね」
弘川寺は桜を愛した西行法師終焉の地として知られています。この時の桜の展示は注目を集め、その後『桜』は片桐さんを代表する題材となります。
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▲主水書房の一室でお話を伺いました。
自宅を改装した『主水書房』でも幾度か個展を開催しました。
「モンドはフランス語で『世界』という意味で、日本語で書くなら『主水』……主に水と書く。世界は主に水で出来ているし、面白いなと思って。ここでは個展だけじゃなくて、ライブもしました。アーティストの関連書籍も売ったりしましたけど、お店ではないですね。言ってみれば実験室です」
この実験室では、様々なアーティストが表現を通じて交わり、多くの刺激的な試みがなされたのですが、現在は休止しています。休止は、多くの人の運命を変えた出来事がきっかけでした。2011年3月11日。東日本大震災です。
■命をつなぐ哀しさ
花道をはじめた最初の時から、花を活け終えると「きれいだな」と同時に「哀しいな」と感じてきたという片桐さん。それは花を活けることが命を繋ぐ行為であり、命のはかなさを表現する行為だったからです。
それを最も強く感じたのが、東日本大震災直後に活けた花でした。
「滋賀県の佐川美術館で3万本の桜を使った展示をする準備をしている最中に震災が起きたんです」
当時は自粛ムードもあり、取り止めにもなりかけましたが、開催することになりました。
「20人体制で4日間不眠不休で作業をしたんですが、その頃には死者行方不明者の数が日に日に増えていき、2万人を越えようとしていました。その時はどうしても3万本の桜の枝一本一本が亡くなった方の命のように感じられました」
そして、この時の『桜』ほど、「哀しさ」を痛切に感じさせるものはなかったのです。
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「10年続けた『桜』のシリーズで、これで最後にするつもりでした」
しかし、シンボリックな「桜」の作品は多くの人の心を打ち、展示をもとめる声が寄せられ片桐さんもそれに応えることにしました。
2012年に東京で行われたチャリティイベントで、中心になる会場に桜を活け、ボランティアとして集めたチャリティ募金を、更地になったままの岩手県陸前高田市にまで届けたのでした。
「作品としては納得のできるものでした。でも、町中の安全な場所で集めたお金を現地に持っていく行為に違和感がありました」
以後、片桐さんは、自分のことをやるために、外向きの仕事はやめ、『主水書房』の活動も休止します。
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▲「sacrifice2014」 泰山木/福島県浪江町請戸漁港
ところが堺に籠った片桐さんは、再び福島へと向かうことになります。
「キッズプラザ大阪でやったワークショップを旧知の編集者の方が目にとめてくれたんです」
それは、自然の草花や果物、野菜などを使って、ファッションとして身にまとい写真にとるワークショップでした。花で子どもたちが自らを着飾る面白さ可愛さが、親御さんにも大好評でした。
「編集者の方を通じて写真を見た福島県立美術館の方からお話がきたんです。それが、20km圏内の花を活けて記録するプロジェクトで、とても興味を持ちました」
『はま・なか・あいづ文化連携プロジェクト』は、文化庁と地域の美術館や博物館による数多くの連携プロジェクトで、アートを通じて福島の文化や自然、震災の記憶を伝えることを目的としていました。片桐さんが興味をもち加わったプロジェクトもその一環です。
「最初は大阪から通っていたんですが、交通費と宿泊費で予算を食ってしまうので、ある程度成果を出すには住んで活動するのが効率的だと判断しました。福島第一原発から20km圏内ぎりぎりの位置にある南相馬市にアパートを借りていただいて、2013年12月から翌7月まで滞在しました」
震災から3年たっても被災地は復興が進まず、震災直後と様子が変わっていませんでした。
「津波の跡地を歩いているとよく神棚だけが残っていました。壊れた家や家財道具を片付ける作業員の方も、神棚をどう扱っていいかわからなかったんでしょうね」
更地になった場所に残っていたのは神棚だけではありませんでした。咲いていた多くの花は園芸種の花でした。人がそこに住んでいた確かな証がそこにあったのです。
片桐さんは、そうした花々を活け、繋がれた命を記録していきました。
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▲インタビューの数日後、片桐さんは福島へ向かいました。

 

被災地で暮らす人たち、活動する人たちにも出会いました。悲痛な被災体験を語ってくれる人、被ばくしながらも危険な除染の仕事に従事する人。
「復興にかかわるスタンスは色々あっても、みんなあそこで何をしたいのかというと、あそこの場所をなるべく健やかな場所にしたいんです」
もともと地方のアートイベントに参加した時は現地の人と交流することが好きだという片桐さんですが、特に強い印象を受けたのが、西会津町で出会った若者たちでした。
「過疎の進んでいる村に戻ってきた若者たちと出会いました。彼らは震災のこと、原発があることも踏まえた上で、自分たちはどう生きていくかを考えていました」
出会いは、片桐さんに影響を与えました。
「花を活けて終わりじゃなくて、ここに活ける花の意味を考えなければならない。そこに暮らしていない我々に何ができるのかを伝えていくのが責任です。それだけのことを教えてもらった場所ですから、自分が受けたものは返したいという思いがありますね」
2015年10月には福島での活動を記録した写真集を出版します。その後も展覧会やイベントが予定されています。福島でやってきたことを伝えていく。そんなことが続いていきます。
■オルタナティブな生き方を
多くの人と出会い、時に深く関わってきた片桐さんには生まれ育った堺はどのような場所に見えるのでしょうか。湾岸に工業地帯を抱え、歴史的にも商人の町・職人の町である堺は、昨今は古墳のある観光の町としてアピールしようともしています。
「経済効果も必要、重要な事ですが、商売の町という感じが強くて、純粋さを感じさせないことも多いです。古墳群は世界遺産から漏れましたけれど、漏れようが漏れまいが、古墳の森はすごいものです。日本と呼んでいいのかどうかもわからない頃からあったもの。その方が平(たい)らかな感じがします。その森が今でも維持されているのはすごいことだと思います」
では、堺は都会なのか、地方なのか。片桐さんは、その問にあっさりと答えます。
「地方でしょ。堺は完全に地方だと思った方がいい。川一本隔てて町と続いていますけれど、もっと南との接点を深めていった方がいい。町との境界線を豊かにするよりも、自然との境界線をどれだけ豊かにするのかがこの論旨ですよ」
川の向こう、北にある大阪市との関係性ばかりを確かに気にしすぎていたかもしれません。
「これから先、経済が良くなるはずがないと思いますよ。それを身に染みて感じて、経済が後退していく中でどう生きるのかがデフォルトとして、新しい暮らし方としてこういう生き方もありますよとオルタナティブを提案することが僕らにもとめられている事じゃないでしょうか」
市街地と古墳の森の入り交じる町で生まれ育ち、活ける花のうつくしさ哀しさを感じてきた片桐さんの言葉を、どう受け止めるのか。経済発展ばかりでなく、オルタナティブ=もう一つの生き方を考えるためにも、片桐さんのこれからの活動に注目です。
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▲「この花が特に好きというのはないですね」。

 

※2015年9月「堺アルテポルト黄金芸術祭 秋の陣」の現代アート茶会では、スペイン現代陶芸、現代書家、歌人とのコラボレーションの予定。シンポジウムでは福島でのことなどをお話しいただきました。
堺アルテポルト黄金芸術祭webサイト:http://sakaiarteporto.weebly.com/

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