インタビュー

谷内暁子 声楽家

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谷内 暁子
profile
堺市出身。
5才よりピアノ、13才より声楽を学ぶ。
武庫川女子大学音楽部声楽科在学中より、PTAコーラスの指導を始める。
1988年より、障がいの有無、プロアマを問わない「きねづかコンサート」を20年間主宰。
2007年4月に、重度障がい者も含めたハンドベル隊「吽」と共に韓国済州島で演奏など、各地で活動を展開。
「茅渟の海」(ちぬのうみ)という、堺の海の美しい景勝を歌った歌があります。30年ほど前に生まれたこの歌は、NHKのラジオ番組で流されたものの、地元堺でも知られることは少なく幻の一曲となっていました。その「茅渟の海」を見事に復活させたのは声楽家の谷内暁子さんです。
谷内さんが「茅渟の海」に出会うまでの半生は、波乱に満ち人との縁にも満ちた一篇の物語でした。
■公営団地から響いたコーラス
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▲「木曜会」の練習前にお話を伺いました。
谷内さんが生まれ育ったのは、日本最初の公団・金岡団地でした。
「4月に両親が入居して、私は7月に生まれたんです」
5才の時にピアノを始めた谷内さんは、小さい頃から公団のPTAコーラスで伴奏を担当し、19才の時には指揮者も引き受けるようになります。PTAコーラスはその後解散しますが、女声コーラス「木曜の会」となり、以後32年ずっと指揮者として関わってきました。
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▲「木曜会」になってから32年もの間指導を続けています。
そして今年、音楽活動40周年の記念コンサートも開催されますが、このコンサートにはこれまで縁のあった方々も参加され、中には障がいをもった方も交えた「きねづかハンドベル隊『吽』」なども加わる予定です。
「障がいのある人とない人のコミュニケーションの会を作って、1988年から『昔とった今とったきねづかコンサート』というコンサートを20年間で20回開催しました。プロアマの垣根もなく、車いすの人がいても普通。特別に福祉というのではなく、一緒に音楽を楽しめる人たちによるコンサートだったんです」
しかし、1988年という時代は、障がい者を取り巻く環境も認識も整っていませんでした。
「第1回の『きねづかコンサート』は堺市の福祉施設で行ったのですが、車いすの人を舞台にあげる設備もない。誰かが抱えて舞台にあげないといけないのに、職員も上から目線の冷たい態度で手伝ってもくれませんでした。当時はノーマライゼーション(障がい者も健常者も均等に当たり前に生活できる社会を目指す取り組み)もバリアフリーも何もなかった」
「きねづかコンサート」は、第2回から堺市南区の「大阪府立障害者交流促進センター”ファインプラザ大阪“」に場所を移し、20回の区切りを迎えるまで、音楽だけでなく落語やお芝居なども交えた楽しいコンサートとして続きました。
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▲「きねづか」のハンドベル隊の指導も。
40周年のコンサートにもハンドベル隊が登場するように、「きねづかコンサート」の区切りをつけてからも、谷内さんとメンバーの関係は続いています。
この長く深い関係のきっかけは、実は谷内さんのご主人が交通事故で大きな怪我を負ったことでした。
■動けない主人の社会復帰を考えた
結婚から5年目のことでした。谷内さんのご主人は交通事故で頸椎を損傷し、重度の障がい者となったのです。
「その時、息子は1才半、娘は4才だったと思います」
谷内さんは、2人の幼い子供と動けなくなった主人の一家を支えることになってしまったのです。
「病院も今のようではなくて、21人部屋でみんな一緒に扱われました。退院させた時も『こんな重度の障がいのある人の退院は無理だ』と止められました。何しろヘルパー制度もなければ、子供を預ける所だってありませんでした。介護保険制度が出来たのは、主人が亡くなってしばらくしてですから」
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▲ガイドヘルパーさんや家族と一緒に「きねづか」は活動しています。
ある日突然、体が不自由になったご主人の苦しみは深いものでした。
「足も速く水泳の選手だった人ですから。『俺は生きている意味がない。自分で死にたくても死ぬこともできない』なんて言われました。やっかみもあったんでしょう。『なんでおまえとちゃうねん』と言われて、『神様があなたをこうして、私を元気な体にしたんだからしょうがないでしょ』と反論したりしました」
谷内さんが、最初に考えたのは障がい者となったご主人の社会復帰でした。
「やっぱり社会の一員として、はりのある人生を送って欲しかったんです。私に出来ることといえば音楽しかありませんから、コンサートでもするかと思ったんです。主人も私の歌が好きだと言ってくれてましたから」
頭ははっきりとしていたご主人は、環境計量士で数字に強く、その強みは活かせると谷内さんは考えました。
「『あなたは頭いいんやから、問題やクレームを解決してよ』と言って担当してもらいました。コンサートでトラブルが起きても、車いすの主人が出ていったら、相手も強く言えないでしょ(笑)」
障がい者となってからも、谷内さんにとってご主人は普通の家族の一員でした。
「夫婦喧嘩もしょっちゅうでしたよ。車いすのまま家の外に出して鍵をかけて『虐待や』なんて言われたり」
一方で、子供達にはこんなことも言ったそうです。
「子供達には、こういうお父さんとこういうお母さんの家族で育っていくということを起爆剤にしてほしいと思いました。『(住んでいる)河南町でもこんな家族は私たちだけだろう。わかってもらえないのは当然です。でも、あなたたちはわかるでしょう。もし、同じような人がいたら、あなたたちはわかってあげなさい。人にわかってもらおうとせずに、自分がわかりなさい』」
そんな谷内さんの周りには、互いを理解しあう仲間が集まり、そして今にいたるのです。
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▲「きねづか」の新年会では、1月2月のお誕生日会もかねてハッピーバースデー。
■みなで分け合う
谷内さんは、団体には所属せずに独立独歩でやってきました。
「もし団体に所属していたら、クラシックならクラシック、障がい者福祉なら障がい者福祉だけになっていたでしょう」
障がいがあってもなくても居心地がいい場を作りだせたのも、谷内さんのこのスタイルのお蔭もあるでしょう。
とはいえ、「普通に付き合う」には、「普通」にしていては難しい。「普通」になるための努力も必要でした。
「この人のために、という愛情、気持ちでお互いに好きになる必要があります。相手を好きにならないといけないし、相手にも自分を好きになってもらわないと」
誰にだって得手不得手や出来ること出来ないことがあります。障がい者との関係では、それが時に極端に出ます。
「お互いが出来ることでカバーしようという気持ちが必要ですね。何が出来て何が出来ないかそれぞれありますよね。お金がある人はお金を出せばいいし、力がある人は力をだせばいい。ある障がい者のお母さんは『うちの子は笑っているだけしか出来ない』とおっしゃったけど、笑ってるだけだって十分いいじゃないですか。出来ないことをもとめても仕方がないし、カバーできないことまでしないでいいんです」
皆でお出かけする時に、入場料などは障がい者とヘルパー1名までは無料になったりしますが、他の人の分までは無料にはなりません。
「でも他の人が来るなら、その安くなる権利をわけあおう。それでいいという人たちばかりなんです」
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▲「きねづか学Q」の「学級委員長」西村さん。韓国の済州島にも行きました。「きねづか」の昔のことは、なんでもよくご存じです。
ご主人が亡くなって随分になりますが、音楽を介しての付き合いは続いています。
「出会った人は、主人がああなったから出会った人ばかりですね。音楽には生き様が出ます。心と心の付き合い、本音の付き合いが障害のある人と今でもずっと出来たのもそのおかげです。音楽のおかげで私は乗り越えられたんです」
引き合わせられるように、そんな人たちと出会ったと谷内さんは言います。

 

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▲すっかり仲良くなった三国ケ丘にあるメガネ屋さん兼カフェとの出会いも大切な出会いでした。
■堺の歌を広めたい
谷内さんと「茅渟の海」との出会いも、運命的な出会いでした。
音楽を教えていたカルチャーセンターが閉鎖されることになり、その閉鎖を惜しむ集まりではじめてであった方と友人になります。その友人と旧堺港にドライブにいって、谷内さんは風景の美しさに感動します。
「金岡で生まれ育ったものですから、『堺に海がある』という意識がまるでなかったんです。海の景色に感動して『この景色を曲にしたい』と言ったら、友人が『この景色を歌った歌ならある!』と車からカセットを持ってきたんです」
そのカセットに納められていた歌こそが男性コーラスグループ「ボニージャックス」が歌う「茅渟の海」でした。30年ほど前にカーラジオから流れてきた「茅渟の海」を聞いた友人は感動し、それをラジカセで録音し大切に聞いてきたのだそうです。谷内さんも、この曲を歌いたいと思いました。

 

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「楽譜も歌詞カードもなくて、多分こうなってるんじゃないかと譜面を起こしました」
ネットも使って詳しい人を探しても手がかりはほとんどなく、誰もこの歌の事を知りませんでしたが、作詞の吉秋雅規(よしあき まさき)さんとは、堺出身の元衆議院議員・正木良明(故人)さんのペンネームだとわかりました。谷内さんは、堺に在住の正木夫人と直接会い、編曲して歌う許可を得ます。
「あまりにも短い曲でしたので、前奏と間奏を入れてドラマチックな展開にしたんです」
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▲2012年の第2回「きねづかリバースディコンサート」にて「茅渟の海」を皆で合掌しました。(写真提供:フェスタきねづか実行委員会)
谷内さんが「茅渟の海」に出会ったのは、2009年の秋のこと。そして2010年に再開した「きねづかリバースディコンサート」で、再生した「茅渟の海」を披露したのでした。
「歌を発表すると、ようやく当時のカセットやレコードを持っているという人があらわれました」
レコードには、正木さんの作詞に手が加えられたバージョンが収録されていましたが、谷内さんは元の詞をそのままに、最後に一行リフレインさせる形で歌うことにしました。
「付け加えられた歌詞には金剛山の情景などが加えられていて、海の歌としては相応しくないと思ったんです」
谷内さんは、堺の歌として「茅渟の海」を広めようとCDを制作し、堺市の観光関係にも積極的に働きかけています。
「せっかく堺市の歌があるんだから、堺の人に歌ってほしいと思います」
蘇った「茅渟の海」は、もちろん40周年コンサートや、これからも続く谷内さんの音楽活動の中で歌われていくことでしょう。
■知らないことは罪
谷内さんの活動は、まだまだ多岐にわたっています。
中国帰国者の方々とも関わり、日本語の不自由なお年寄りのために毎年歌唱指導として中国語の歌を一緒に歌いにいったり、ハンドベルチームを率いて韓国の済州島へ行ったこともありました。
「こんなに沢山の車いすの方が乗ったことはないと、大韓航空がパニックになるほど。でも、わざわざ予定を変更して飛行機をターミナルに直付けしてくれたりしましたよ」
様々な活動のどれも計画したり、こうしようと思ってしたことではなく、偶然があったりいつのまにかそんな話になっているのだとか。
「しようと思ったわけではない。でも、そういう話になったら全力投球をするんです。それは皆さんの支えがあって今の私があるからです。以前、ある障がい者の友人に言われたんですが、『知らないことは罪だ。日本人は知らないことに罪悪感を感じるべきだ』と。私も知ったからには全力を出していかなあかんと思います」
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▲「木曜会」のメンバーには、谷内さんの半生をよく知る人たちもいます。「音楽に救われた」と谷内さんはいいます。
そんな音楽と共に歩んだ谷内さんの音楽家人生も40周年を迎えました。
「大きなコンサートは最初で最後です。今までやってきたことを、このコンサートで区切りにして、40年をいったん整理しようと思います。残りの人生何をしていかなきゃいけないか、自分のやるべきことを模索しようと思っています。これまで大きな布を織ってきたのだとしたら、糸をより合わせて細いものをいくつか織っていくような形になるでしょう。もちろん、だからといってこれまでの糸を切るつもりはありません」
これまでの関係は大切に、そしてより焦点を絞った形で谷内さんの活動は続いていくのでしょう。
その活動の先には、堺の子供たちが故郷の歌として「茅渟の海」を口ずさみ、障がいのある人もない人も一緒に、国境線さえも超えて、「普通」につきあっていけるようになる……そんな未来があるのではないでしょうか。
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▲「きねづか」のレッスンには子供たちの姿も。谷内さんの歌が受け継がれていきます。
谷内暁子
南河内郡河南町大宝3-7-18
tel&FAX 0721-93-7298
mail:Kineduka121@maia.eonet.ne.jp
■コンサート情報
「ANIVERSARY 40th 谷内暁子リサイタル」

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