インタビュー

SATOKO

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SATOKO
profile
堺市中区小阪出身
大阪芸術大学 芸術学部音楽学科卒
SATOKOさんのライブは、毎回違う姿を見せます。
この『カフェ・フェリシタージ』と名付けられた一連のライブが、音楽を触媒として歌手と参加者が双方向にコミュニケートし、感情や体験を共有することによって生み出される癒しの場であること、風変わりなライブを始めたきっかけにSATOKOさんが大きな病を得て生還したことがあることなどは、何度も話を伺っています。
しかし、回を重ねるごとに情熱の強さを感じ、より深い所をお聞きしようと、じっくりお話を伺うことにしました。
■閉ざされた村に生まれて
SATOKOさんが生まれたのは堺市中区の小阪です。
この一帯は堺の平野部から泉北の丘陵地帯に入るとば口で、山ひだに抱かれるようにぽつぽつと集落が形成され、SATOKOさんが小さい頃は『小阪村』と呼ぶのが相応しい様子でした。
「私の家は山の中にあって、街灯が坂の下にしかなかったんです。学校帰り友達と別れた後が怖くて怖くて走って帰りました」
音楽に出会ったのはまだ幼子で、楽譜のオタマジャクシを熱心に書き写す様子を見た祖母が「この子には音楽が必要だ」とピアノを買ったのが三つの時。堺東の音楽教室の幼児クラスでレッスンを受け、すぐに才能を開花させます。
「その頃から譜面は読めて、初見で弾けたり、即興演奏もできました」
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▲少女時代のSATOKOさん。(写真提供:SATOKO)
そんな少女時代は、コンプレックスに苛まれたものでした。
「コンプレックスの塊でした。普通にしていても『顔が怖い』『怒ってるの?』なんていわれること、学校で先生に『ピアノが弾ける子』としてえこひいきされることも嫌でした。もっと普通でいたいと思いました」
成長するにつれ、村の閉鎖性を窮屈に感じ始めます。
「ピアノを習いに堺東や大阪まで出ると別世界の子たちがいました。インターナショナルスクールに通ったり、中学受験なんて私には考えられないことを言う子がいたり」
商人の町と違って、小阪は農民の世界。お互いに助け合い、寄り合いや報恩講などが今でもあります。
「誰かが飛び出ることや余所者を受け付けない閉鎖性も強いんです。今ではないですけど昔は余所から来た人は地元のだんじりにも参加できなかった」
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▲小阪のだんじり。「近隣にはだんじりの強い地域もあって、比較すれば小阪は穏やかな地域だと思います」(写真提供:SATOKO)
決定的につまづいたのは中学校。入学時に長期病欠し復帰した時にはクラスの人間関係はできあがっており入り込む隙間がなかったり、音楽が大切にされない校風も酷いものでした。
「歌といえば校歌ぐらいで、とにかく大きな声で歌ったら点数が高い、そんな有様ですよ。音楽の先生も野球部の顧問をしてたし」
オーケストラに親しみ、指揮者に憧れていたSATOKOさんは、こんな村にいては未来がないと見切りをつけました。
「東京へ行こうって妄想がどんどん膨んでいきました」
普通になりたいコンプレックスと、音楽の道に進みたい気持ちの間で揺れ動きながら、閉ざされた村で過ごした少女時代だったのです。
■作曲オタクからフリーランスへ
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▲インタビューは、はじめて『カフェ・フェリシタージ』を開催した『紙カフェ』でお茶を楽しみながら。

 

音楽教室でロックキーボードの先生と出会い、シンセサイザーやロック、現代音楽、プログレなどに触れます。
「大阪芸術大学の音楽学科作曲専攻に進みました。バンド活動は学祭の時にパンクバンドをしたぐらいで、ひたすら曲の分析をしてました。耳コピして譜面に起こして、このフレーズはこのフレーズからきてるんだとか、これはこうやからカッコいいとか」
さらに構造計算の仕事をしていた父から「これからはコンピュータの時代」と勧められたこともあり、コンピュータミュージックにのめり込みます。
「今見たいなアニメファンの町になる前の日本橋や秋葉原によく行って、ラジオデパートでパーツを買ったりしてました。女の子は全然いなかったですね」
大学卒業後は同じ作曲科の憧れの先輩と結婚し、共にフリーランスの作曲家として東京で生活し活動することになります。
「夢と希望だけを鞄に詰めて、東京に向かいました。一旗揚げるまでは帰らない覚悟で」
しかし、同じ駆けだしの作曲家同士の暮らしは順風満帆とはいきません。
「小阪は女は下がって男を立てる文化でしたから、自分を押し殺している部分はあったと思います。
東京に出てきて、悩みを相談する友達もいないまま、一人でストレスを抱えていました。
ただ幸いな事に東京にはストレスを解放する場に事欠きませんでした。
「図書館やピアノを貸してくれる所が沢山あって、お金の無いフリーランスですから、公共の無料のものは使い倒しました」

 

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▲「茶道の先生にもなりたかったけれど、茶室がないと東京では難しいなと諦めたんです」
この頃、茶道にも出会います。
「最初の先生とは、初心者向けの講座で出会いました。もっと深く習おうとすると、こちらからお金を払って先生の処の掃除をして『なんでやねん』とか、大変な世界だなと思ってあきらめて止めました。
喜んでご奉仕する世界なんで、先生に心底惚れ込んでないと出来ません。でも、今思い返せば、大学並みに、先生から学んだことが多かったと思います」
次に出会った茶禅の先生にも影響を受けました。室内にいて松風を感じたり、一枚の畳に十人が座ってそれでもリラックスしたりと驚くような経験をすることができました。新たに、茶道の奥深さへの扉が開かれたのです。相変わらず身勝手な自分が現れて、居心地の悪さはちっとも変わりませんが、
それも包含して見つめるしかないのでしょうね。難しいけど、やっぱり惹かれます。
■新たな門出、病魔が襲う
「ママさんコーラスの先生や、専門学校は2校掛け持ちでコンピュータミュージックを教える先生を10年やりました。私が教えると生徒のモチベーションが上がり、人にものを教えるのは天職でした」
放課後には生徒とお茶をしたり、遠足に連れて行ったりする先生でした。
そんな楽しい日常にヒビを入れたのは、ある生徒の一言でした。
『先生、やる気ないでしょ』
言葉が突き刺さりました。
「授業でいつも寝ているような、一番グレている子でした。確か母親が作家だったんじゃないかと思います。その一言に思い当たる節はあったんです。コンピュータミュージックを教えて、自分も楽しいし生徒や学校にも喜んでもらっているけれどルーチンワークになっているんじゃないかって」
自信がぐらつきだしました。
その翌年、SATOKOさんは講師の契約を更新しませんでした。

 

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▲宮古島の仲間たちと『紙カフェ』でライブも。堺に南の風が吹きました。

 

生徒の一言のような小さなきっかけと変化が、いくつもさざ波のように押し寄せていた時期でした。
家を購入したり、ボサノバに出会ったり、はじめての宮古島旅行ではすっかりと宮古島に魅了されました。
「2005年の4月にはじめて宮古にいってはまり、5月にもう一度宮古へ行こうと、宮古でピアノを弾くバイトも見つけていたんですが、体調が思わしくなくて健康診断を受けに行ったんです」
風邪かと思った診断の結果は『白血病の疑いがある』。そして骨髄を取っての精密検査が行われ、告知の日がやってきました。
「残念ですが白血病です」
医師の言葉を「ドラマチックだった」とSATOKOさんは振り返ります。
「目の前が真っ暗になりました。目に黒いフィルターがかかったみたいに、世界が全部黒くなってしまった」
さざ波が巨大な波となった瞬間。SATOKOさんの体に宿った病は、白血病と子宮頸がんでした。
■降りてきた音楽
病と闘う日々が始まります。
白血病を抑えないと子宮頸がんの手術が出来ず、二つの病を併発していることが治療を難しくしていました。
一縷の望みを託した抗がん剤も効果があるかどうかは個人差があり、運を天に任すような日々でした。

 

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▲『カフェ・フェリシタージ』の企画を練るためにビジネス書を読み、プレゼンなどの講習も受けました。その頃SATOKOさんは月に30万円の治療費が必要。「ずっとこれが続くのかとプレッシャーがありました」

 

そんな絶望的な状況の中で、新しい音楽が生まれます。
「よく『曲が降りてくる』なんて言うじゃないですか。私はその時までそんな事があるなんて信じられなかった。でも、突然その曲が生まれて『これのことか!』って」
その曲は『宮古の風』と名付けられ、SATOKOさんの代表曲となります。
「『宮古の風』が、自分が初めて作曲した曲なんやと思います。自分が何も無い中で生まれた曲なんです」
SATOKOさんに施された抗がん剤治療は幸いにも劇的な効果をあげました。子宮頸がんの手術も成功。
そして、投薬治療などによるがん再発との長い戦いと共に、生還した音楽家としての戦いも始まります。
2006年には『宮古の風』のCD発売。
「ボサノバを覚えたてでまだギターもほんのちょっとしか出来なかったんですけれど、沖縄で行われた山崎まさよしさんが出ているミュージックコンベンションに出ました。口ぱくならぬ、ギターぱくですよ」
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▲ガン支援組織のOB会の代表も務めることになりました。「皆医療関係者で音楽家は私だけですが、それがいいんですね」

 

営業活動も突撃で行いました。
「抗がん剤を製造した製薬会社に直接電話をかけて『宮古の風』をCMに使ってくれないかと直談判しにいきました。CMは叶いませんでしたが、いいご縁が出来ました」
薬を開発したドクターが偶然来日していたのに会わせてもらい「生きているのはあなたのおかげだ」と感謝の言葉を伝えることもできました。
「アホやと思われても、何もしなかったら何も起こらないですからね」
闘病生活の中で自分を助けてくれた音楽や人との何気ない会話が自分の救いになったことから、”希望のカフェ”の着想もこの頃浮かび、企画書執筆に勤しみます。
「企画書オタクでしたから、50回は企画書を書き直しました」
練りに練った企画書は助成金の対象となり、念願かない2013年、生まれ育った堺の『紙カフェ』で『カフェ・フェリシタージ』を初開催することが出来たのです。閉塞感から飛び出すように堺を出てから20年の月日が流れていました。
■音楽そのものが癒しである
長く続いたガン再発との戦いにも一区切りがつきます。
「骨髄検査で、分子的にも遺伝子的にも大丈夫だとお墨付きをいただいて、ようやく投薬を止めることが出来ました」
奇跡的な回復を遂げたSATOKOさんに多くの人が「なぜ治ったんですか?」と聞きますが、SATOKOさんはお茶で学んだことが大きいのだと答えます。
「いかに恐怖と向き合うのかというのが一番大変でした。そんな中で茶道で教わったいついかなる時にもリラックスしているという境地が支えになりました。音楽もそうです。私は『カフェ・フェリシタージ』で、音楽療法という言葉を使っていないんです。何故なら、音楽そのものが元々、癒しであり、メディスンだからです」
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▲2013年最初の『カフェ・フェリシタージ』も故郷堺の『紙カフェ』からスタートしました。
おしゃべり中心のライブは、毎回形態を新たにし、日本全国を回っています。
「to doになったら面白くないですよね。毎回毎回”今ここで”、Now & Hereの精神も茶道から学んだことです。利休の言う一期一会の精神。でも、毎回新しいことをするのは、リスキーで必死のパッチなんですけどね」
ルーチンワークとは程遠い変化をしつづけるスタイルは覚悟の上です。
「『宮古の風』も何百回歌ったかわからないけれど、何百回歌っても前の焼き直しでない白紙の自分に会う気持ちで歌っています」
『カフェ・フェリシタージ』も2年目になってようやく形が見えてきました。
「今回は堺で宮古島の詩人の詩を歌いましたし、今度は山口で金子みすずの詩を歌います。全部自分ひとりでやるんじゃなくて、分業することが出来るようになってきました。私は町と町、人と人を結ぶ、姉妹都市のように友好を結んでいくことがやれたらな、と思います」
堺に帰ってきてのライブでも嬉しいことがありました。
「ライブにいらしたお客様が『これまで自分が住んでいる堺のことをなんとも思っていなかったけれど、堺のことが好きになった』っておっしゃられたんです。ライブでローカルが大切とか堺を好きになろうなんて一言も言ってないし、堺の歌じゃなくて宮古島の歌を歌っていたのに!」
言葉でストレートに言わなくても伝わる力が音楽にはあるのだと実感したライブでした。
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▲2014年の『カフェ・フェリシタージ』も笑顔に包まれました。
どこの町にもSATOKOさんと同じような苦しみやコンプレックスを抱えている人は多くいるでしょう。『カフェ・フェリシタージ』のニーズは増えこそすれ減ることはないはずです。
町から町へ、”今・ここで”しかなしえない『カフェ・フェリシタージ』のSATOKOさんの旅は、まだはじまったばかりです。
SATOKO
カフェ・フェリシタージ:http://cafefelicidade.com/

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