黄金のまち堺から聖山高野山へ 第五回

堺の大小路から高野山女人堂まで続く西高野街道の一里ごとに13個の里石が置かれたのは江戸時代のこと。里石を目印に堺から高野山を目指す旅の記録、第5回は河内長野が舞台です!
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河内長野の産土神を祀る烏帽子形八幡神社の森。
河内長野駅前のベンチ。
堺出身の両性類、灯台守 カエルがまったりとしていました。
kaeru.jpg「十三里石の旅も九里石を過ぎて、1/3ぐらいは歩いたケロ。なんだか、1年ぐらい歩いている気がするケロ」
ane.jpg「カエルったら、何を寝ぼけているの? 目が醒めないのなら河内長野の特産品・爪楊枝をさしちゃうわよ」
kaeru.jpg「あ、さりげにご当地ネタをぶちこんできたね。ホモサピエンスのお姉さん! カエルは、河内長野に来たのははじめてで何もしらないんだけど大丈夫かな?」
ane.jpg「まかせてよ。私もさっき調べてみたんだけれど、堺と深い関係があったり、河内長野は今回の旅のテーマからみてもとても面白い場所ね」
kaeru.jpg「どこに調べに行ったの? お姉さん」
ane.jpg「駅前の観光インフォメーションよ。ここには河内長野の観ボラ(※)さんが常駐しているし、色んな資料プリントがあってとっても充実しているわよ」
kaeru.jpg「よし! 調べるのはお姉さんに任せて、カエルは面白い所に連れて行ってもらうケロよ」
ane.jpg「じゃあ、まずは地図を見て。これが河内長野市よ」
kaeru.jpg「河内長野市って、でこぼこの三角形をしているね。お姉さんの握ったオニギリみたいだケロ!」
ane.jpg「そうね。ここにも握りやすそうな両性類の頭が……」
kaeru.jpg「ノーっ!」
ane.jpg「そういえば河内長野の平野部の形って丁度、南の金剛山地に向かって指を広げた手のひらを突き刺したような形(※)に見えない? これを右手のひらに見立てると、西高野街道は、親指の付け根のふくらみ(母指球)にそって手首から手のひらに入っていき、小指側(小指球)から入ってきた東高野街道と、手のひらの真ん中で交わった後、緩いS字を描いて薬指方向へと向かうわねょ。わかる?」
kaeru.jpg「お姉さん。カエルの前足の指は四本なんだけど……」
ane.jpg「うっ。母指球もなかったか。と、ともかく、西高野街道を南へGOよ!」
※イケてるヤングは「観光ボランティアさん」のことを「観ボラさん」と呼びます。
※右手のひらだとすると西から170号線(外環)が親指、61号線・石川が人差し指、221号線・加賀田川が中指、371号線(高野街道)・南海高野線・天見川が薬指、310号線・石見川が小指と見立てます。地図、3D地図を見ての筆者のイメージなので、現地での生活実感とは一致しないかもしれませんが。
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▲河内長野市街地へ向かう西高野街道。 ▲南海高野線「河内長野」駅の駅前。西高野街道と東高野街道が合流します。

 

■吉年家、長野神社 13:15~13:20
ane.jpg「この大きな旧家は吉年家。江戸時代に勢神戸藩の郷目付をしていたんだって」
kaeru.jpg「あれ、河内長野には江戸時代・膳所藩の代官所があったんじゃなかったっけ?」
ane.jpg「よく覚えてたわね。江戸時代の河内長野は、いくつかの藩によって分割されて統治されていたのよ。市街の主要な部分を統治していたのが近江(滋賀)の膳所藩。膳所藩から分知されて生まれたのが伊勢神戸藩(元は西代藩)なの。それ以外には、烏帽子形山付近に旗本の甲斐荘氏領、滝畑や河合寺周辺に狭山藩領、その他寺領など……となっているわ」
kaeru.jpg「狭山藩は第2回の旅で知った藩だよね。イエヤス君の娘と結婚してたから助けられた小田原北条氏の子孫」
ane.jpg「膳所藩も徳川家の縁戚の親藩で、近江でも交通の要所を任されているわね。河内長野も、西、中、東の三つの高野街道が合流する交通の要所とういことで選ばれたんでしょうね」
kaeru.jpg「カエルも徳川ファミリーの一員になって大名デビューしてみたいケロ!」
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▲駅を降りてすぐ目につく吉年家の楠木。樹齢400年で高さ約20m、胴回り約7m。市の天然記念物です。 ▲第四回で訪れた膳所藩の代官所跡。
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▲吉年家の裏手にある長野神社。江戸時代の終わり頃までは、木屋堂(こやどう)の宮とも、素盞嗚大神(牛頭天王)を祀っていたことから牛頭天王宮とも呼ばれていました。 ▲大航海時代に想いを馳せつつ、駅前のインド料理店「ナンとカレーのおいしいお店シヴァ」でオススメセットをいただきました。

 

■天野酒(西条酒造)、別区坂 13:30~13:40
kaeru.jpg「なんだか甘い匂いがしてきたよ」
ane.jpg「ここは天野酒で知られる西条酒造(創醸1718年)さんよ。女人高野こと天野山金剛寺で作られていた僧坊酒『天野酒』が、昭和46年に復活したんだって。ほんと、いい匂いがするわねー。私も一杯いただこうかしら……」
kaeru.jpg「ノー酔っぱらいだケロ! お酒を飲んで坂のある街を歩くのはキケンだよ! 昔、坂道を転げ落ちてメガネを割ったのを忘れたケロか!」
ane.jpgノーアルコール、ノーライフよっ。せーめーてー酒まんじゅうをー」
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▲美しい景観を残す西条酒造さん付近の通りは、一見の価値ありです。 ▲別区坂。長野庄を東条(三日市地区)と西条(長野地区)に分けるので別区坂と呼ぶという説があります。
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▲大日寺。融通念仏宗の極楽寺の末寺。どうやらキリシタンと関係があると思われる『ヤソ地蔵』があります。現在は廃寺され、町の集会所になっています。 ▲大日寺古墳。弥生時代から江戸時代までの遺跡が重なって発見されました。ポンプ場に移築されています。
■烏帽子形山 13:50~14:00
ane.jpg「ここが烏帽子形山。南北朝時代から戦国時代末期まで城塞が築かれていたの。楠木正成築城の伝説があるけど、おそらく敵である北朝側の畠山氏の城ではないかって。大阪夏の陣の時には畠山氏ゆかりの甲斐荘氏が城主だったけど、その後廃城になったそうよ」
kaeru.jpg「メジャーなお城じゃないと思うんだけど、重要なお城だったの?」
ane.jpg「丁度烏帽子形山は、河内長野という手のひらの真ん中に置かれた小石。平野の四方を睥睨し、脇を高野街道が通るんだから、軍事上は無視できないお城よね。戦国時代、三好氏との戦いに用いられた際に出来た堺とのある縁が、今の河内長野にも影響を与えているの」
kaeru.jpg「堺の影響が今にも? まさか『堺っこ体操』が河内長野で大流行とか!」
ane.jpg「何『河内長野市民体操』ディスってんの! そうじゃなくて、その答えはキリシタン。1571年の戦いで、畠山側に堺のキリシタン武将伊地知文太夫(パウロ)がいたことが、烏帽子形山城が南河内のキリシタンの中心地になったきっかけの一つだったみたいよ」
kaeru.jpg「キ、キリシタンって何だケロ?」
ane.jpg「キリスト教徒のことよ。1549年、キリスト教修道会のひとつイエスズ会の創立メンバーの一人フランシスコ・ザビエルが来航し、日本にキリスト教が広まったのよ」
kaeru.jpg「堺にもザビエル公園があるケロ!」
ane.jpg「ちなみにザビエル公園は、ザビエルが住んでいた場所じゃなくて、ザビエルをもてなした日比屋了慶さんの屋敷跡だと知って、ちょっとがっかりしてしまうのは堺区の子供が必ず通る通過儀礼みたいなものよ!」
『河内のキリシタン』
ザビエルの影響で、河内一帯がキリシタンに改宗したと言われるほどで、6000人~7000人ほどのキリシタン集団がいたとされます。宣教師ルイス・フロイスの1581年の記録では、烏帽子形山の城下に壮麗なキリスト教会があり、500人以上が洗礼を受けたとの記録があるそうです。
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▲烏帽子形八幡神社の石段。神社は烏帽子形城の鎮守として祀られたとの説、遺跡のあることから古来から住民の産土神との説などがあります。 ▲今は公園となっている烏帽子形城跡を見上げます。急斜面がぐるりと取り囲み、攻め込むのは大変そうです。
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▲烏帽子形山でお会いした河内長野観光ボランティアの渡邊さん。「河内長野には、主要なもので十以上のキリシタンに関連する史跡が存在します」南部の天見は隠れキリシタンの里として知られ、他にもキリシタンを思わせる地名も点在しています。 ▲烏帽子形山城に住んだ畠山氏6代当主・畠山義深の隠居の地に建てられた増福寺。ここには普段公開されないマリア観音像があるとか。
■三日市宿 14:15~14:30
ane.jpg「三日市交番を過ぎて橋を渡ると、三日市宿ね。まずは史跡である油屋旅館跡があるわ。ここは、幕末の1863年8月17日の深夜、奈良での挙兵を目指した『天誅組』が休息をとった場所なの」
kaeru.jpg「天誅組って、大阪狭山の旅の時にも出てきたケロ!」
ane.jpg「先駆けて倒幕を試みた志士たちが、この道を駆け抜けていったのね。高野街道が戦の道として重要な役割を果たした最後の事件が、天誅組事件だったかもしれないわね」
kaeru.jpg「カエルは、『戦の道』より『食の道』とかの方が嬉しいな」
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▲天見川を渡る手前にある三日市交番。大正末から昭和初期の木造建築。 ▲三日市宿にも歴史景観の保護がされています。堺から一日歩きづめの旅人は宿の灯りを見てほっとしたことでしょう。
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▲登録有形文化財の八木邸。 ▲黄昏時の八木邸に灯がともる。
『第二の天誅組』
1867年鳥羽伏見の戦いのおり、河内の元天誅組などが参加して挙兵する事件が「第二の天誅組」と呼ばれていますが、すでに大勢は決しており、戦略的な重要性の高くないと評価されているようです。
■八里石 14:30
kaeru.jpg「やった! 八里石だよ、お姉さん! 八里石もお地蔵さんがセットでない、シンプルタイプの里石だね」
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▲南海高野線「三日市町」駅から道なりに高野街道を進むとしばらくしてある八里石。「安政四年巳年二月」(1857年)と刻まれています。
■千早口駅 15:30
ane.jpg「石仏寺を越えてから、川沿いを歩いたけれど、市街を歩いていたこれまでとはがらりと変わったわね」
kaeru.jpg「ハイキングみたいで楽しかったケロ♪」
ane.jpg「これから先は、大阪や河内の国を出て、和歌山県・紀州に入っていくわ。どんな旅がまっているのか楽しみね!」
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▲新町庚申堂。年に六回ある庚申の日に、人間の身体に住む三尸(さんし)という虫が寝ている間に天帝に宿主の悪行を告げに行くのを防ぐため、夜通し酒盛りをするという民間信仰があります。 ▲街道は山の懐に分け入り、風景も自然景観が満ちあふれるものに。
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▲旅人の無事を祈る宝篋印塔が路傍にありました。 ▲高野街道は、山を削る川沿いの谷間を進みます。
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▲この日は快晴。千早の空が旅を見守ってくれていました。
■参考文献
西高野街道ウォーキング徹底ガイド
河内長野市ホームページ
メメント ド ミニ

灯台守かえる

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