体験レポート

水野鍛錬所 与謝野晶子歌碑 除幕式レポート

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与謝野晶子生誕芸術祭の大イベントのひとつ、水野鍛錬所 与謝野晶子歌碑 除幕式が、2010年12月4日(土)に催されました。
当日は、言うことナシの快晴!
リニューアルされたばかりの水野鍛錬所の白壁が、青空に良く映えます。

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この灯篭は、もともと水野さんの蔵に長く保管されていたもの。新しくガラス部分を張り替え、美しく仕立て直しました。てっぺんにあるオレンジガラスは、七まち町家会の仲間である「七まち びいどろ」さんに作ってもらったそうです。夜になるとふんわりと灯り、良い雰囲気になるんだそう。

いつもは閑静なここ、綾之町界隈ですが、この日はいつもとちがう様子。

「身内の方にしか声をお掛けしなかった」とのことですが、多くの方がお集まりでした。その数、なんと100余名。流石としか言いようがありません。
集まった皆さんで、さあ、除幕式の始まりです!

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「出来るだけ皆さんで曳いてください」と声を掛けてくれます。

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水野さんよりご挨拶。

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皆で引っ張る!

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拍手の中、歌碑が顔を出してくれました。

「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」

「この歌は我々のためにある歌」と豪語するのはご主人、水野康行さん。
和泉の街の七まちとは、まさに水野鍛錬所がある、綾之町界隈のこと。ここは昔から、鍛冶職人が集まる町として有名でした。「七まち」とは、当時から鍛冶職人たちのみが使う、いわゆる業界用語。※七まちの語について参照
それにちなんで、「七まち町家会」という、まちづくり支援グループが誕生しました。堺の旧市街を盛り上げる活動を続けておられ、水野さんはその主要メンバーのひとり。
そんな特殊な言葉を盛り込んだ詩自体珍しい上、さらに愛娘である5代目水野七菜子さんの「七」と「菜」、ふたつの文字が入っている。そしてもちろん、水野鍛錬所は鍛冶屋さん。
「これは娘の名前を付けたあとに出会った歌なんです。もう感激して。我々のために晶子が歌った歌だ!と。」

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5代目水野七菜子さん、とても可愛らしい。でも実際に包丁を作る姿はカッコイイのです。
このアロハは切り絵作家 関美穂子さんデザインの手ぬぐいで作られたもの。和ロハと呼ぶそうです。

そして勢い余って?水野鍛錬所前に歌碑を建立。鍛冶屋らしく、形も刃物型に。
作りたての歌碑はなんとも穢れの無い美しさ。水野さんの熱い想いが伝わってきそうです。

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刻まれた文字は尼僧、吉田朝光氏の作。読みやすさを意識した、気品漂う優しい文字です。

この句についての歌意は、堺市市長公室文化部文化課学芸員 足立匡敏さんに解説して頂きました。

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江戸から明治にかけての堺は、菜種が多く栽培されていたそうですが、市街地には田畑はなかったはず。街からすこし離れた「菜の花の路」で、鍛冶の音を聞いている様子を歌ったのかも、と説明してくれました。堺の菜の花を歌ったほかの作品も紹介。

「菜種の香 古きさかひをひたすらむ 踏ままほしけれ 殿馬場の道」

更に、予言めいた歌をご紹介していただけました。

「古さとの 小さき街の碑に彫られ 百とせの後 あらむとすらむ」
100年後、私の作品は、故郷の小さな街の碑に彫られるであろう

この歌が発表されたのは1910年、つまりちょうど100年前!
「与謝野晶子の歌のとおり、まさしく百とせの後、小さき街、七まちに歌碑が建立されたわけです」と締めくくられ、多くの方の歓声が、水野鍛錬所に響きました。

ミニコンサートでは、なんと『住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音をきく 菜の花の路』が優しい旋律で歌われました。これには水野さんも大感激。美しい歌声を披露してくださったのは、歌手・谷内暁子さん。

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堺を連想する単語がふんだんに入った「茅淳(ちぬ)の海」は、まさに堺港から望む風景が、目の前に広がるような歌詞。「茅淳の海」とは現在の堺市から岸和田にかけて住吉の浜続きの海岸のことをさし、万葉集にも用いられる言葉です。

式が終わるとリニューアルされたばかりの水野鍛錬所2階で、ウェルカムフードを振舞われました。この美味しそうな食べ物たちは、実は奥様、照子さんお気に入りのフレンチレストラン、”フチ・アマファソン“のもの。

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この小さな空間が、皆さんの楽しげな笑い声で溢れます。

最後に、色々な方に歌碑と並んで頂きました。

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歌碑に刻まれた文字を書かれた吉田朝光さん。

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著書「堺意外史」で有名な堺歴史研究家、中井正広先生。

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水野ご夫妻。すっきりした初冬の空の下、除幕式は大成功!お二人もいい笑顔。

空の上から、晶子が微笑みながら見ているような気がした一日でした。

※「七まち」の語について
時の堺奉行池田筑後守正倫が宝暦8年(西暦1758年)に堺製のタバコ庖丁を全て買い上げることに決めました。そしてこれを幕府の力で日本全国に売り捌きました。この堺奉行がタバコ庖丁を買い上げるにはある条件に依って行われました。
堺の北部である北旅籠町、桜之町、綾之町、錦之町、柳之町、九間町、神明町の七町の内の中浜筋(現在の錦西小学校正門前の筋を北へ七町の間)に居住するものに限定して、最初は三十七軒の鍛冶屋を指定しました。さて前記の七町(ななまち)ですが、(与謝野晶子の歌にも「七まちの」とうたわれています)の七町とをいう言葉は、カジヤの専門語で、中浜筋を北から数えて北旅籠町を一丁目、桜之町を二丁目、柳之町を五丁目、神明町七丁目と称えました。晶子がこの七まちというカジヤ語をどうして知って居られたか、ちょっと不思議に思うのですが彼女が各方面の言葉を良く研究して居られたことには敬服する次第です。(信田藤次『刃物物語』1968年5月25日初版発行より学芸員 足立匡敏さんが構成されました)

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