空爆を生き延びたマンガ少年(3)

お話会参加者
松原市の小学校で先生をしていた竹村健一さんは、手塚治虫に憧れ、かつてはプロの漫画家を目指していました。その腕を活かして、大阪大空襲を生き延びた自身の経験も含めて戦争体験や終戦直後の生活をまんがにして伝える活動をはじめて30年以上の月日が経ちました。最初は全てアナログで描いていたものが、今ではパソコンを導入しデジタル処理を組み込んで作品作りを続けています。
2018年7月13日、堺区八千代通にあるカフェ「きらっと」では、竹村さんの作品を展示し、竹村さんを囲んでのお話会が開催されました。お話会のレポート記事3回シリーズの前・中篇では、竹村さんの戦争体験とまんが作品を描くようになった経緯を紹介しました。お話会の中には、戦争体験者もいたのですが、最後の後篇では、特別篇として参加者の体験談も紹介します。
■戦時下の生活
向井さん
▲向井さんは、日本各地を襲ったB-29を監視するために高野山山頂の監視所に交代で登った。

今は「きらっと」のご近所にお住まいだという向井さんは、今回最年長の参加者でした。1929(昭和4)年に和歌山県の高野山に生まれ、終戦時には16才で青年団の一員になっていたそうです。
「ラジオで(空襲の)敵機来襲を知らせる放送が増えていきましたが、高野山の頂上に爆撃機の監視所があって、青年団が交代で登って監視していました」
前篇では焼け出された堺など都会の人々が、向井さんの住む農村地帯へ来て物々交換で米を手に入れるエピソードを紹介しました。せっかく手に入れた食糧も、帰りの電車で検査に遭って闇物資として取り上げられてしまう。都会人にはそんな苦労がありましたが、農村には農村で苦労があったようです。
「農村でも野菜を供出させられました。隠していても家の中を調べられるので、山奥に米を隠すようになりました。自分たちの分を隠して、残りを出すようにしていたのです」
農村も都会も疲弊し、空襲が日本全土を焼き尽くした果てに、日本は敗戦します。
「16才の時でした。どうやら戦争に負けたらしいと皆がいいました。アメリカ兵が来たら皆殺しにあうから、谷の奥へ逃げろ。そんな話をしました」
長い戦争は終わりました。しかし、人々の苦しみは終わりませんでした。
■戦争は終わってからも長く続く
橋本さん
▲北区の橋本さん。今回はお話を伺えませんでしたが、奥さんも貴重な体験談をお持ちだとか。

北区からこられた橋本夫妻。今回は旦那さんが体験談を語ってくれました。
橋本さんは終戦の年に生まれました。
「生まれたのは堺の大空襲の2週間前で、私はお腹の中にいたときから栄養失調で長く生きられないと言われた子どもでした」
だから、橋本さんには戦争中の記憶はないのですが、少し年上の子どもになると違っていました。
「1つ年上の子だと、(戦後も)B-29が来たー! って言うと泣き出しましたね」

田中さん
▲田中さん(右端)の10歳年上の姉もサイレンを聞くと空襲警報を思い出し火が付いたように泣き出したそうです。
橋本さんが生まれ育ったのは北区の金岡でした。陸軍金岡連隊の駐屯所があり、戦後は進駐軍に接収されて金岡キャンプとなります。
「父親は軍隊帰りで、家では暴君でした。金岡連隊にいましたが、輜重隊だったのでいい目にあっていたのではないでしょうか。戦後は進駐軍が小学校の前までガムを撒きにやってきたりしました。若い女の先生が金岡キャンプを通って小学校まで通っていたので、米兵に冷やかされていたりしました」
戦争が終わっても苦しい生活は続いていました。
「家は三反百姓(三反しか耕作地がない貧しい農家)でした。服も鯉のぼりを切って子どもの服に仕立て直したりしていました。食べ物がずっと無くて栄養失調でした。私が6年生の時、朝礼で列に並ぶと、6年生よりも隣の5年生の列の方が背が高かったですね」
丁度終戦の年に生まれた橋本さんたちの世代は、特に胎児の時に栄養不足だったことが後々まで影響したのでした。
「私も60才を過ぎてから病気ばかりをするようになって、医者に診てもらったら、全身のレントゲンを撮られて、上半身はいいけれど、下半身の骨が未熟なのだといわれました。胎児の時に栄養失調だったので、下半身の骨や関節が育たずに生まれたのです。だから筋肉がつかなくて病気がちになってしまったのです」
すると、橋本さんの隣に座っていた竹村さんが話に加わりました。自分の腕を橋本さんの腕に並べて言います。
「私も未熟児でした。だから腕が細いでしょう」
竹村さんも、橋本さんも、戦争の生き証人でした。
「戦争は終わってからも長く続くのです」
橋本さんは言います。生まれたばかりだった橋本さんに戦争の記憶は無くとも、戦争は橋本さんの身体に刻まれていました。戦争が破壊した生活を生き延び、社会が復興して戦争が見えなくなった後も、橋本さんたちの傷は癒えないままなのでした。
■戦争の記憶を後世に伝える
瀬藤さん
▲瀬藤さんは、「平和のための戦争展」で司会を担当されます。

橋本さんは、戦争の話をもっと記録しないといけないと、近所の方などから聞き取り記録をとり始めたそうです。
同じく北区から来られた瀬藤さんも、昭和14年生まれで、戦争体験を伝えることが大切だと言います。
「私も竹村さんの『はらぺこのうた』にあった通りの体験をしました。(空襲を恐れて夜間の灯りを制限する)灯火統制や雑草を採りに行った経験もあります。戦争中、よく病気で亡くなったみたいに言うけれど、本当はみんな餓死です。戦争が終わる前から餓死、戦後も餓死されています。私たちが、どこまでも伝えていかないといけないのが戦争の体験だと思います」
しかし、戦後長い時間がたち社会から戦争の記憶が薄れ、自分たちに都合のいい記憶ばかりが主張され始めています。
「お話をしていて、加害者の立場であることを知らない年寄りもいるのです。空襲や原爆でアメリカにやられたという印象ばかり持っているけれど、それだけが戦争の全体像ではありません。そういうことも子どもたちに教えて行かないと。だから竹村さんには毎年来ていただきたい」
竹村さんも、記憶が薄れ歪んでいくことに、すでに危機意識を感じていたようです。
「日本人は、どうしても被害者としての視点ばかりになりますが、韓国に行けば日本人は加害者の視点になる。沖縄に行けば、沖縄の人が日本兵に沢山殺されたりしている。沖縄の人との出会いもあり、その人の体験もまんがにしています。アメリカ軍の兵士にも日系人の兵隊の複雑な立場の人もいる。テーマにしたいことは、まだまだあります。堺に住んで40年になりますが、元気な間は戦争体験を伝えていかなければという気持ちでいます」
お話会に集まった人たち
▲質問する隙間がないほど濃密な体験談が続きました。
竹村さんを囲んでのお話会は、参加者が互いの戦争体験を語ったこともあり、2時間の時間も瞬く間でした。戦後70年以上の月日がたち、軍隊に入り、戦場を経験した方ともなれば90才を越える高齢者になります。加害の記憶が薄れるばかりか、竹村さんや向井さんら戦時中に少年期を過ごした方たちも数少なくなりつつあり、被害の記憶も薄れていきつつあります。
そんな中で、戦争体験を後世へ、特に子どもたちへわかりやすく伝えていこうとする竹村さんの活動は大切なものです。『平和のための戦争展』などで、ぜひその作品に触れてみてはいかがでしょうか。
きらっと

大阪府堺市堺区八千代通3−26
072-227-7150
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