大和川の今(1) ~海の守り人と河口を巡る~

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大和川が今の位置に付け替えられて300年が過ぎました。江戸時代の中頃、淀川に流れ込んでいた大和川を堺の海へと人の手によって流れを変えたこの付け替えは、堺に禍福両面をもたらしました。川の運ぶ土砂は堺の港を埋めてしまい何度も移転・修復を強いた反面、新たに出来た土地を堺の人々は新地や新田として積極的に開発したのです。
陸の海への拡張は戦後になっても続きましたが、その陸と海の歴史の中を生きた人物がいます。それは出島漁港の漁師・高田利夫さん。戦後若くして漁師となり、後に堺漁業協同組合の組合長にも就き、堺の海のことも港湾開発のこともよく知る生き証人です。
この日、「大和川水環境交流会」というイベントで予定されている高田さんの講演会の下準備に同行して、大和川河口付近の埋め立て地や湾岸を案内していただきました。
高田さんの語る陸と海の境、大和川河口の昔と今の物語。今回は前後編でお届けします。(高田利夫さんについては→「海の社会見学」
■埋め立て地を行く
高田さんと合流し、出島漁港から堺浜へ向かいます。高田さんがハンドルを握る車には、私たちの他にも同行者がいました。それはトイプードルの「コウちゃん」。高田さん行きつけの喫茶店の看板犬で、高田さんのお出かけにはいつも同行するよき相棒です。
「今まで色んな犬を飼ってきたけど、こんな賢い犬は見たことない」
運転席と助手席の間に落ち着くコウちゃんは、高田さんの言葉を理解しているようでした。
車は工場や倉庫の多い埋め立て地に入ります。ドライブの道すがら、高田さんは埋め立て地の歴史を教えてくれました。
「ここから向こうは戦前の埋め立て地。昔の堤防が沈まずに残っているのが見えるでしょ」
新日鐵のあたりでは、目には見えない地面の下のことも。
「この辺りの地面の下は鉱滓(こうさい:鉱石から金属を取り出す際に分離した残りかす)で埋め立てているから、絶対に地盤沈下はしない」
かつて建てられていた巨大なラジオアンテナ、今は道路になっている所もかつては木の橋が架かっていたこと。車窓の向こうの風景の中にあるものの中に、消え去ったものの中に、歴史の痕跡があることを高田さんのお話は教えてくれます。
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▲工場や倉庫群の向こうに広々とした広場がありました。

車は草はらの公園に接した駐車場へ。
ここは「海とのふれあい広場」。大和川河口の南岸の最先端になります。駐車場にも、公園にもちらほらと犬を連れた人たちの姿が見えます。市街地や工場地帯の雑然とした景観とは別世界で、ここは隠れた市民の憩いスポットになっているようでした。
「コウちゃんも行こうか」
4人と1匹の一行は、潮風の中、海辺へと向かいます。
「あれを見て欲しいんや」
フェンスの向こうに広がる大阪湾。高田さんは、その水面から見える半月状の石垣のようなものを指し示しました。
「あそこに干潟を作ろうとしているんや」
もし、パソコンで堺浜の地図(航空写真)を見ることができるなら確かめてみてください。「海とのふれあい広場」から海に向けて何かフックのようなものが突き出しているのが分かるはずです。地図でも見ることができるほど巨大な、これが高田さんらが作ろうとした干潟です。
「石は全部沈めてあって、あとは砂を入れるだけやねんけどな」
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▲漁師の高田利夫さん。その視線の向こうにある細い砂浜のようなものが造成中の干潟。
もちろん、この干潟は高田さん1人で造っているようなものではありません。
この埋め立て地が造成される際に、漁業補償の一環として、失われる干潟の代わりに新たな干潟づくりが計画されたのです。
「実は、これはテストの干潟なんや。このテストの干潟で、魚の稚魚の生育などが調子よくいけば、もっと広大な範囲を干潟にする予定やった。あの堤防の先に赤い灯台が見えるでしょう。あそこから、河口の端まで三角形に干潟を作る計画でした」
しかし、この計画は大阪府の財政状況の悪化や方針転換もあり進んでいません。もしテストが良好な結果で、本計画に進めば広大な面積の干潟が生まれるはずでした。この目前に広がる海、その一面が干潟になっていたかもしれないのです。
干潟をなぜ高田さんたち漁師さんらが作ろうとしたのか。それは干潟が、生命のゆりかごとも言える場所だからです。文字通り魚など海の生き物の生殖の場、稚魚が育つ場であり、野鳥なども飛来し、様々な生物が生きていくのに干潟は大切な場なのです。
「干潟に植える葦をどうしようか。日本の葦にしようか、それともチチカカ湖の葦の方がいいのか、そんなことまで議論してどうするか決まっていたんです」
高田さんはフェンスの向こうの海をみつめます。
こうして計画が止まり、砂を入れることなく干潟が未完成なままになっている一方で、必要以上に砂があふれ出している場所もあります。私たちは、高田さんの案内で、そちらへと向かうことになりました。
■河口から見た大和川
高田さんの車は大和川を渡り、大阪市内へと向かいました。
大和川沿いを西へ向かう道すがら、ここでも高田さんによる湾岸開発史のレクチャーが続きます。
「このあたり(住之江区平林南付近、永大産業の東側)には火薬庫があって何度も爆発した。こっち(その道路を挟んで海側)には潜水艦用の水路があった」
「この先に少し道が盛り上がっているでしょう。あれは住吉川のあった跡。住吉川はさるぼ貝という貝が沢山とれた。すくうと砂よりも沢山貝がとれた」
高田さんの言うとおり、車は少し勾配した道を上り下りします。
「戦後、『狼が出るからきいつけなあかん』と子供が言われたもんや」
戦後の大阪の町中で狼? ニホンオオカミは明治時代には絶滅しているのでは?
「もちろん本物の狼じゃない。シェパードや。アメリカ軍が撤収した後、軍用犬のシェパードをほかしていきよったんや。それがお腹をすかせて子供を襲うから気をつけろと」
これは初耳でした。戦後の目立たないエピソードかもしれませんが、生活者の視点では見過ごせないエピソードのようにも思います。

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▲大阪市側の「丸高渡船」のはしけから、対岸の堺を望む。真正面に見えるのはJ-GREEN堺。
そうこうしているうちにたどり着いたのは、河口に面した「丸高渡船」のはしけ。丸高という名前から分かるように、創業は高田さんによる渡船屋さんです。
今回も、コウちゃんと一緒にはしけにわたりました。すっかり慣れていて海を怖がる様子もありません。
はしけのふなべりに立つと、右手(西)に大阪湾、正面には対岸にある先ほどまでいた堺浜とテストの干潟、左手(東)に大和川の河口が見えます。
高田さんは正面の海を指さしながら言いました。
「あの竿がたっているあたりから浅くなっていて、深さは1mぐらいかな。歩いて向こう岸までいけるよ」
堺の港はかつては、36万トンもの大きな船も入港できました。当時は20mもあった水深が、今では6m程度になっているとか。大和川が上流から運ぶ砂。それが今では、この広い河口部をすっかり浅くしてしまっているのだそうです。
「上流へは、この船じゃないと入っていけないよ」
はしけには二艘の船が繋がれているのですが、その小さい方の船でないと大和川を上ることは出来ません。高田さんは、川で鰻漁をするときには、この小さな船を使うのだそうです。
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▲大和川の上流方向。手前にある小さな船でなければ遡れないほど、砂で川底は浅くなっている。

大和川河口の変化はそれだけではありません。
「大和川の貝がすっかり姿を消してしまった」
温暖化の影響なのか、これまでとは違う種類の魚も獲れるようにはなっている。でも、高田さんによると、貝が姿を消したのは、ある施設より下流に起きている現象なのだそうです。
「下水処理場から下流にある堤防からずっと貝がいなくなってしまった」
大和川河口にある三宝下水処理場は、生活排水と雨水を処理している下水処理場で、非常に優れた処理施設だそうです。その施設で処理され、綺麗になった水が流される大和川でなぜ貝が姿を消したのでしょうか。こうした現象は、堺だけでなく他の下水処理場の下流でも見られるとか。
仮説の一つとしては、あまりにも水が綺麗になりすぎてしまったこと。微生物の餌になる有機物まで無くなるほど処理しすぎてしまったのではないか。そして、もう一つは、
「今色んな洗剤が出ています。最新の下水処理でも追いつかないほどの洗剤になっているんじゃないか」
処理しきれない化学物質が流され、海の生物に影響を与えているのではないか? そんな疑念があるのです。
「下水処理場でろ過した水を、大和川の河口ではなくて、旧堺港の方に流すことは出来ないだろうか」
海の生物への直接の影響は同じかもしれないけれど、繁殖の場でもある川への影響が避けられるのなら、状況が変化するかもしれないからです。高田さんは、マイナス要因を減らすだけでなく、より直接的な打開策も提案しています。
「大和川の上流にシジミの稚魚を撒いて欲しい。そうしたら、下流の方に少しずつシジミが流れてくるでしょう」

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▲世界中の海で巨大魚を釣り上げてきた高田さん。後ろの大きな魚の模型は、釣り上げたカジキマグロから型をとってつくったものだそうです。
「海の中で何が起こっているのか、海を管理する役所の人間もちっともわかってない」
海で起こっている変化。それを知るものは、今も漁で海へ出る高田さんなど、日々その体で川や海と向き合っているごく限られた人だけなのでしょう。
そんな高田さんの語る、かつの堺の海の様子は詩の世界のようでした。
「鏡みたいに静まった水面を、海鳥の黒い影が横切ると、突然真っ白に水面が泡立つんや。それは鮎の稚魚の群れが、鳥に驚いて騒いだんや」
私たちはそんな海を取り戻せるでしょうか。そのためには戦後の堺の海と共にあった高田さんが、今ここで感じている変化、高田さんからの警告に、私たちは真摯に向き合うべきなのではないでしょうか。
後篇では、その高田さんと川を愛する若い世代との出会いの場をレポートします。

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