古墳時代の文明開化(1)
古墳時代、私たちの祖先はどんな暮らしを送っていたのでしょうか?
その当時から、今にいたるまで「焼き物」は私たちの生活に欠かせない日用品であり続けましたが、歴史上何度も技術革新が行われてきました。そして、古墳時代に日本における焼き物技術革新の中心地域が、この堺にあったのです。
堺で起きたという焼き物界の技術革新(イノベーション)のヒミツを探りに、今回は企画展『堺に窯がやってきた!』(2018年7月14日~9月24日)開催中の堺市博物館を訪ねました。
■2585点の重要文化財
案内してくれたのは展覧会を企画した学芸員の橘泉さんです。
堺市博物館の常設展の奥にある企画展のコーナー。その入り口にある看板には大きな甕がパネルになっていました。
「これは原寸大の須恵器の甕です。大きすぎて展示できなかったので、パネルにしてみました。硬くて水を貯めることが出来る須恵器(すえき)を作る技術が入ってきて、このような巨大な甕が沢山作られました」
▲須恵器のパネルの前に橘さんに立ってもらいました。須恵器で大きな甕が作られるようになりました。 |
「須恵器(すえき)」こそ、この企画展の主役である焼き物です。
それまで日本で作られ使われていたもろくて水がしみだしてしまう「土師器(はじき)」とは違う焼き物で、朝鮮半島から持ち込まれた様々な技術革新によって作られるようになった焼き物なのです。
この「須恵器」とは一体どんな焼き物なのでしょうか。橘さんと一緒に見ていくことにしましょう。
「須恵器には色んな形のものがありますが、その形形で形や作り方や模様の入れ方も似ているのです。何かモデルがあって、それを真似ていくのでしょう」
展示されている須恵器には、壺やお皿もあれば、杯など様々なものがあります。
▲様々な形の須恵器が作られています。キャプションに青いシールが貼られているものは重要文化財です。 |
「青い丸いシールがキャプションに貼ってあるものがあるでしょう。それは重要文化財なのです。須恵器の重要文化財は堺市博物館に2585点もあるのです」
――重要文化財が2600点近くもあるとは驚きです。
「ただ陶邑の須恵器の重要文化財は綺麗なものが一杯あるとかではないのです。例えば、1000点ぐらいはこの杯身(つきみ)というモノを入れる器です。これも、よく見ていただくと、欠けていたり割れていたりするでしょう。歪んでいるものもあります。これらは失敗作として窯の近くにまとめて捨てられたものなのです」
――なぜ、そんな失敗作が重要文化財になっているのですか!?
「集落とから出る須恵器は、長く使われたり、短く使われたりでそれだけでは時期の特定などは難しいのです。でも窯からは失敗作が一括でたくさん出てくるのです。一括で出てくるということは、窯ごとの器形の変化や、組み合わせの変化が追いやすい。変化の順番が分かるので、器の新古が推定できるのです。これを並べていって形や組み合わせの基準が出来ると、年代の分かるものと一緒に須恵器が出てきたとき、その前後の須恵器の時代が推定できます。これが古墳や集落の年代を決める手がかりになるのです。この基準を作るための資料となるのが、陶邑の窯かr見つかった大量の須恵器です」
――なるほど、失敗作だからこそ後世に残って、学術的な価値をもち重要文化財になったのですね。
▲窯の中でひっついてしまった失敗作の須恵器。失敗作だから重要文化財に指定されている。なかなかシュールな形ですね。オブジェっぽい。 |
堺市の中区から南区、そして和泉市や大阪狭山市にかけて、須恵器を作る技術を持った集団がおり、『陶邑(すえむら)』と呼ばれていました。陶邑では500年にも及ぶ期間で、800基もの窯が発見されているのだそうです。
▲陶邑のあった中区陶器地区には、須恵器作りの集団の長らのお墓とみられるカマド塚が多数残され、陶器千塚と呼ばれている。写真の小山がカマド塚。 |
この陶邑こそ、当時日本最大級にして、唯一無二といってもいい巨大須恵器製造物流センターだったのです。日本の焼き物の歴史は、陶邑抜きには語れない。陶邑が無ければ、ひょっとしたら私たちの日常生活も随分違ったものになったかもしれない。そんな陶邑の価値と魅力を、この企画展は伝えてくれるものなのです。
■生活を変えた須恵器
▲岸和田市持ノ木古墳出土の須恵器。 |
展示を続けて見てみましょう。
「こちらは岸和田市の持ノ木古墳から出土したものです。朝鮮半島で焼かれる須恵器と形や模様がよく似ていますが、朝鮮半島で作られたのか、朝鮮半島で作られたものを真似して日本で作られたのかは良くわかりません。5世紀の初めには、岸和田以外にも大阪府の河南町や吹田市など各地に窯があったのですが、なぜか古い窯は長く続かなかったのですね」
古い窯が消え去った後、陶邑に須恵器の窯が集中することになります。これは、自然にそうなったのか、権力による強制力が働いたのかは分からないそうです。
「その頃大阪の河内や奈良の辺りでヤマト政権が力を持っていました。最新技術であった須恵器を独占するために、地方の古い窯の使用を禁止して、陶邑で集中的に管理したのかもしれません」
▲朝鮮半島から来た人々が作ったと考えられる器。その後の日本には定着しなかった。 |
須恵器自体もずっと同じものが作られていたわけではなく、はやりすたりがありました。
「朝鮮半島から伝わってきた生活道具の中でも、広まったものと広まらなかったものがあります。こちらの底が平らで深い器は広まりませんでした。一方で、竈(かまど)はよく広まりました。それまでの日本では家の中でもたき火をしていました。竈(かまど)は効率が良く使いやすい。そして、竈(かまど)とセットで広まったのが甑(こしき)という蒸し料理をする道具です。それまで日本には蒸し料理は無かったのですが受け入れられて、甑(こしき)と竈(かまど)と共に日本に広まりました」
▲竈(かまど)。竈の登場で、料理はぐっと楽になったことでしょう。 |
▲長胴甕。細長い甕(かめ)で、水を入れて直接火にかけるため、火に耐えられる土師質で作られている。 |
▲甑(こしき)。底に穴があいていいるので、すのこのようなものを敷いて使ったのではないかと考えられる。 |
須恵器は直接火にかけると割れてしまうため、直火にかけることができる土師器の長胴甕を間に置き、長胴甕に入れた水を沸かせて、甑(こしき)に入れた米などを蒸したようです。
このように須恵器をもたらした技術革新は、食文化など古墳時代の日本人の暮らしを変えていきました。
▲和泉市の信田千塚古墳群から出てきたオブジェのような焼きもの。何を表しているのか、なんのためのものかよくわからない須恵器もある。 |
■須恵器で作れ!!
他にはどんなものが須恵器で作られたのでしょうか。
「泉州らしいものとしてタコツボがあります。今でも阪南市では「大阪湾南岸のタコツボ漁具」として有形文化財になっていますが、タコツボの須恵器は泉州特有のものといえるかもしれません」
展示されているのはちいさなタコツボで、タコの中でもイイダコ用のタコツボのようです。
▲イイダコ漁のために使うタコツボなどの道具。 |
意外なところでは、硯(すずり)も作られていました。
古墳時代から、飛鳥時代、奈良時代と時代が進むと、墨で文字を書く文化も広がっていったのでしょう。南花田からは、ゆるキャラにでもなりそうな落書きをした須恵器も見つかっています。
▲丸い形の硯。 |
「須恵器は飛鳥時代には少なかったのですが、奈良時代になるとすごく増えます。奈良時代には日本各地に役所が出来たため、都で役人が使う食器などと同じものが各地で使われるようになります。仏教で使われるようなものも、金属製品は貴重なので、須恵器で作ったりしています。金属に見えるように模様も入れて工夫しています」
ここまで須恵器の用途が広がると、陶邑だけでは製造を賄えなくなります。再び日本各地に窯が出来て須恵器が作られるようになります。
▲なんだかよくわからないキャラクターっぽい落書きが残されている。 |
須恵器の独占製造販売が出来なくなったからでしょうか、平安時代になって陶邑も終焉を迎えます。須恵器も、その後愛知県などではしばらく残っていましたが、それも作られなくなり、歴史から消え去ってしまいます。
一体、長い焼き物の歴史の中で、須恵器にはどんな価値があったのか、そしてなぜ消え去ってしまったのか。そのヒミツは引き続き後篇でお伝えします!
堺市博物館
大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
企画展『堺に窯がやってきた!』
会期:2018年7月14日(土)~9月24日(月・祝日)
休館日:月曜日(ただし、祝・休日は開館)