イベント情報

失われた風車の風景を求めて(2)

20170829_windmill02_00_face01.jpg
オランダの風車を参考に生まれた揚水風車「石津の風車」は、大和川下流から泉南の海岸にまで、最盛期には400基も稼働して農作業を助けました。戦後、その役割を終えて、姿を消していった風車ですが、小学校や公園にまるでモニュメントになって残された風車が十数基存在します。
どうして堺の人たちは、役に立たない風車を残したのだろうか。「大阪府の近代化遺産」の中で格段の4ページの紙幅を割いて風車を紹介した社会景観工学の岡田昌彰教授にアポをとって、お話を伺ってみることにしました。
■意図していない美
難波から電車で東へ10数分向かうと、最寄りの八戸駅です。駅前には大きなビルも目につかず、空は広い、いつの間にかそうなってしまった郊外の住宅地といった風情です。スマホで調べるとバスの出発まで随分先だけど、多分ネットが把握していない便があるのではと、ロータリーを回ると、案の定ありました。大学への直通便。
直通バスで10分ほど、たどり着いたのは真新しい近畿大学のキャンパスです。

20170829_windmill02_01_kindai01.jpg
▲最近は「近大マグロ」やスポーツでも注目されている近畿大学。
研究室で岡田さんとお会いすることが出来ました。
風車のお話を伺う前に、どんな切り口から岡田さんが風車を取り上げたのかを知りたくて、社会景観工学とは何かをお聞きすることにしました。
「景観工学人工構造物の景観について研究する学問です。たとえば工場の景観などです」
そういえば工場や工場夜景は、ちょっとしたブームになっていて、つーる・ど・堺でも高石商工会議所が企画した工場夜景撮影ツアーにお邪魔したことがありました。
「日本の工業都市には、市役所にも観光課がないような都市が多かったのですが、工場夜景がいいんじゃないかというのがSNSで広がって、観光をやってみようという声があがりはじめました。2011年には、比較的成功している四つの都市、川崎市・北九州市・室蘭市・四日市市で、市役所や商工会議所、観光協会などが中心になって工場夜景サミットが立ち上がったのです。サミットは、毎年場所を変えて行われ、だんだん仲間も加わっていきました。尼崎市、周南市、千葉市、富士市、実は堺市・高石市も今年加わったんですよ」
ずっと工場を観光資源として取り組んできた高石市はともかく、堺市までついに工場夜景の分野に力を入れ始めていたとは知りませんでした。
20170829_windmill02_01_yakei01.jpg
▲高石市の工場夜景ツアーから。
いち早く、工場景観に注目した岡田さんですが、そもそもの個人的なきっかけは鉄道だったそうです。
「茨城県日立市の出身なんですが、東京へ行くことになって楽しみだったのが、鶴見線でした。鶴見線は工場地帯を走る路線で、工場地帯を無理矢理通したために、カーブが急で一両が長い新しい車両では走れずに、昔の古い車両を使っていたんです。それを見に行った時に、工場の風景が面白くて惹かれたんです」
これまで観光地的な景観の範疇には入らなかった美を、岡田さん個人の「目」が気づいた例ともいえるでしょう。
しかし、三つ子の魂百まで的に大学の修士も博士もテクノスケープ(景観工学)でとった岡田さんは、先駆的すぎたのかもしれません。工場景観は当時の先輩方からはまるで注目されなかったとか。
「一般的な景観工学といえば、庭園の景観や道路の景観、土木デザインでダム景観をどうデザインすればいいのかを研究するのが主流です。工場景観のような、意図せずに生まれた景観に一体なんの価値があるのか。でも、作った人は美しさを意図していないのだけれど、人々はそこにある美しさにシンパシーを感じてしまうのかもしれません」
意図せざる美、作為のない美だからこそ、そこに価値を見出す人も少なくないのでしょう。
■風車との出会い
そんな岡田さんが堺の風車の事を知ったのは、1980年代に出版された近代建築のガイドブックでした。ガイドブックで知って、いつか大阪に行く機会があれば実物を見たいと思っていた岡田さんは、近畿大学へ赴任した2003年に、さっそく堺へ向かったのだそうです。
「4月に赴任して5月には堺へ行きました。それ以前に知り合っていた堺市文化財課の方に教えてもらって、風車を見に行きました。どこかの団地のゴミ捨て場のような所にその風車はありました」
それは堺区の楠町にあった風車でした。
「ブレードも無くなっていてボロボロだった。とても歓迎されているようには見えませんでした。所有者の方がなんとか残していましたが、いつ無くなるかわからないと言われていました。案の定、そのご主人が亡くなると取り壊されてしまったそうです」

20170829_windmill02_00_face01.jpg
▲残されていた古い風車。(写真提供:柴田正己氏)

その後、今回岡田さんを知るきっかけとなった「大阪府の近代化遺産」の企画が持ち上がります。
「堺の風車が残っていれば取り上げたかったという話をしたんですね。すると、ゼミの学生が残っているといいだしたんです。その学生は堺の子で、自分は小学校に残っている風車を見たことがあると」
確かめると、いくつかの小学校に風車は残っているようでした。
岡田さんは「大阪府の近代化遺産」に、「堺の揚水風車」を取り上げるように主張するとokが出て、しかも岡田さんの熱意が伝わって4ページという破格のページ数が割り当てられたのです。
その堺の学生・花畑保志さんと岡田さんと共に現存する風車について2006年に調査しました。堺の小学校に片っ端から問い合わせをすると、12基の風車が残っていることが確認されたのです。堺だけでなく、豊中の服部緑地にある日本民家博物館に移設されたものもありました。
「風車は移設されたものもあれば、新造されたものもありました。新造されたもののうちの何基かは、風車を開発した農鍛冶の中尾正治さん自身が作ったものもあったのです」
製造者自身が新造した風車。それは後に、「近代化遺産」という概念に一石を投じることに、もなります。
また、岡田さんを驚かせたことがもうひとつありました。
「五箇荘東小学校の風車が、『ソニー子ども教育科学プログラム』の優秀賞と優良賞を受賞していたんです」
それはソニー教育財団によって、子供たちの「科学する心を育てる」ことを目的に造られたもので、簡単には受賞できない権威のある賞でした。
風車は、過去を懐かしむだけのものではなく、未来を作っていく子どもたちにとって大切な「科学する心」を育むものとしても評価されるものだったのです。
ところが、話はここで終わりません。この調査から数年後、岡田さんに再び風車を調査する機会が訪れました。この2013年の新しい調査で、新しい事実の発見と残念な変化があったのでした。
(後篇へつづく)

灯台守かえる

関連記事

Remodal

Remodalテスト

Write something.


PAGETOP

remodal