最後の文人が堺に遺したもの(2)
幕末から明治にかけて活躍した「最後の文人」富岡鉄斎は、独特の筆致で近代文人画を生み出した画家として知られていますが、本人は学者を自任していました。それも行動する学者でした。勤王の志士と交流をもち、薩摩藩出身で堺県知事となった税所篤との縁があって、泉州一宮といわれた堺の大鳥大社の宮司になります。しかし、当時の大鳥大社は廃仏毀釈の影響もあってすっかり荒れ果てていたのでした。
(→前編)
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■絵画で国土を平定する
大鳥大社の祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)です。富岡鉄斎の筆による「倭武大神図」が残されているのですが、これは荒々しい武人の姿ではなく、柔らかな美少年の姿で描かれています。堺市博物館の学芸員宇野千代子さんによると、
この日本武尊の姿は鉄斎のオリジナルではなくて、他にも描いている画家がいて、原典があったようです。当時の状況を想像すると、もしかすると、こうした絵を掛けて神主さんたちが聴衆にお説教をしたんじゃないかと思うんです」
お坊さんや牧師さんならともかく、神主さんが説教というと違和感があります。仏典や聖書のような哲学・神学を内包し、歴史的にも論争などを通じて鍛錬されてきた経典を神道はもちません。個人としてはともかく、職業人としては無理があるのでは?
「明治政府が教導職として神主にも人々に説教をせよと命じています。しかし、やっぱり神主さんは説教が下手だったようで、明治5年に出された教部省の通達で神主の説教に事細かにこうせよと命じているんです。ただ下案を読むのではいけないとか、聴衆が退屈するから1日のお説教の回数を減らせとか」
話好きのおじいさんの長話になりかねなかったんでしょうね。鉄斎は、得意技を駆使したビジュアルで氏子さんたちを引き付けようとしたのかもしれません。
「明治政府は実験的にいろんな政策をしていて、うまくいかなかったものも多かったんです。教導職には神官とともに僧侶も任命されていますが、僧侶たちは政府の求めるような話よりも自分の宗派の話をしがちだったようです。明治初期の宗教政策には、理想と現実の矛盾が多かったようです」
▲大鳥大社の拝殿。 |
神主の説教は政策としてうまくいきませんでしたが、鉄斎が絵に描いた明治天皇行幸も、宗教を利用して国を治める政策のひとつだったと言えるでしょう。江戸時代に神秘的な権威をもっていたのは徳川幕府の将軍で、天皇は影がすっかり薄くなっていました。天皇こそが、この国の支配者だと知らしめるために行われたのが、明治天皇行幸というデモンストレーションでした。
明治天皇は日本中を行幸していますが、明治10年に行われた関西行幸には特別な意味がありました。丁度、明治天皇の父・孝明天皇が死去してから10年の10年式年祭で、制定されて程ない紀元節に最初の天皇・神武天皇陵にお参りするという目的があったのです。
これは、神武天皇が国を平定したという神話を、明治天皇がなぞり二重写しにして再度国を治めるという、神話の再現を意図したデモンストレーションだったのでしょう。ある種の呪術といっていいかもしれません。「神主のお説教」も、これに連なる政策の一環のようにも思えます。
当時は、奈良全域が堺県に含まれていました。堺県知事税所篤は、明治天皇行幸の最も核となる神武天皇陵参拝を含んだ行幸の行程を描くように鉄斎に命じたのです。
鉄斎は、それ以前の石上神社の少宮司だったころから、各地の御陵を取材して幕末から明治にかけての御陵の変遷がわかる絵図を作成していますから、この任務に鉄斎ほどうってつけの人物はいなかったでしょう。
行幸の図巻のほかに、神武天皇陵にある拝所の絵も残しているのですが、これは記録画としてはおかしな絵です。拝所からは角度的には見えないはずの畝傍山が描かれているのです。写実的に事実を描いたのではなく、理想化された鉄斎にとっての真実を描いたものなのかもしれません。
■無私の宮司
日本が近代国家として再編成されていく中で、神道は利用され、この時代の神主さんは公務員でもありました。
大鳥大社の宮司となった鉄斎は、荒れ果てていた大鳥大社再興のために身命を尽くします。
「その様子は、記録を見ていて涙がでてくるほどなんです。神社の予算だけでは足りずに、鉄斎が自腹を切って、寄付や寄贈を毎月のようにしているんです」
鉄斎は、筆まめで様々な記録を書き残しているのですが、エッセイのように自分の胸のうちを吐露するようなことはなく、ただひたすら事実だけを書き残してます。
「鳥居の建築費がいくら、敷石の修理費がいくら、紫の幕が無くて購入した、灯篭やご神体の鏡なんかも買っています」
給料だけではおいつかず、鉄斎は絵を描いては売って、その費用にあてていたようです。
この時、鉄斎が購入したものが、今どれぐらい残っているのかはよくわかっていません。社殿は鉄斎が去った後の明治38年に焼けているのですが、大鳥大社は二次大戦の戦火にはあっていないので、これから先の研究によっては鉄斎の残したものがどれか明らかになってくるかもしれません。
▲戦いに向かう平清盛親子は愛馬と歌を奉納し、大鳥の神に勝利を祈願した。 |
残されたものの中で、書家としての鉄斎の揮毫だと明らかにわかっているものもあります。
平清盛が残した和歌は、鉄斎の字で石碑として残されています。扁額もいくつかあるのですが、よくある木の扁額だけでなく、他にない珍しい焼き物の扁額も残されています。
「焼き物の扁額は瀬戸など焼き物の産地の神社ならではです。これは地元堺の湊焼で焼かせた扁額なんです」
湊焼は楽焼の系統で、江戸時代初期から伝わる堺の地元の焼き物です。なんども途絶えては復活しており、堺能楽会館の大澤徳平さんの父・鯛六さんが、明治に途絶えた湊焼を昭和に復活させたことは「つーる・ど・堺」でも一度記事にしていますが、鉄斎のものは当然明治の湊焼です。
「他にも湊焼の印鑑を持っていて、湊焼の職人と仲が良かったようです」
扁額に記されている言葉は、「盥而不薦=盥(てあら)いして薦めず」という中国の古典「易経」にある言葉で「神様をお祭りするに際し、手を洗い清めていまだお供えをせず、これからそれを行おうとする時は、真心が充実していて厳粛を極めている」ということを表しています。これは文人芸術家と陶芸芸術家によるコラボレーション作品だったのでしょうか?
鉄斎の作品は絵だけでなく、書も魅力的です。鉄斎は、この扁額に限らず絵画にも賛を書いており、自分の作品はまず賛を読んでほしいといっています。賛に言いたいことが書いてあり、絵はその説明で挿絵なのだ。自分は学者であって、絵師ではないのだと、鉄斎はいっています。
とはいえ、この堺時代にも筆まめな鉄斎は、資料とそして絵画を多く残しています。
長く堺は住吉大社と関係が深く、住吉大社のおみこしが夏に宿院の頓宮にお渡りをしてきました。それが明治のはじめに途絶え、鉄斎が赴任してくる直前に大鳥大社からおみこしがお渡りするようになりました。その華やかな行列も鉄斎は筆にしています。これもまだ祭礼専門の研究者によって取り上げられていないので、今後祭礼史についての発見がある資料となるかもしれません。
▲鉄斎が描いた堺の海(茅渟の海)。前後には土屋鳳洲のもとに集まった文人たちが文章を書き加えた。 |
また、堺で私塾を開いていた漢学者・土屋鳳洲(つちやほうしゅう)たちとは、親交が深く、鉄斎は鳳洲のもとに集まる文人仲間の一員でした。鉄斎が鳳洲のために堺の風景を描いた作品も残しています。
「茅海晩景図」という小さな作品ですが、そこには淡色の墨の濃淡だけで、新しい洋式灯台と堺の海の様子が描かれています。シンプルだけどのびのびとした作品で、気の置けない仲間たちと芸術談義でもしながら、楽しく描いたのではないか、そんなことを想像させる作品でした。
■堺を去る
明治14年になって、鉄斎は大鳥大社の宮司を辞して故郷の京都に帰ります。
法衣商を継いだ兄が死に、母が病気だからというのが、その理由ですが、どうもただの口実だったようです。鉄斎が京都に帰ったすぐ後に店は閉めており、京都に帰っても母と一緒に暮らしていません。
辞任した理由のひとつは、堺県が廃され、税所篤も県知事を辞めたことで、鉄斎の理想を実現できる時代が過ぎ去ったこと。そしておそらくは公務員が肌にあわず、私財をなげうって大鳥大社を再建する生活に限界が来ていたからでしょう。
何しろ全てを大鳥大社につぎ込んでいたので、貧乏な生活でした。貧乏すぎて奥さんが機織りをして鉄斎が着る服を作っていたといいます。
修理費用などにあてた鉄斎の絵もおいつかなくて、堺から京都に帰った後も、たまった注文が屏風30双、絖絹紙800枚もあって、しばらく新しい注文を断っていたほどでした。
明治15年に47才で京都に戻った鉄斎は、89才の没年までそこで暮らします。明治21年から26年まで車折神社(当時の社格は村社)につとめ、翌年から37年までは京都市美術学校で修身と考証学を教えましたが、その後20年間、筆一本で生計を立てることになります。、筆一本で生計をたてることになります。本業ではなかった画業ですが、歳を重ねるごとに評価は高まります。鉄斎の作品点数は1万点以上になるといわれ、日本国内ばかりか海外の画家にも影響を与え、いまなお高い評価を得ているのです。
▲晩年の富岡鉄斎。 |
堺時代の鉄斎の作品は、国内外のファンが評価するような自由奔放な作品とはいえないかもしれません。しかし、この揺籃期に、彼の思想の根幹に直結したものが描かれ、記録画としても価値の高いものとなるかもしれません。注目されることの少なかった鉄斎の堺時代。堺市博物館ではじめておこなわれる企画展で、鉄斎とその時代の堺に触れてみませんか。