世界最大級の杭が守る川 2
奈良から大阪に向けて流れる大和川。その県境である亀の瀬は北の生駒山系、南の金剛山系に挟まれ、4万年以上地すべりが続く場所でした。明治以降三度も大規模な被害をもたらした地すべりを止めるために、100mを越える世界最大級の杭を170基も打ち込み、延長7km以上の排水トンネルを地下に張り巡らせた対策工事は半世紀も続いた大工事でした。
その排水トンネル工事の最中に、思ってもみないものが発見されました。それは明治時代に作られた国鉄関西本線の鉄道トンネル・亀の瀬隧道(ずいどう)の遺構。昭和7年の地すべりで崩壊し、埋もれてしまったと思われていたトンネルです。
大和川市民ネットワークの主催で行われた「亀の瀬資料館とトンネル見学会」では、排水トンネルに続き、明治時代のトンネル遺構へと足を踏み入れることになりました。
80年の眠りから覚めた鉄道トンネルはどのようなものなのでしょうか!?
■奇跡の発見
昭和35年の調査開始から半世紀続いた地すべり対策工事も終盤にさしかかった平成20年。そのトンネル遺構・亀の瀬隧道が発見されたのは、7本ある排水トンネルの内7号トンネル南支線工事の最中でした。
トンネル見学のガイド、柏原市立歴史資料館の石田成年さんが発見の経緯を説明してくれました。
「見つかったのは奇跡でした。明治25年2月2日に完成した亀の瀬隧道と平成20年の5号トンネルが偶然ほぼ同じ高さで堀りすすめられていたのです。そうでなければ発見されなかったでしょうし、こうして見学することも出来なかったでしょう」
1号トンネルより坂を下った位置に7号トンネルの入り口はあります。7号トンネルに入ると、1号トンネルと同様、床の真ん中には溝が掘られていますが、水は流れていません。これは、1号トンネルとは逆に、外から奥に向かって傾斜しているからです。トンネルをしばらく進むと、右手にでこぼことした側面をコンクリートで塗り固めたトンネルが現れます。これが、亀の瀬隧道で、7号トンネルよりわずか踏み台1段ほど高くなっているだけでした。
▲亀の瀬隧道を奈良側から大阪側(7号トンネル側)に向けて撮影。 |
「450mあった亀の瀬隧道のうち、100mが残っていました」
コンクリートで固められた2つのトンネルの接合部をくぐると、すぐにぐるりとレンガ造りの壁と天井が現れました。天井を見るとすすけており、これは当時使われていた機関車の煤煙ですすけたものです。タイムカプセルから出てきたように、当時のままのトンネルの姿がここにありました。
「レンガには部分ごとに名前があるのを知っていますか? 一番面積が広い面が『平』、細長い面が『長手』、面積が小さい面が『小口』といいます。そしてレンガの積み方にも色々あるのです」
見える面を長手だけで揃えて一段積んだ上に、小口だけで一段組み、交互に積んでいくのを「イギリス積み」。一段の中に長手と小口が交互に現れるように積むのを「フランス積み」、長手だけが見えるように積むのを「長手積み」といいます。
「ちなみに『イギリス積み』『フランス積み』と言いますが、イギリスともフランスとも関係ないようです。いつの間にかそう言われるようになったそうです」
亀の瀬隧道では、壁面は『イギリス積み』になっており、アーチを描く天井部分は『長手積み』になっています。
▲壁は長手の段と小口の段が交互にくる「イギリス積み」。天井のアーチは「長手積み」で機関車による煤の汚れが見える。 |
「実は関西本線は大正時代に複線化されており、そちらのトンネルも発見されたのですが、高さが合わなくて危険な状態ですので、見学はできません。この大正時代の隧道は、壁面はコンクリート造りですが、天井部分はレンガになっています。コンクリートでアーチを作る技術がまだなかったからです」
隧道の地面は砂利になっていますが、鉄道のレールや枕木は残っていなかったのでしょうか?
「昭和6年に地すべりの予兆がはじまり、地すべりが起きる前に昭和7年に廃線になっているんです。その時に使えるものは全部持って行ったようですので、隧道が発見された時には何も残っていませんでした」
予兆にいち早く対処したおかげで、亀の瀬隧道は地すべりが発生する前に廃線となり、人的被害は出ませんでした。しかし、奈良と大阪を結ぶ大動脈の関西本線そのものを無くしてしまうわけにはいきません。一体どうしたのでしょうか?
■歴史の中の風の道
亀の瀬隧道の見学を終え、7号トンネルを出てすぐの大和川を見下ろす高台で、柏原市歴史資料館の石田さんが話をしてくださいました。
「(下流の大阪方面を指し)あの鉄橋は第四大和川橋梁といいます。よく見てもらえれば、川に対して斜めに架かっているイレギュラーな架け方をしているのがわかると思います」
この第四大和川橋梁が出来たのは、亀の瀬隧道が崩壊した昭和7年の年の瀬の12月。数か月の突貫工事でした。つまり地すべりを避けるため、関西本線は亀の瀬で通常ではない橋の架け方をしてまで強引に北岸から南岸へルートを移したのです。
▲橋げたの構造も独特な第四大和川橋梁。ガイドしてくださった石田さんの解説がマニアックで必聴ものでした。 |
鉄道交通が主流になる以前も、亀の瀬を通る道は奈良と大阪を結ぶ重要なルートでした。
江戸時代は大和川を使った水運が発達しました。
「大阪から剣先船が川を上ってきて、この亀の瀬まで来ると舟問屋の所有する浜で荷揚げして陸路で滝を越えて荷を運び、魚梁浜から積み替えて魚梁舟で奈良盆地へと向かったのです」
江戸時代には、心斎橋の大黒橋から二日かかる日程でしたが、1883年にダムを作って水をせき止め、ためた水を解放する勢いで一気に川を下るようにすると、13時間でたどり着くようになったとか。
さらに遡ると、古代からこのルート「龍田道」と呼ばれ、「風の道」として知られていました。
「龍田道」の龍田とは、龍田神社の風の神様のこと。 稲穂を倒す恐ろしい台風の神でもあり、帆掛け船を運ぶ風の神様でもあったのです。
「百人一首で在原業平の詠んだ『千早ふる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは』に出て来る竜田川とは、この大和川のことなんです。他にも大伴家持もこの道を通り、藤原道長もこの道を通り故事が残っています。物部氏がこの道を通って戦に敗れた故事があったので、長らく武士には縁起が悪いと避けられていましたが、徳川家康は大坂冬の陣でこの道を通ったそうですよ」
▲ひっそりと佇む「浜神」の竜王社。傍らには犬鳴山修験道による立て札がありました。 |
7号トンネルから少し上流の高台には、小さなお社があります。
これは剣先船の安全を願った「浜神」の竜王社です。この社の起源をたどると、修験道の開祖・役小角に行きつきます。役小角が修験者の修行のために設定した、和歌山の友ヶ島から始まる修行場の28宿の最後の地がこの亀の瀬になるのです。二つの山系が出会い、大和川が通る風の道は、今でいうパワースポットだったのでしょう。
竜の神様は、1000年を超える長い時を、行き交う人や舟を見守っていたのですね。
さて、この龍田道と大和川を守る大工事はどうなったのでしょうか。
4万年の昔から続いた地すべりは、昭和60年頃からついに沈静化しはじめたのです。
地下水工事が進み、最後の長大深礎工(杭)を打ち終わると、平成23年3月に主な対策工事は終了しました。
現在は、工事の効果が確かに続いているのかを、0.1mm単位でモニタリングし、変化を見逃さないようにしているそうです。
もう巨大クレーンたちは姿を消して、地上にはほとんど痕跡はありませんが、確かに大規模な工事が行われ、わたしたちの日常が平穏に過ぎるように取り組まれている。そんな目に見えない地下の秘密、いかがだったでしょうか?
亀の瀬地すべり資料室
所在地: 〒582-0013 大阪府柏原市峠28−1
電話: 072-971-1381(国土交通省 大和川河川事務所 調査課)