茶の湯においては裏の仕事だった「炭」は、千利休によって表に出され、茶の湯という総合芸術の中に組み込まれました。「菊炭」が、その姿を保ったまま白い菊となり、最後に灰となって崩れ落ちる様は、時の移ろいを感じさせ、茶席から外すことのできないものとなったのです。
「能勢さとやま創造館」を運営する小谷義隆さんは、この菊炭を焼く炭焼き師です。その前職は能勢町の職員だった小谷さんが、なぜ炭焼き師になったのか。まずは、北摂地域の炭焼きの歴史を紐解くところからはじめます。
■豊臣秀吉のお墨付き、香り高い池田炭
「日本には、弘法大師空海が、中国の唐から炭焼きの技術とお茶を持ち込みました。これは一端途絶え、300年後の12世紀に宋から帰ってきた栄西によって再スタートとなります。北摂地域には鎌倉時代からの炭焼きの伝統があり、菊炭は千利休によって見いだされ、豊臣秀吉によって茶の湯には池田炭を使うように定められます」
北摂地域の炭は、能勢街道を通って炭問屋のある池田に集められたため、「池田炭」として知られるようになっていました。
「今の千葉県の佐倉で作られた炭の評価も高く、『東の佐倉、西の池田』と言われ、池田炭は『香りが良い』と評されました」
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▲能勢町、豊能町、黒川、止々呂美など近隣エリアで焼かれた炭が能勢街道を通って炭問屋のある池田に集められ「池田炭」と称されました。古い街道や山道には、かつての炭焼きの跡が見受けられます。 |
戦前から戦中にかけては、このあたりの家ではどこも自分たちで使う分の炭は自分たちで焼いており、小谷家もそうした家の一軒だったそうです。しかし、戦後にガスや灯油、電気が燃料として普及し、炭焼きは姿を消していきます。
昭和3年生まれの小谷さんの父・安義さんは大阪府の職員でしたが、退職した昭和60年に炭焼きをはじめます。
「同世代の仲間たちが、夏は農業、冬は炭焼きという生活スタイルだったのを見て、自分もやろうとなったようです」
様々な用途があった炭の中で、これしかないと「茶の湯炭」に目をつけたのも安義さんでした。一方、小谷さんは、能勢町の職員としてまちの活性化に取り組んでいました。
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▲父・安義さんの世代の炭焼き師たち。今や小谷さんと兵庫県側では今西さんだけになってしまいました。 |
「このまちには伝統的なものが結構残っていて、外からの関心は結構あるのに、内にいる人たちはそれに気づかずに流れていくのが一番の問題でした。まちづくりのためには、まちの魅力を見出し繋いでいくしかないと思っていた時に、ふと足元を見ると父親が炭を焼いていることに気付きました。これはただの炭じゃない。色んな背景を見ると大事なものだ。しかし、周囲を見ると父と同世代の人は次々と炭焼きを止めていき、次世代がいるかというと誰もいない」
すでに安義さんは、京都の茶道の家元とのつながりがあり、商売としてやっていけると小谷さんは判断し、職員をやめて炭焼き師になることを決意します。10年前、44歳の若さでの転身です
「何か感じる所があったんです。何か目に見えないものに助けられていると感じることがあります。実は父と一緒に炭焼きで働くことが出来たのは1シーズンだけでした」
安義さんは、その後闘病生活に入り、1年後にこの世を去ります。あと1年小谷さんの決断が遅ければ、炭焼きの継承は出来なかったでしょう。
■森と人を育てる
父の跡を継いで小谷さんが炭焼き師となって、10年の月日がたちました。この間にも、次々と炭焼き師は姿を消し、今や職業として炭焼きを行っているのは、兵庫県側では今西勝さん、大阪府側では小谷さんだけになりました。
問題の一つは、原木を入手することの困難さです。
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▲クヌギが育てられているエリア。年ごとに伐採するエリアが移動するので、山はパッチワークのような景観になります。 |
「原木のクヌギを育てるのに7~8年かかります。豊能町では、これを萌芽更新事業として取り組んでくれるようになりました。ところが、鹿の食害によって、冬に伐採したクヌギの若芽が食い荒らされるようになったのです」
北摂地域の聖地である妙見山の山頂にのこる天然記念物の一万年のブナ林も危機に陥れている鹿の異常繁殖です。
「クヌギを伐採する時は根元から1mぐらいの高さで切るのですが、そこから新しく芽吹いた芽は、鹿にとって食べやすい高さになります。2年、3年と連続して鹿の食害にあうと、クヌギは新しい芽を出さなくなってしまうのです」
食害から逃れるために、小谷さんは伐採の方法を工夫することにしました。
「伐採する高さを1m50cmぐらいの高さにしたのです。これでも大きな鹿が体重をかけて木を倒してしまうこともあるのですが、多くの鹿には手を出せなくなりました」
長い目で見ると原木の確保だけでなく、炭焼き師の後継者も必要です。
「父が指導をした豊野町の『菊炭クラブ』は50人ぐらいのメンバーのボランティアグループで、クヌギ林の手入れや植樹の活動をしています。また、黒川地区にも『菊炭友の会』というグループが存在します」
能勢の田尻地区では、小谷さんが声をかけて、菊炭振興協議会を立ち上げました。
「若い人たちがまちに留まらなくてもいいんです。ただ、まちに魅力を感じて欲しいんです。外にでていっても、若者が自慢出来るような。それがやがて若者が働く場所が出来ることに繋がるのではないかと思っています」
小谷さんの「能勢さとやま創造館」でも2人の若者がスタッフとして働いています。
「今の炭焼きの売り上げだけでは雇用するのは難しいので、緑の雇用助成から支援をいただいています」
次世代のスタッフが働いているのは喜ばしいことですが、助成などの支援が必要ということは、商業として炭焼きの未来も困難なものなのでしょうか?
■炭焼きの可能性
「事業として炭焼きの可能性はすごく高いと言えます」
小谷さんが断言する根拠は、茶道人口の多さです。
「茶道をたしなんでいる人口は180万人といわれています。仮にですが、その中のトップの1000人が年間に10キロの炭を使うとすると10トンになります。10トンといえば、うちで1年間かけて焼いている炭の量と同じぐらいになります」
原木の供給量が増えれば、価格を下げることもできて炭を使いやすくなり、潜在的な需要を掘り起こすことも出来るでしょう。 炭焼きの市場は、まだまだ開拓されていないのです。
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▲「最近はコーヒーに凝っていて」という小谷さん。地元のコーヒー名人とタッグを組んでオリジナルブレンドの菊炭焙煎珈琲を商品化しました。 |
炭焼きを商業的に成り立たせるためにも、小谷さんは菊炭の品質にこだわりブランド力の保持にも気を使っています。
「『能勢菊炭』を登録商標にしました。全然違うものが、ネットで販売されていたことがあって、販売元に問い合わせたこともあります。相手はただ知らなかっただけで、すぐに名称の使用を取りやめてくれましたが、やはり市場に出回るものの品質がばらばらだとダメです。ここで働いているスタッフにも、この品質を覚えてもらわないといけないと思っています。品質には僕が責任を持ちます。今は僕が一手に引き受けないといけない時期です。お客様には良いも悪いも皆言ってほしい。買った人が納得してもらわないと製品は良くならない。ハードルは高くなりますが、高いほどやりがいがあります」
小谷さんが持つ責任感は、町の職員だったこととも関係があるようです。
「父は府の職員でしたし、実は妻も公務員です。自分の中にパブリックな血が流れているのを感じます。なるべく取材を受けるようにしているのも、多くの人に能勢の菊炭を知って欲しいからです」
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▲お話を伺っている間にすっかり黒炭は真っ白な菊炭に。 |
小谷さんが、知って欲しい、伝えたいと考えてることは、もう一つあります。
「ここで仕事をしていると、四季の移ろいを感じるのです。桜の季節には桜が咲いて、5月・6月になると山の息吹を感じます。9月になると田んぼは黄金色になる。10月ごろに、ひんやりしはじめると山々が赤、黄、茶になる。11月、12月になって寒々とすると、炭焼きの準備を始めます」
世界中の中緯度地域には、同じような四季の美しい地域はあるけれど、四季の移ろいをこれだけ繊細に取り入れ、大切にしている日本の文化の素晴らしさ。それを知って欲しい。
炭の中の水泡がはじける音にも耳を澄まし、時の移ろいを芸術に昇華した千利休の茶の湯。
「炭がなければ、茶は茶でなくなる」
と、炭を通じて茶の核心に 触れた炭焼き名人の、それが願いです。
合同会社能勢さとやま創造館
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