堺の偉人・行基開山の伝説がある能勢の妙見山。現在は日蓮宗霊場となっています。妙見山の副住職を務める植田観肇(かんじょう)さんに、行基と北極星の伝説、妙見山に残る一万年のブナの森、そして能勢の歴史を紐解いていただきました。
■能勢氏の帰還
名門清和源氏の流れを汲み能勢を開発した能勢氏ですが、能勢頼次の時代に存続の危機に立たされます。
織田信長との抗争で父と居城を失い、本能寺の変で明智光秀に味方したばかりに今度は所領から追われることになった能勢頼次。岡山で頼次が身を寄せたのは先祖が建てた日蓮宗の寺院で、頼次は先祖伝来の地への帰還を祈りながらほとぼりが冷めるまでをここで過ごします。
やがて転機が訪れます。同じく日蓮宗の鳥羽実相寺の住職をしていた弟のとりなしで徳川家康の側で仕える小姓となったのです。突然の大出世の理由を植田さんは、こう推測します。
「とりなしがあったとはいえ、家康が頼次を小姓にまでした理由がよくわからないんですよね。私の勝手な想像ですが、能勢氏も家康も同じ源氏の末裔であることがポイントです。能勢氏は同じ源氏の中でも名門とされる清和源氏で源氏の聖地を守ってきた。一方、家康は低く見られがちな河内源氏だから、家康にはコンプレックスがあって、そのコンプレックスの裏返しとしたらどうでしょうか。『名門の清和源氏を俺が救ってやってるんだぞ』みたいな」
時に関ケ原前夜で、この大戦で戦功をあげ能勢の地黄(じおう)の所領を取り戻すことになります。
「なんでも屋敷が石田三成の隣だったとかで、西軍の戦略が丸聞こえだったそうです」
植田さんによると、能勢頼次はなかなかしたたかな人物だったようです。
「所領を取り戻したのですが、大名にならないようにギリギリ石高を抑えていたんじゃないかと思うんですね。能勢氏は鎌倉・室町も御家人で、江戸時代もスカイツリーのすぐそばあたりに下屋敷をもらっていた大旗本で、ずっとおいしいポジションですね」
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▲妙見山・副住職の植田観肇さん。日蓮宗の荒行である百日行を5年間で3回もこなしたという経歴の持ち主です。 |
能勢妙見山は、この頼次によって作られます。逃げ延びた岡山で助けてくれたのも、家康にとりなしてくれたのも日蓮宗のお寺だったこともあって、頼次は日蓮宗の教義に興味を持ちます。当時、京都の本山の貫首でのちに日蓮宗総本山の法主(ほっす)となった日乾上人の法話を聞いて感動すると、上人に帰依し土地屋敷を寄進します。これが、今に続く能勢妙見山の始まりです。
「今、妙見山にある妙見菩薩像は日乾上人が彫刻したものです。それまでの妙見菩薩像とは異なり、日乾上人の像は剣を受太刀に構えた独特の姿で能勢妙見像と呼ばれています。これはとても格好いいでしょう。今一般的になったこの妙見菩薩像は、日乾上人の彫刻以後広まったのです」
世に能勢妙見山が知られるようになったのは、江戸時代のこんな出来事からでした。
「ある時、山奥にある妙見山から、人の多い京都の愛染寺(現在は滋賀県)に出開帳(※)に出向いていました。これを終えた時に、村雲瑞龍寺からも『うちでも出開帳をしていけば』と勧められて出開帳をしたのですが、これが評判を呼びました。というのも、村雲瑞龍寺は皇族が住職を務める門跡寺院だったのです。門跡寺院で出開帳を出来るなんて、妙見山とはよほどありがたいのだろうと」
丁度、女人禁制を解いたこともあって、妙見山への参拝はブームになります。
「特に芸事に携わる人たちにあがめられました。それは、『妙見』という字に美しい姿という意味があったこと、動かない北極星は古来道標とされ求道のイメージあったことからです。だから歌舞伎役者や花柳界の人に特に好まれました。当時刊行された摂津名所図絵には、妙見山に参拝する花魁の姿が描かれています」
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▲歌舞伎役者「稀代の名優」と呼ばれた4代目中村歌右衛門が奉納した浄水堂。この水は妙見山の井戸水で「歌右衛門の水」と呼ばれています。 |
※……普段は拝めない神仏を拝観する機会を提供することを開帳といい、他の場所に出かけていって行う開帳を出開帳といいます。
■行基の遺した聖域
幕末の頃に長崎奉行を務めた能勢頼直が一新したという妙見山の日蓮宗霊場を歩いてみましょう。
霊場へは、ふもとからケーブルカーで山の中腹まで、そこからさらにリフトで頂上近くまで登ることができます。明治以前の神仏習合の名残で、お寺ですが霊場の入り口に鳥居が立っています。
この鳥居の脇には中興の祖である能勢頼次の像と大きな馬の像がいくつもあります。
「妙見菩薩のシンボルはもともと亀なんです。これは中国の陰陽思想の北の玄武(亀)からなんですが、なぜか日本に入ってきて馬が妙見菩薩のシンボルになってしまったんです。妙見山には7体の大きな馬の像と、小さな馬の像が1体あります。これは北斗七星の7つの星と、北斗七星につく伴星を表現しています」
北斗七星に伴う小さな星は星占いなどでも良く知られています。妙見山を訪れることがあったら、8つ目の小さな馬がどこにいるのか探してみてくださいね。
この馬たちの胴体には十字のようなシンボルマークが描かれています。これは切竹紋あるいは矢筈紋と呼ばれる能勢氏の家紋で、妙見山でもこの紋を使っており、境内のあちこちに刻まれているのが見られます。矢筈とは矢のお尻につける弦をかけるための切込みの部品のことです。
「矢はまっすぐに飛んでいくことから、同じくまっすぐ飛ぶ蜻蛉(とんぼ)などと同じで武士に好まれた紋なんです」
矢筈の形は、平成10年に完成した信徒会館「星嶺」にも取り入れられています。このガラス壁の印象的な建物は上空から見ると矢筈の紋の形に見えるのです。
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▲矢筈十字は、キリスト教の十字架を思わせることや、この地域をキリシタン大名の高山右近が治めた時期があったことから、妙見山は隠れキリシタンに信仰されていたのではないか? と言われたりもするのですが、植田さんは、「それは違います。丸に十の島津もキリシタンではないでしょう」と否定されました。 |
鳥居の奥の石段を登って真新しい「星嶺」の奥にある山門を越えると、本殿や絵馬堂のある一角に出ます。
「今、本殿は山頂より少し下って能勢町を向いて立っていますが、もともとあった大空寺は城跡のある山頂にあって大阪を見下ろしていたんじゃないかと思うんです。大空寺は丁度、大阪の北の守りとしてあったのかもしれません。神社でもお寺でも山頂にあるというのはなかなかありません」
「神道では山そのものがご神体の場合は、山は聖域でうかつに足を踏み入れる場所ではありません。多くの場合、宗教施設はふもとや山腹に作られていたりします。妙見山では、そこから北極星を崇めるために山頂に寺院が作られたのかもしれません」
「妙見山の山頂には立派な杉の木が生えています。杉の木というのは、水が沢山必要な木で、普通は中腹の谷あいで育ちます」
妙見山は水が豊富な山で、妙見山の境内には山頂付近にも関わらず井戸があります。
「山系からの水脈が妙見山の硬い岩盤にぶちあたって、サイフォン効果で水が山頂にまで上がってきているんです」
行基やそれ以前の時代の人々は、こうした妙見山の不思議を感じて、ここを聖域としたのかもしれませんね。
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▲妙見山本堂の裏の山頂にブナの木が見える。少し色の薄い広葉樹がブナの木。 |
「行基さんが、どうしてこの能勢にやってこられたのかはわかりません。これも私の推測ですが、もとからあったブナの森への信仰に、隕石が落ちてきた事件を利用した。その時、行基さんは、ただただ寺院やまちを作ったりするのではなく、その土地の人たちの知識を上手くつなぎ合わせる知識結を行ったのではないでしょうか。施設を作る大工が来て、観光地にして、宿泊が発生する。みんなが幸せになるためにどうすればいいのかを考えて、ディベロッパーとして計画したんだと思うのです」
僧侶になる以前はパナソニックで地デジ事業の普及に関わっていたという植田さんらしい分析です。
知識結によって土台を築かれた能勢のまちは、歴史の変転を経ながら今も残っています。行基さんの知恵は千数百年の時を耐え抜くほどの深さ、強度を持っていたのです。
■現代の知識結へ
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▲切竹矢筈紋をもとにした現代的な外観が不思議に古い森にマッチしている信徒会館「星嶺」。 |
こうして長い歴史を重ねてきた妙見山ですので、タイムカプセルのような役割を果たしたこともあります。
「江戸時代になって困ったのが公式文書の書式なんです。戦国時代を経て日本の官僚組織が断絶していて公式文書の書き方を誰もわからなくなっていました。しかし、能勢氏には鎌倉初期からの公式文書がちゃんと保管されていて、家康に命じられて江戸幕府に貸したんです。江戸幕府はこの文章の写本を全部作らせました。『能勢家文書』と呼ばれたこの文章の写本の原本は長らくどこにあるかわからなかったのですが、十数年前に妙見山の蔵で発見されたんです」
この発見に研究者は狂喜乱舞したとか。というのも、この『能勢家文書』の原本は内容や歴史的価値もさることながら、その保存方法が他にないものだったのです。
「昔の文章は表装して保存するのですが、紙の厚さは均一でないためそのまま表装するとよれてしまうので、通常は紙を薄く三枚おろしにして表装するんです。しかし、どうしたわけか能勢文書は紙をおろさずにそのまま保存していたんです。お蔭でどれぐらいの重要度の文章に、どれぐらいの厚みの紙を使っていたのかが分かる。それで狂喜乱舞したんです」
なぜ常識とは違う表装になったのかは分かりませんが、紙cafeをプロデュースしているつーる・ど・堺には気になるエピソードでした。
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▲『のせでんアートライン妙見の森2015』では、妙見山に驚くようなアート作品が集まりました。アーティスト・セルフ祭による『北極星祭』。(写真提供:植田観肇) |
そして、今、妙見山は新たな「知識結」の場となろうともしているようです。
信徒会館「星嶺」は、「より開かれた妙見山を知ってもらいたいと他宗派問わず受け入れ語り合える空間」として平成10年に完成しました。この会館は、現代アートの芸術祭「のせでんアートライン妙見の森」の他、様々なアートイベントが開催されています。「のせでんアートライン妙見の森」は能勢電鉄沿線の地域をつなぐ芸術祭で、国内外のアーティストが地域の魅力を引き出す作品作りを行い、妙見山でも多くの作品が製作展示されていました。
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▲『のせでんアートライン妙見の森2015』では切竹矢筈紋もアート作品に。アーティスト:俵越山。『NEGAIDAMA』 (写真提供:植田観肇) |
植田さんは、以前であれば芸術祭への協力の話を受けなかっただろうといいます。植田さんの気持ちを大きく変えたのは、アメリカにある日蓮宗の寺院を訪問した際の経験でした。
「ボストンで、キリスト教やイスラム教など様々な宗教の方とサンクスギビングデーにイベントを開催したんです。私も古い教会でお経を唱えさせてもらったり、ライスボール(おにぎり)を握ったりしました。イスラム教の方も礼拝を呼びかける詠唱(アザーン)をしたり、お菓子を作ったりしたんです」
異なる宗教と文化をお互いに紹介しあうこの交流イベントは、葬式仏教と揶揄される日本の仏教とはまるで違う社会に向けて開かれた宗教の姿を見せ、植田さんに衝撃を与えたのでした。
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▲『のせでんアートライン妙見の森2015』は海外からのアーティストも参加されました。スペイン・バルセロナのアーティスト・フランチェスカ・ヨピスさんの『涙の本』は絵馬堂に展示。(写真提供:植田観肇) |
「帰国して芸術祭への協力のお話をいただいたのは、丁度いいタイミングだったと思います。同じくブナの森の保護についても、以前でしたら関心を持てていなかったでしょう」
こうして江戸時代には芸能関係者に信仰されていた妙見山が、今多くのアーティストを引き付け、「のせでんアートライン妙見の森」や「星嶺祭」などで芸術の場となっていることは必然だったのかもしれません。
アーティストや妙見山の僧侶だけでなく、地域の住人や能勢電の鉄道マン、学者など、様々な分野の人々の繋がりがそこで生まれています。
それは現代の能勢に蘇った新たな「知識結」といえるかもしれません。
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▲「のせでんアートライン妙見の森」をきっかけにアーティストとの縁も出来ました。植田さんもお経で歌手の古川真穂さん、書家の西村佳子さんとのコラボレーションに参加しました。(写真提供:植田観肇)
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能勢妙見山
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