さかいに架かる橋(6) 宿屋橋

 

 

環濠の橋を紹介していくシリーズ「さかいに架かる橋」の第六話は、宿屋町に架かる「宿屋橋」です。この宿屋橋は、橋柱、欄干などは内川橋と同じデザインで、戦前のものだと思われるのですが、2006年(平成18年)に改修されレトロで可愛い街灯がつけられていました。宿屋橋の雰囲気にマッチしており、おススメポイントの一つだったのですが、この記事執筆にあたり現地を確認したところ、いつのまにやらシンプルな街灯に代わっているではありませんか! 新街灯は銀色のシンプルの筒状のもの。マンションのエントランスとかにありそうなデザインじゃないですか?

▲在りし日のレトロ風街灯。「しゅくやばし」の署名入り。

 

▲欄干に彫られた「しゅくやばし」。「し」は「志」ですかね?

 

堺市役所土木部に問い合わせをしたところ、昨年2023年(令和5年)に照明リースで取り換えており、デザインについてもリース会社と相談して決めたとのこと。それにしても、デザインの方向性が180度違ってしまったのには首をかしげました。取り換えるのはいいとして、環濠エリアは歴史的景観が重視されるエリアということを配慮して、以前の方向性を踏襲することはできなかったのかな……。それはそれとして、照明関係がリースだったとは。ちょっと驚きでしたね。

 

▲新街灯。単体としてのデザインの良し悪しは置いといて、方向性違いすぎるのでは?

 

 

■宿屋町縁の戦国武将といえば……

 

▲ 行長屋敷跡の石碑。堺市史によると「【所在】行長の屋敷址は宿屋町大道東側に當る。行長の堺在住時代は比較的短く、記錄に傳はるものも無く、僅に其父如清の記事によつて之を知られる位である。【諸説】卽ち文祿二年には如清病を堺に養つてゐるが、(日本西教史)之とても確とした場所が示されてをらぬから、今の宿屋町、神明町等の諸説(堺市史蹟志料)を生じてゐるのであるが、一般には宿屋町大道説が有力である。」とのこと。

 

さて、宿屋橋付近の見所・史跡を紹介しましょう。今回は、宿屋町ゆかりの歴史的有名人を取り上げねばなりますまい。その有名人とはキリシタン大名として知られる戦国武将・小西行長。宿屋橋からはちょっと歩くのですが、大道筋沿いに小西行長屋敷跡の石碑が建っています。
小西行長は、輩出するのは文化人ばかりという堺にあって珍しく武のスペックも兼ね備えた人。関ケ原の戦いで西軍について敗れ斬首(キリシタンなので自殺である切腹はできないので自ら斬首を選んだ)という最期を遂げたこともあり、なにかひ弱なイメージがついてまわるのですが、豊臣秀吉配下では加藤清正と並び称される武将でした。

彼がどんな人物だったのか、振り返ってみましょう。
小西行長は、堺の豪商小西隆佐(立佐とも)の次男として生まれます(出生地は京都)。お父さんの隆佐は織田信長支配下の堺で薬を扱う貿易商として頭角を現し、豊臣政権下では重臣として会計を任され、堺奉行を務めたほどの人物。
行長本人は若かりし頃、商売で出入りしていた戦国武将宇喜多直家に才能を見出されて家臣として仕えた後、直家の使者として訪れた際に秀吉に見出されて臣下となります。お父さんの威光があるにせよ、戦国時代きっての知将宇喜多直家と、豊臣秀吉にヘッドハンティングされるのですから、よほど才気煥発な若者だったのでしょう。肖像画などは残っていないのですが、背が高く色白で一目見てひとかどの人物と思わせる風貌だと記録されています。後の朝鮮出兵時に行長と出会った明国の交渉役沈惟敬は「風神凛凛(風格があってキリっとしている)」と印象を書き残しているので、爽やかなスポーツマンタイプのイケメンといったところかもしれませんね。
秀吉の臣下となった行長は水軍を任され、戦場以外でも補給・輸送といった後方支援で活躍し、わずか数年で九州肥後(熊本県)の南半分24万石を所領とする大大名へと異例の出世を遂げます。天下統一後、いわゆる朝鮮出兵「文禄・慶長の役」では先陣を任されると、朝鮮軍を次々と打ち破り、漢城(ソウル)、平壌を落城させます。他の武将の妬みを買うほどの戦果をあげる一方で、この戦争を無謀なものと考えていた行長は講和を求め、朝鮮とその援軍の明との和平交渉にも力を注ぎます。現場を理解しない秀吉、戦線拡大を主張する加藤清正ら武断派、そして海千山千の外交官沈惟敬の間で翻弄され苦汁をなめるのですが、秀吉の死をもってようやく戦は収まります。
行長は統治者としても優れた業績をあげています。肥後での統治はわずか13年と短く、しかも大半は戦地で過ごしていたにも関わらず、居城とした宇土の城下町を整備し、現在の宇土市の基盤を築きます。信仰心に篤いキリシタンということもあり、社会福祉事業にも熱心で、大坂・堺、肥後に孤児院やハンセン病患者のための病院、教会や神学校などを建てています。朝鮮でも戦災民にも心を配り、手厚く保護したことで知られています。その中の一人、後に洗礼を受けジュリアおたあと呼ばれることになる聡明な女性を行長は気に入り、日本に連れ帰って養女とします。行長の死後、薬学の知識を持っていたおたあは、薬マニアの徳川家康に侍女として仕えることになるなど、さらに数奇な運命をたどることになります。
すでに禁令が出て弾圧の対象だったキリシタンにとって行長は希望の星でもあったので、関ケ原敗戦後の刑死が遠くヨーロッパにも伝わるとローマでは彼の死を悼んだミサが捧げられました。そして死の七年後の1607年にはジェノバで行長をテーマにした歌劇が上演されました。ひょっとしたら行長は、ヨーロッパの芸術作品で最初に取り上げられた歴史上の人物だったのかもしれませんね。

参考文献
・「堺市史」
・「戦国時代の堺」森田恭二(フォーラム堺学第十二集)/堺都市政策研究会
・「小西行長」森本繁/学研M文庫
・「宇土市デジタルミュージアム 小西行長の部屋」https://www.city.uto.lg.jp/museum/category/list/3.html
・「なにわ大坂をつくった100人」https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/043.html

 

●宿屋橋

 

●小西行長屋敷跡碑

 

※関連記事
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