与謝野晶子

連載第12回 舞姫 2

新連載・石田郁代著

京都三本樹のお愛様(1976~   )

文/写真 石田郁代

 

(京都八坂神社の歌碑「みだれ髪の会」1号碑)

 

清水(きよみず)へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき  晶子

 

晶子は処女歌集『みだれ髪』に「舞姫」という小題をつけ、京都の舞妓を歌詠するほど舞姫に憧憬したが、『みだれ髪』上梓より5年後に『舞姫』と題した歌集を刊行した。歌集『舞姫』は1906(明治39)年1月1日、如山堂書店より出版。302首の歌が収載された、152頁の第5の歌集で、装幀・挿絵は中沢弘光。晶子は28歳、家庭にあっては長男・光(ひかる)次男・秀(しげる)の二児の母親だった。
『みだれ髪』発表後の10月、与謝野鉄幹と結婚した晶子の名声は広く知れわたり、(第11回~舞姫(1)~参照)石川啄木や吉井勇、また北原白秋など全国から多くの文学青年淑女たちが、東京新詩社社友となった。機関誌『明星』の歌壇は、彼らの互いに切磋琢磨(せっさたくま)する作品で賑わい、東京新詩社最盛期を迎えた頃の歌集『舞姫』出版だった。
だが、与謝野家の内情は、不安定収入の上、二児誕生により家族が増加した分、主婦である晶子の家計のやりくりは大変だった。当時を振りかえり、彼女は次のように記述している。
「38年と伝ふ年は、わたくしの28歳に当たるのである。わたくしは外出着に冬は1枚の銘仙の羽織と、夏は縮(ちぢみ)の浴衣が1枚あっただけである。(後略)」(現代短歌全集「与謝野晶子集」巻末「与謝野晶子集の後」)
しかし、彼女はこのように貧乏生活であっても、いったん歌三昧には入ると、何事も忘れる事が出来たしあわせな時代だったとも記している。それを物語るかのように、歌集『舞姫』の短歌は、絢爛豪華(けんらんごうか)な歌首が満載されている。
この頃、自然主義派文学が台頭していたが、晶子独特の、浪漫派短歌は、読者の心情をくすぐるのであろうか『舞姫』は、『みだれ髪』同様、たちまちベストセラーとなり、同年3月に2版、9月に3版と重刷され、4版も1911(明治44)年に刊行される人気の歌集となった。

 

『舞姫』(明治39年1月)の表紙(右)と挿画(左)(装幀・挿絵=中沢弘光)
(新潮日本文学アルバム24より転載)

『舞姫』より3首

三本木千鳥きくとてひそめきてわれ寝(い)ねさせぬ三四(さんよにん)人かな

冬川は千鳥ぞ来啼く三本木べにゆうぜんの夜着(よぎ)うつなり縁(えん)に

春の水船に十(と)たりのさくらびと鼓(つつみ)うつなり月のぼるとき

 

歌集『舞姫』巻頭に
「西の京三本樹のお愛様にこの巻(まき)をまゐらせ候  あき」という、著者の献辞がある。

京の三本樹とは?・・・

京都の鴨川上流に、荒神橋が架けられている。荒神橋より南の、鴨川西岸(右岸)に沿ってひらけた町を三本木という。町は、東西二筋の町があり、江戸時代末期より鴨川をのぞむ風光のよい処なので、いつしか旅館料亭が建ちはじめ、宴会とり持つ芸者も出入りする花街となった。
幕末には10軒ほどの料亭があり、そのうちの「吉田屋」は勤王志士の密会所だった。桂小五郎も出入りし、のちの夫人、幾松(いくまつ)は三本木の町芸者の1人である。
今でこそ住宅が建ちそびえ眺望が悪くなったが、往時は、鴨川の東方に「女の寝姿」にたとえられる東山36峰が三本木から眺められたので、頼山陽もこの地を好み、文政5(1822)年に歿するまでの10年間を過ごした水西荘一山紫水明処(さんしすいめいしょ)一が、東三本木町中程にある。(現在は、頼家の子孫に連絡申込みすれば、見学も可能)
このように当時は、粋人に好まれた三本木界隈だったが、明治初期より哀微し料亭、旅館も減少。現在の大和屋は、吉田屋の後身といわれる。この地に信楽(しがらき)旅館(白樺派文人たちもよく利用した)があった。

 

お愛様について・・・。

信楽旅館 (京都古地図散歩「太陽」別冊No.86より転載)

 

比叡(ひえ)の嶺(ね)にうす雪すると粥(かゆ)くれぬ錦織るなるうつくしき人

前出の三本木町の信楽旅館の女主人の名前が愛(あい)といい、晶子より2、3歳年上の女性だった。

堺の実家の父、鳳宗七につれられて、京都の芝居見物をする時、鳳家の常宿としたのが三本木の信楽旅館だった。幼少時代の晶子とお愛様は親しかったのだろう。
晶子の妹、里(さと)は、旅館から近い京都府立第一高等女学校(現鴨沂<おうき>高校)に遊学していたので、里を訪ねるときも信楽旅館に宿泊した。明治34年6月初旬、師、鉄幹のもとへ上京の際、晶子は、京都にたちより里だけに真実を告白した。その折、信楽旅館を利用したにちがいない。
それやこれやで、女主人となった幼友達の愛様に、晶子はなにかと恩義を感じたのではなかろうか。
1901(明治34)年23歳の6月に上京し『みだれ髪』を上梓、急速に名声を得た晶子。一方、京都の愛様も、晶子に格別の思い入れがあったにちがいない。
1906(明治39)年歌集『舞姫』を刊行するにあたり、28歳になった晶子は万感の思いをこめて、京三本樹の雅(みやび)なお愛様に、その歌集を捧げたのではあるまいか・・・。

『舞姫』より7首。

きぬぎぬや雪の傘する舞ごろもうしろで見よと橋こえてきぬ

春の里舞ぎぬほさぬ雨の日の柳は白き馬をつながむ

梅幸(ばいこう)の姿に誰れがいきうつし人数まばゆき春の灯の街

舞ごろも五(いつ)たり紅(あけ)の草履(ぞうり)して河原に出でぬ千鳥のなかに

圓山(まるやま)や毛氈(もうせん)しきてほととぎす待つと侍(はべ)りぬ十四と十五

十餘人掾(えん)にならびぬ春の月八阪の塔の廂(ひさし)離ると

舞ごろも祇園の君と春の夜や自主権現に繪馬うたす人

 

以上の歌をよめば、京都の華やかで、可愛いい舞妓さんの姿が連想される。「西の京三本樹のお愛様」に捧げた歌集『舞姫』は、晶子の王朝文学観を下敷きにし、京情緒があふれたきらびやかで珠玉のような一巻だった。

 

祇園の舞妓さんを囲んで友人と著者(右端) (平成7年京都祇園にて)

 

つーる・ど・堺

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