鳥井駒吉展~鳥井駒吉を知る・語る(1)

 

堺の歴史的偉人といえば、千利休や与謝野晶子が筆頭であがってきますが、最近は経済人として鳥井駒吉を推す声が大きくなってきました。
何しろ、アサヒビールの創業者にして、南海電鉄の創業者の1人でもある人物です。文人でもあり、被災地支援など社会貢献活動にも積極的でした。つーる・ど・堺でも、曾孫にあたる鳥井洋さんからお話を伺うなど、何度も鳥井駒吉を取り上げてきましたし、昨年には「鳥井駒吉の会」も設立されました。
今回の記事は、その鳥井駒吉の会の主催イベント「鳥井駒吉展」と講演・講談イベントの報告です。

 

■奇跡の出会いで生まれたイベント

 

▲鳥井駒吉の曾孫にあたる鳥井洋さん。鳥井駒吉の会の代表です。

 

堺区の開口神社と、その門前町である山之口商店街にあるギャラリーいろはにが、イベントの会場となっています。ギャラリーいろはにでは、2020年2月21日から3月4日までの開催。そして、22日には開口神社の瑞祥閣では、講演と講談の会「鳥井駒吉を知る・語る」が開催されました。

山之口商店街や開口神社が会場となったことには理由があって、鳥井駒吉が生まれ育ち、お店もあった甲斐町西は大道筋を挟んですぐ近く。そして信心深い鳥井駒吉は、散歩がてらに開口神社にお参りすることも度々だったのです。
そんな関係もあって開口神社には、鳥井駒吉が作った大きな石碑が残されています。これは開口神社の由緒を刻んだものなのですが、境内が整理される中でいつの間にか境内の隅で、稲荷社と茂みに隠されてまったく目立たなくなっていたのでした。

以前に記事にしましたが、その石碑の状況を偶然発見したのがギャラリーいろはにのオーナーである北野庸子さんで、石碑の事を堺観光ボランティア協会の詰め所でボランティアガイドの柿澤さん相手に口にした所、その場に偶然居合わせたのが鳥井駒吉の子孫である鳥井洋さんだった、という信じがたい奇跡の出会いが「鳥井駒吉の会」が生まれたきっかけでした。

 

▲瑞祥閣には多くの聴衆が集まった。

 

それから1年以上の月日が経った2月22日。瑞祥閣には、この日のために尽力してきた関係者がそろい踏みです。
観光ボランティアガイドの柿澤さんがマイクを握り、まずは鳥井洋さんに挨拶を任せます。鳥井さんは参加者への謝辞を述べます。なにしろ、コロナウィルスで開催を中止するイベントも多く、また強い雨が降る中、会場は満員で100名を越える参加者が詰めかけていました。その先頭には、イベントの後援も引き受けたアサヒビール(株)から来賓が来ています。
鳥井駒吉も100年もの後に、親族と会社両方の後継者が顔を揃えることになるなんて、想像してなかったことでしょうね。霊というものがあるなら、感慨深く見守っていたかもしれません。

 

■イノベーター鳥井駒吉

 

▲鳥井駒吉の講演を行った竹田芳則さん。

 

講演会の講師は、堺市の司書の竹田芳則さん。竹田さんの鳥井駒吉の記事は、フォーラム堺学にも掲載されたことがあります。鳥井駒吉研究の第一人者と、柿澤さんは紹介しましたが、竹田さんは恐縮している様子です。
それはともあれ、竹田さんの講演タイトルは「堺が生んだイノベーター鳥井駒吉」。鳥井洋さんから、竹田さんには、アサヒビールの社名のルーツになったとも言われている「旭館」について詳しく方って欲しいというオーダーがあったそうですが、鳥井駒吉の会のイベントの初回ということもあって、鳥井駒吉の生い立ちから一通りを語る中で、旭館を取り上げることにしたそうです。

さて、竹田さんが紹介する鳥井駒吉の生涯はこのようなものです。
鳥井家は、堺の宿院で和泉屋の屋号で米穀店を営んでいました。当主が早世し、子どもが小さかった事もあり、奈良の竹内から迎えた養子が伊助さんでした。伊助さんは材木町の綿谷家の娘・栄さんをお嫁さんをもらい、2人の間に生まれた子どもが駒吉でした。生年は1853年(嘉永6年)のことです。
1861年(文久元年)になって、先代の遺児が成長すると、伊助さんは家督を譲って、分家して酒造業を起こします。この時、売り出したお酒の名前は駒吉にちなんで「春駒」とされたのでした。この頃、商標登録ということも行われるようになり、伊助さんは銘柄として「春駒」「旭山」を登録し、井桁の中に鳥を書いたロゴマークも登録していたそうです。アイディアマンの鳥井駒吉の父だけあってなかなかやり手の伊助さんでしたが、若くして亡くなってしまいます。遺された鳥井駒吉がお店を継いだのは、17才の時でした。スペインのバルセロナ万博に出品するために、日本酒を瓶詰めにすることを思いついたというのは、鳥井駒吉の偉大な功績の一つでしょう。そのお陰もあって、酒造業は堺を支えるナンバー1の輸出産業へと成長しました。

その後、堺の酒造業者の組合を作ろうとする動きがあり、鳥井駒吉は27才にして堺酒造組合の初代組長に選ばれます。堺でもトップ産業の酒造業のまとめ役ですから、鳥井駒吉は堺を代表する経済人になったということでしょう。

 

▲鳥井のロゴや銘柄をいち早く商標登録。

 

旭館は、そんな鳥井駒吉や大阪や堺の経済人たちが使う社交サロンとして作られました。
「確固たる証拠はないのですが、この旭館がアサヒビールの名前のもとになったと言われています」
竹田さんによると、旭館は江戸時代大浜にあった善法寺が明治になって廃寺となり、その跡に作られました。旭館は4000坪という広大な敷地を持つ料亭だったそうです。江戸時代には、前身となる「朝日の家」という料亭があったのですが、この建物が海外の新聞に載っている資料を竹田さんは紹介してくれました。
「堺事件(上陸したフランス兵と土佐藩士の間で起きた傷害事件)がフランスのル・モンドで報じられた時に、その挿絵の中に朝日の家が描かれています」

 

▲「旭館」「朝日の家」を竹田さんがプロジェクターで紹介するたびに、最前列に座ったアサヒビールの来賓の方がスマホで撮影していたのが印象的でした。

 

鳥井駒吉はこの後、日本酒だけでなくビールの醸造と、鉄道事業にも乗り出します。
1884年(明治17年)に、経済人の松本重太郎らと大阪堺間鉄道布設願を出します。松本重太郎は初代社長に、鳥井駒吉は2代目社長になります。
「松本重太郎の人徳と、鳥井駒吉の才が両輪となって南海鉄道の基礎を作った」と評されたそうです。

鳥井駒吉がビール事業に乗り出した理由は、これまではっきりとした理由を聞いたことがありませんでした。ビールが流行すると見込んだという説にしても、苦いビールは当時の日本人の舌には合わなかったようですし、値段も庶民が手を出せるようなものではありませんでしたから、今ひとつ根拠は弱かったように思います。
それに対して、竹田さんが語った説は、
「鳥井駒吉は、酒税の対象にならないビールに着目したのです」
というものでした。これは、経済人鳥井駒吉として納得できる理由ではないでしょうか。
鳥井駒吉は、技師の生田秀をドイツに留学させ、松本重太郎、宅徳平、外山脩造らと大阪麦酒会社を設立。この醸造所を吹田に作ります。それは千里の地下水、神崎川~淀川の水運、官営鉄道が揃っていたからだそうです。また、なぜ堺に作らなかったのかという問いには、アサヒビールは堺だけでなく、日本全体のものという意識があったとか。合理精神とロマンチシズムが鳥井駒吉の中には同居していた証のような答えではないでしょうか。

一般向けの入門編的講演ではありましたが、竹田さんの講演は、これまで知らなかったような事実や資料の紹介もあり、見応えのある充実したものでした。

後篇では、ちょっと趣が違う、講談での鳥井駒吉をお伝えします。

 

ギャラリーいろはに
堺区甲斐町東1-2-29
072-232-1682

 

 

 

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