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ミュージアムへ行こう! 歴史を遺すドラマがあった!!「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」(3)

 

いまだに評価の高い『堺市史』は、明治の挫折を乗り越えて(第1回記事)、大正13年(1924年)に市史編纂室が置かれ昭和4年(1929年)に刊行が始まりました。京都帝国大学教授三浦周行を監修に、エリートの中村喜代三を初代編集長、たたき上げの編集のプロ牧野信之助を2代目編集長にし、堺の旧家の協力も得ての事業でした(第2回記事)。
しかし、昭和4年当時の堺市の市域は、ほぼ現在の堺区と重なる程度のものでした。戦中、戦後に市域は拡大していき、『堺市史』にカバーされてないエリアをどうするのかという問題が出てきました。そこで、昭和33年(1958年)に当時の河盛安之介市長は、市政70周年の記念事業として新たな市史編纂事業を立ち上げると表明したのでした。

■拡大する堺市に合わせて『堺市史続編』事業が始まる

 

▲戦火から資料を守った市立堺図書館。

 

『堺市史』と『堺市史続編』という2つの事業の間には、大きな歴史的事件が横たわっています。言うまでも無く、それは日中戦争と太平洋戦争です。昭和20年(1945年)には堺大空襲によって、堺は火の海となり、人も町も文化財も資料も大きな被害を受けました。
そんな不幸の中にあって、第2回記事で紹介した『堺市史』の資料は生き残りました。それはちょっとした幸運と智恵によります。

『堺市史』の資料は、宿院公園(堺区)内にあった堺市立図書館に所蔵されていたのですが、この図書館は昭和9年(1934年)の室戸台風によって被害を被り、昭和11年に宿院町東3丁に移転し、木造2階建ての本館に、鉄筋コンクリート造りの3階建て書庫などが作られます。『堺市史』の資料は、この鉄筋コンクリートの書庫に収められていたのです。
渋谷一成(以下、渋谷)「堺大空襲で本館は焼失しましたが、鉄筋コンクリートの書庫は焼け残りました。空襲が終わった後に、すぐに書庫の扉を開けなかったのも良かった。建物が熱を持っている時に扉をあけると、新鮮な空気によって炎上することがあるのです。『堺市立図書館100年史』によれば、それを知っていた職員が、熱がひくのを待って書庫の扉を開けたのです」
――もし慌てて扉を開けてたら、資料は燃え尽きてしまっていたんですね。そうしたら、『堺市史続編』の編纂事業もより難しいものになったかもしれませんね。

 

▲『堺市史続編』事業を推進した河盛安之介市長と、『堺市史続編』関係者の記念撮影。

 

では、『堺市史続編』の対象範囲となった、新たに合併されたエリアとはどこだったのか、昭和に入ってからの堺市が拡大していく経緯を見ていきましょう。
昭和13年(1938年)には、神石村(今の堺区)、五箇荘村・百舌鳥村・金岡村(今の北区)が編入。昭和17年(1942年)には、浜寺町・鳳町・踞尾村(今の西区)、八田荘村・深井村・東百舌鳥村(今の中区)が編入します。以上は戦中の編入になります。
そして戦後になって再び市域の拡大が始まります。昭和32年(1957年)に北八下村(今の北区、一部は松原市)、昭和33年(1958年)に南八下村(今の東区、一部は美原区)、日置荘町(今の東区)、昭和34年(1959年)に泉ヶ丘町(今の南区と中区)、昭和36年(1961年)に福泉町(今の南区と西区)、昭和37年(1962年)に登美丘町(今の東区)が編入されます。

後に平成17年(2005年)になって美原町を合併して政令指定都市になる前の堺市の市域がここで完成します。ざっくり言えば、戦時中に西区・北区・中区にあたるエリアが出来て、高度成長期に入った昭和30年代に東区と南区にあたるエリアが堺市に加わったことになります。

『堺市史続編』が企画された昭和30年代は、日本が高度成長期に入った時代です。高度成長期になって、堺市にも金岡団地、向ヶ丘団地、白鷺団地、そして泉北ニュータウンと、集合団地の建築ラッシュに見舞われています。昭和31年(1956年)には26万人弱だった堺市の人口が、昭和37年(1962年)には40万人弱に、そして泉北ニュータウンが完成し泉北高速鉄道が泉ヶ丘まで開通した昭和46年(1971年)には60万人弱にまで、膨れ上がっています。増えた人口の多くは、堺市外からの転入でしょう。新しい市民が増える中、地域の歴史をまとめた『堺市史続編』が編纂されることは意義のあることでした。

■2つの市史が堺市博物館に結実する

 

▲『堺市史』編纂室の記念撮影にも、『堺市史続編』を監修することになる小葉田淳京都大学教授の姿がある(後列左より4人目)

 

渋谷「『堺市史続編』で、『堺市史』の監修三浦周行さんの役割を担ったのが、小葉田淳京都大学教授です。小葉田さんは『堺市史』の堺市史編纂部員の集合写真で、周行先生と中村喜代三編集長の背後に立っていた人物です。当時は嘱託でした」
――『堺市史』編纂部に参加していたメンバーが、30年~40年後に続編のリーダーになるというのも、歴史を編む意志も時代を越えて継承されているようで、面白いですね。小葉田さんが、三浦さんの役割だとしたら、編集長の中村さんや牧野さんの役割を果たしたのは誰なのでしょうか?
渋谷「後に京都大学教授になる朝尾直弘さんが編集主任のポジションにつきました。編纂に携わった方は沢山いましたが、記念展の展示では福島雅蔵さんを取り上げました。福島さんは、三国丘高校の教師をされていた若い歴史研究家で、近世史を専攻していました。堺の商家で生まれ育ったことを誇りにしており、大変地元愛も強い方でした。『堺市史続編』の編纂に関わっただけでなく、後に堺市に編入した美原町や、隣接する狭山町(後の大阪狭山市)など、南大阪の自治体史編纂にも関与しています」
――堺市だけでなく南大阪の歴史を形にするのに、多大な貢献があったのですね。
渋谷「『堺市史続編』が完成した5年後には堺市博物館が開館していますが、福島さんは後に堺市博物館協議会の会長も務められています」
――まさにこの堺市博物館とも関係の深い方だったのですね。この堺市博物館の開館は、いつになりますか?
渋谷「1980年ですから、2020年に開館40周年を迎えます。こちらには、堺市博物館開館に関する資料も展示しています。『堺市史』と『堺市史続編』で示された歴史像を立体にしたものが、堺市博物館といえると思うのです。こちらに当時に博物館の必要性を訴えようとした資料を展示しています」
――「堺市郷土博物館建設促進会」とありますね? 計画段階では堺市郷土博物館だったのですか?
渋谷「すでに退職された先輩の学芸員にもうかがったのですが、いつのまにか郷土の二文字が取れていたそうで、詳しい経緯はわかりません」
――郷土博物館とするよろも、堺市博物館とした方が、扱っている範囲が広い印象がありますから、今にして振り返れば必然的な改称のように思えますね。

 

▲堺市博物館開館当時のポスターと学芸員の渋谷一成さん。

 

明治からはじまった歴史を形にして遺そうという意志が結実したのが、この堺市博物館でした。堺市博物館は開館から数えると40周年ですが、明治34年(1901年)の幻に終わった明治の『堺市史』事業から数えると120年近い月日が流れているとも言えます。
この120年の月日は決して平坦なものではありませんでした。市史への無理解のため事業は議会から攻撃され、資料が間一髪戦火を逃れたこともありました。そうした苦難の道のりを経て生まれた『堺市史』と『堺市史続編』、そして堺市博物館を後世へ伝えていくことは、今の私たちの責務と言えるのではないでしょうか。

さて、次回の記事は最終回。大正13年に開催された堺市史資料展覧会を再現した記念展の第3章を取り上げることにします。

 

堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201

 

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