「世界のタンゲ」と呼ばれた男を知っているでしょうか。
丹下健三。日本建築界の巨匠で、東京都庁や代々木体育館など、誰もが知る有名建築ばかりか、世界各国の都市計画の数々も手掛けてきました。彼は後進も数多く育て、磯崎新や槇文彦といった現在の一流建築家たちも丹下の弟子筋になります。
その丹下健三が、堺市出身だったというのはまるで知られていないことです。父が銀行マンで転勤族で、堺で生まれた後は、中国大陸、愛媛県今治と引っ越し続きだったため、むしろ愛媛県人のイメージが強かったのです。
堺市の建築士・柴田正己さんは、丹下健三が堺市出身であることを知り、その生家の位置を突き止め、顕彰しようと活動してきました。
この柴田さんが主催する「明治建築研究会」では、「幻燈で見る丹下健三先生あれこれ……」と題した講演が行われ、その中で丹下と堺の縁が語られるとのことで、お話を伺いにお邪魔してきました。
■幼少の丹下を育んだ堺
「建築の世界では丹下先生は神様のような存在です」
堺出身であることを知った柴田さんは、役所に働きかけて記念碑を建てようとしたのですが、役所の動きは鈍かったといいます。
「丹下さんの一族なら良いがと調査も断られました。建築士会でも、堺が生誕の地であることなんてどうでもいいと言われたんです」
協力が得られない中、丹下の生家が堺区甲斐町であることを突き止めた柴田さんは、記念碑の設置を現在の土地の持ち主にお願いして、木の柱を建てることが出来ました。
「あくまで仮のものとして木の柱を建てました。持ち主の方も喜んでくれて、最近は時折見学に来られる方もいるそうです。柱を建てたことで、少しは丹下と堺の事が知られてきたようです」
記念碑設置後は、丹下の誕生日9月4日には、毎年生誕記念イベントも開催しています。これまでもミニコミ誌や新聞の地方版に取り上げられてきましたが、今年はついに小さなコラムですが全国紙にも取り上げられたそうです。
「(選挙前に)両市長候補にもお願いしました。前に比べれば良い返事でしたが、選挙後はどうなるかわかりません」
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▲堺区甲斐町の生家跡に建てた丹下健三生誕記念碑。 |
この日のイベントでは「幻燈」として、古いタイプの映写機が登場しました。
会場のスクリーンに映し出されたのは、戦前の堺市の地図です。
「丹下健三が生まれたのは甲斐町で、大浜公園や当時あった龍神遊郭の近くです。小学校にあがるまではここにいたので、丹下さんは大浜公園で遊んだかもしれません。また近くには(近代建築の父)辰野金吾の設計した公会堂や潮湯の建物がありました。これも丹下さんは目にしていたことは十分に考えられるのではないでしょうか。証拠があるわけではないので、いい加減なことを言うなとまた言われてしまいそうですが」
丹下は、その後建築家への道を進んだ大学生の時に、辰野金吾賞を受賞しており、柴田さんでなくとも何かの縁を感じたくなるところです。
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▲幻燈の装置を用意する柴田正己さん。 |
スライドが古い写真に換わりました。それは若き日の柴田さんが撮った堺の街かどの写真です。
「昭和30年代の龍神遊郭の写真です。小学生の時には新聞配達をしていて、お姉さんにおいでおいでをされたのを覚えています。もちろんなんのことか分かっていませんでしたが。すでに売春防止法が出来ており、龍神遊郭も昭和33年には廃止されています。遊郭の後は飲み屋などになったりもして、平成になった現在もいくつかの建物は残っているそうです。
「丹下の出身が堺だと語られなかったのは、遊郭の近くだったからかもしれません。私も『大人として暴くべきではない』と言われたし、歴史の再発見、見直しというけれど遊郭があったことは言ってほしくないという地元の方もおられるようです。しかし、今は全国各地で遊郭は文化財になっているんです」
堺にいた幼い頃に後に文化財になるような建築にも囲まれていたことが、丹下の建築家としての感性を磨いた……そんな想像は突飛すぎるでしょうか?
では次に、長じて「セカイのタンゲ」と称賛された丹下建築を見ていきましょう。
■建築の神様
柴田さんの幻燈から、東京都庁が映し出されました。
「東京都庁は建造当時、バベルの塔とも嘘の塊とも言われました。丹下さんは、色んなものを真似した人ですが、これも(フォルムが)ノートルダム寺院から、(外装のデザインが)コンピュータチップとも言われました。私はあまり好きではないのですが、作品としては有名です。また、都庁の機能として、事務棟と議事堂の動線をちゃんと分けている」
もはや建築界の巨人であった丹下が、権力のシンボルといえる建築に威圧的な意匠をまとわせたことが当時グロテスクなトピックスとして語られました。丹下は毀誉褒貶の多い建築家でもあったのです。
「しかし作るもの作るものがヒットした建築の神様でした。僕は学生時代授業にも出ずに、丹下さんの建築が出来たら、それを見に全国を回りました」
そんな柴田さんの御宝写真の開陳が始まったのですが、そこで名建築であるはずの丹下建築の思いの外ショッキングな今を知ることとなりました。
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▲戦没学徒慰霊館(兵庫県南あわじ市)。 |
「これは南あわじ市の『戦没学徒慰霊館』で、戦争の犠牲になった学徒の慰霊のための施設で、記念塔はペン先をイメージしています。建物の主要部分は地下に埋めていたのですが、今は廃墟になっています」(観客数の激減と阪神淡路大震災の被災のため閉鎖。ネット情報によると2015年に再整備事業によって再開したとのこと)
日本を代表する建築家の丹下建築であっても、価値が考慮されず破壊されている現実があります。
「日本の建築教育の貧しさでしょう。どんどん壊している。ヨーロッパなら残しています。そもそも一般的に丹下さんを知らない。学生も知らない。建築の学生ぐらいでしょう、名前を知っているのは。昔は建築士の試験に建築史という科目があったのが、今では無くなった。建築計画という科目の中に、建築史がちょっとあるだけで、歴史教育が不在なんです」
歴史的建築の保存運動も、日本では簡単ではありません。
「そんなことを言っていたら選挙に勝てない。政治家にはそう言われます」
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▲日南文化センター(宮崎県日南市)。 |
一方で、丹下建築の方にも問題が無いわけではなさそうです。次に幻燈に登場したのは、宮崎県の『日南文化センター』。見るからに奇抜な建物です。
「宮崎は神話の地ですから、神話がモチーフになっているのでしょうけれど、使いにくい建物です」
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▲香川県立体育館(香川県高松市) |
次いで、映し出されたのも印象的で巨大な張り出しのある建物です。
「これは高松の香川県立体育館で、高松港に近い所にあり、船をイメージしたものだと思われます。建築というのはそういうイメージをするもので、空港なら鳥が翼を広げた形とかですね。ただ、耐震に問題があるということで、閉鎖されており保存運動が起きています。どうやら市は残したくないようです。補修費をかけるよりも新しいものを作りたいんです。文化よりも機能性・合理性を求める。実際、丹下建築は建築的には面白いけれど、使いにくい、雨漏りがしたりする。本当かどうかわかりませんが、代々木体育館で雨漏りが問題になった時に、丹下さんは『雨漏りがするなら傘をさせばいい』と言ったそうです。傲慢と言えば傲慢。使用者のレベルで考えたらとんでもない話です。でも建築を学ぶものからすれば、丹下先生はすごい。神様だと」
高松の体育館だけでなく、香川県や愛媛県は丹下の地元ということもあって丹下建築は多いのですが、うまく生き残った幸運な例もあります。それは香川県庁舎です。
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▲香川県庁舎(香川県高松市)。 |
「これは建築の教科書にも載る名建築です。よく見たら垂木に庇(ひさし)といったクラシックな日本の建築をモチーフにしているんです。こんな名建築でも、取り壊される恐れがあった。一般市民は今風の新しい、斬新なものを望むものです。これだけ資源の有効利用が叫ばれながら、スクラップ&ビルドをしたい。加計問題で話題の今治市もあれだけまちが疲弊しているのに大学を作りたい。そうぶち上げる気持ちもわかるのはわかるんです」
教科書に載るような名建築の香川県庁舎も時代の荒波にさらされました。機能性を考えたら面積も容積も足りない。高層の建築にしようという考えと、名建築だから残そうという考えが対立する中、香川県民は保存と活用を選択しました。
「丹下建築を旧館として残しながら、新館も作ったのです。名建築が残るかは、このように所有者の意思にかかっています。そのどちらが勝つか」
倉敷の市役所も同じく幸せな建築にあげられます。
「こちらも見るからに塊でボリュームがあるでしょう。ピロティ、柱で上にあげていく建築。これはフランスの建築家コルビジェの影響を受けた名建築です。今は市役所は他に建てられ、これは美術館になっています。幸せな建物です」
このように日本各地に建てに建てた丹下健三ですが、ただ建物を建てるだけではなく、都市計画にも関与しています。その中には、あまり表だって言われることの少ない丹下の負の歴史と関わるものもあるのです。
後篇では、丹下の闇、そして晩年の丹下と堺の間にも関わりがあったのではないか……という柴田さんの仮説に迫ります。
明治建築研究会
問い合わせ:09042891492(代表:柴田正己)