講演「『地方』からの声」 レポート

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▲政令指定都市堺の市庁舎から。
堺からなんばへ。南海線でわずか10分ほどの道程も、銀河ステーションめいた難波駅の風情もあって、郊外から大都市に呑み込まれに行く印象があります。
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▲大阪府立大学の施設「i-site」で講演会は行われました。

 

その難波駅からほど近く「i-siteなんば」にて「『地方』からの声-東北、福井そして大阪」と題した講演会が開催されました。関西の大学のみならず東京大学からも講師が招かれての、被災地や衰退する地方都市の現場で活動されてきた研究者による報告は、堺市民にとっても「人ごと」ならぬ「自分ごと」として聞ける貴重なものでした。
※講演は、前川信行さん(大阪府立大学)、標葉隆馬さん(総合研究大学院大学)、宇野重規さん(東京大学)による基調報告のあと、宇城輝人さん(関西大学)、中村征樹さん(大阪大学)、平川秀幸さん(大阪大学)を交えてのシンポジウムの二部構成で行われましたが、このレポートは、筆者の視点で抜粋再構成してお届けします。
■3.11がつきつけた問い
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▲前川真行さんの講演ではベースとなるテーマが提示されました。
最初の基調報告。社会思想史の前川さんは指摘します。
「3.11によってすり切れそうになっていた糸が切れた」
3.11、東日本大震災は大きな被害をもたらし、その傷跡はいまだ癒えません。しかし、この「傷」、復興を妨げている要因は、震災以前からあったのではないか。
今回の講演を貫く、大きなテーマです。
戦後の開発や、産業の空洞化、都市(都会)と地方(田舎)の格差などによってもたらされた社会的な問題。震災前には、かろうじて保たれていたものが、震災によって切れ、問題があふれ出した。
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▲広い会議室に多くの聴衆が集まりました。 ▲講演は連続対話「『震災』以後の科学技術と社会」の第1回。
前川さん曰く、今は「移動の時代」。昔は基本的に人は移動しなかったが、今は日本列島を股にかけて移動するようになった。自由に移動できる時代だからこそ、過疎化によって寂れる地方が生まれた。人々の連帯は困難です。
しかし移動できるからこそ、新しい連帯も生まれます。
「人を縛り付ける地域ではかえって未来はない」
“自由でありつつ連帯する”新しい連帯が希望となるのではないか。
これまで震災復興や地方の問題にはなかった切り口です。この具体的な事例の報告を見ていきましょう。
■少しの違いを大切にしていく
何度テレビで見ても息を飲む荒涼とした風景。
福島県浪江町出身の標葉(しねは)さんは、被害を受けた実家の様子などをスライドで示されました。当事者による報告は、標葉さんの口調が淡々としているだけに、むしろ胸に迫ります。
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▲標葉隆馬さん。ファッションコーディネートがおしゃれです。
ここで3.11以前からの問題がどのように現れたのかが、データとともに示されていきます。
「災害は公平に降り注ぐが、災害リスクは社会的な格差によって不平等に分配される」
どういうことでしょうか? たとえば阪神淡路大震災で被害の大きかった神戸の長田区。20年たった今、もとの場所に戻れたのはわずか3割に過ぎません。
東日本大震災での人的被害も、社会的に弱い65才以上の年輩の方が非常に多かったのだそうです。
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▲標葉さんの実家も被災。避難を余儀なくされ草が生い茂り荒れた状態に。 ▲ネット上で流れた情報分析。中央では全てがまとめられて語られるようになった。
もうひとつの格差といえるのが情報格差でした。
東北地方はインターネット普及率がもっとも低い地域。被災直後の避難情報や、長い避難生活の中で必要な情報が得られず被害が拡大したのです。
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▲宇城輝人さん。三重出身。10年過ごした雪国福井では「雪は平等に降っても、融雪機のない朝鮮学校などは通うことも困難に」と不平等に分配される実例を。
津波の被害が大きかった地域もあれば、直接の被害はなくとも原発事故によって避難を余儀なくされた人々もいる。地域や人によって様々な格差があります。それ故に、
「『東北』や『フクシマ』という言葉でまるめてしまうと見えなくなるものがある」
その地域ごとに経済やメディア、文化の違いがある。その少しずつの違いを大切にしていくべき。復興を考える上でも、あるいは地方の未来を考える上でも、それは大きな提言に思えました。
■大阪は再生する都市のサンプルたりえる
『希望学』を提唱されている宇野さんは、震災以前に岩手県釜石や福井県でフィールドワークを続けていました。
「希望について語りたいなら釜石に来い、と現地の方に言われまして」
宇野さんは釜石と向き合ったきっかけをそう語ります。
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▲宇野重規さん。「釜石の子どもたちが地元にもつイメージは『緑』『海』『自然が豊か』など、すでに『鉄』ではありません」

 

釜石といえば鉄工の町のイメージがありますが、明治から昭和にかけて二度の大津波や戦災を受けて復興した町です。そしてシンボルであった『新日鉄』の高炉は1989年にすべて停止。ピーク時9万人の人口は半減し4万人となっています。
『新日鉄』と聞くと、堺市民としては関心を抱いてしまいますが、釜石の未来は苦難に満ちたものなのでしょうか?
ところが宇野さんは、「釜石については悲観していません」と言い切ります。
釜石は2008年の時点で製造業の出荷額が以前のピーク時を上回るなど再生の成果をあげていました。それを生み出したのが、まさに「移動による新たな連帯」と「地域ごとの違い=ローカルアイデンティティ」だったのです。
都市の視点や価値観を身につけ、Uターンで東京から釜石へ帰ってきた若者たちが、釜石の可能性に気づきます。
たとえば、釜石ではさびれようとしていた工業技術が、全国で通用する貴重なものだったり、24時間が使用できる港があるなど、ずっと地元にいたら気づかなかった価値が掘り起こされました。
「30社ほどの企業が誘致され、その中で『釜石だからこそ』とやることを見つけた15社が残りました」
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▲震災直後の被害を受けた釜石の様子。 ▲現在の釜石。復興特需も建設ラッシュは公共施設に偏重し、チェーン店の飲み屋ばかりが繁盛するといういびつな状況も。
釜石も震災によって被害を受けました。
しかし、一端外に出た若者たちが故郷の災難をきっかけに、帰郷し新しいリーダーになっているのだそうです。
「東北はNPO不毛の地と言われてきましたが、北海道のNPOなどで活動していた若者が帰郷して活躍しています」
釜石の人口は3万程度にまで減る可能性はある。しかし、サイズに合わせた町として落ち着くのではないか?
これまでの釜石は、『新日鉄』『行政』『その他』といった違いによって飲む場所が違うほどバラバラだったのが、対話が生まれているのだとか。
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▲「帰られなくなった人、帰らされる人がいる」と平川さん。「高度経済成長期的な希望とは違う考えで」と中村さん。

 

むしろこれから深刻なのは地方ではなく都市。
「地方での高齢化はすでに止まっています。これから都市で大量の高齢化がはじまる」
あらゆる指標が都市の困難さを示している。
そんな中、宇野さんは大阪には希望のサンプルとなり得るといいます。
「東京は特殊すぎてサンプルになりません」
大阪にある希望とは?
「大阪は三次産業で二次産業を埋めていない。二次産業を大切にしながら三次産業を育てていけば」
■私たちの新しい連帯は……
難波から堺までわずか10数分の帰路。
都会であるような、地方であるような堺には、両方の問題が積み重なるようにも思えます。堺市民にとっての”希望学”とは何か? 大阪湾に沈む夕陽を見ながらそんな事を思いました。
叡智の結集したイベントだけあって、講演内容は深く幅広く、また刺激的なものでした。このレポートでご紹介できたのは、ほんのひとすくいに過ぎません。興味を持たれた方は、ぜひ連続講演の次回講演に参加されることをオススメします。
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▲堺は都市であり地方であり、両方の問題を抱えているように思えます。一方で、だからこその希望も。

 

今回(第一回)は「震災」に焦点を当てましたが、次回、第二回は、『ポスト311』の平川さんの論考を出発点として、原発に象徴される科学技術と社会の問題を扱います。

第2回講座:連続対話「震災」以後の科学技術と社会II―科学技術と向き合うために。フクシマ以後の課題

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