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まちあるき No.130

環濠の消えた橋を数えてみれば?

千日橋、旭橋……消えた橋の行方

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堺環濠ウォークラリー第2弾が開催され、土居川にかかる幻の橋「岡村橋」も調査したつーる・ど・堺は、現在環濠を大プッシュ中です。
調べているうちに、他にも痕跡だけが残る消えた橋がちらほらとあることがわかってきました。そんなレアな橋たちを以下にご紹介します。


■土居川にかかる橋
昭和40年代に土居川の北側と東側は埋め立てられ、橋もその時に姿を消しました。
現在、北部分は堺市道三宝高須線、東部分は堺市道砂道翁橋線と国道26号線になっています。

●千日橋
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▲千日井。千日井の石碑と、その向こうに行基のレリーフがある。




奈良時代の僧・行基が掘ったとされる千日井が今に残っており、上水道が完備されるまでは付近の人々にとって大切な生活インフラでした。もともとは清浄土院高渚(たかす)寺にあった井戸で、このお寺に七堂伽藍があったので、このあたりが七堂転じて七道と呼ばれるようになったという説があります。
そしてこの千日井の近くに、架かっていたのが千日橋です。土居川北部分(堺市道三宝高須線)の西端の橋で、堺の町中から大和川河口近くの新田に行くには便利だったことでしょう。時代的に考えると、千日井があったから千日橋と命名されたと思うのですが、どうでしょうか?


●北之橋
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▲紀州街道と三宝高須線の十字路に案内板が建てられている。




北之橋は、堺の北の玄関口にあたり、紀州街道に架かっていました。幅4.5m、長さ約13mという立派な橋で大きな門も備えていたそうです。大坂から南へ下って泉州、紀州へと行くにはこの橋を渡り、門をくぐらねばならないのですから、400年近い歴史で、どれほど多くの人がこの橋を渡ったことでしょう。
現在は広々としている他はこれといって何かあるわけでは無い交差点で、橋の痕跡としては何も無いのですが、案内板が設置されており、北之橋の歴史が解説されています。また、環濠ウォークラリー第2弾のラリーポイントにもなっています。


●岡村橋
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▲植え込みの中に一本だけ遺された橋柱(親柱)。




堺市道砂道翁橋線の東側の植え込みに橋の親柱が一本だけ残され、ひらがなで「をかむらばし」と書いてあるのが読めます。江戸時代の地図にも載っていない橋で、石の板を二枚渡してあるだけ、人が1人ずつ行き交うのがせいぜいで幅も1mぐらいしかなかったそうです。同じような小さな橋がもう少し北にあって「石橋」と呼ばれていました。
岡村橋は、ハンセン病の特効薬である大風子油を製造販売した「岡村香油製造所」へと架かる橋で、経営する岡村平兵衛さんは、対岸の向井村の村長を代々されていたそうです。ひょっとしたら私道ならぬ私橋だったかもしれませんね。


●極楽橋
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▲土居川公園の景観になった極楽橋。




土居川公園に鎮座する立派な石橋を不思議に思っていた方も多いことでしょう。もともとは神明町と宿屋町の間の道を東岸の誓源寺さんに向けて架かっていました。これぐらい立派な橋は、このあたりではもう少し南の三蔵橋ぐらいだったそうです。
土居川の埋め立てに伴って、多くの橋が消えてしまったのですが、この極楽橋がそのままの姿で移設保存されたのは、どうやら偶然の産物だったようです。埋め立てのあとばらばらになった橋の石材が山積みになっていたのを「邪魔だから」という理由で、市役所の人が今の公園の位置に組み立て直した結果なのだとか。

もう一つのミステリーとしては極楽橋という名前でしょう。これは昔堺の人が亡くなると、この橋を通って、三国ヶ丘の墓場「王子ヶ飢(おうじがうえ)墓地」に運ばれたからだそうです。


■旭川に架かる橋
旭川は今では完全になくなってしまった川です。内川から堺旧港に流れる部分を竪川といい、竪川から今の旧26号線沿いに南に向けて掘られた運河を旭川といったようです。旭川の川岸には、今もある魚市場がありました。漁師さんが直接漁船で乗り付けて、市場に魚を卸したとか。
しかし、この旭川は、土居川より一足早く昭和30年(1955年)に埋め立てられたそうです。


●旭橋
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▲環濠の河口、竪川の南岸にある旭橋の橋柱。草に埋もれている様はさすがに可哀想。もうちょっとちゃんと扱ってあげられないだろうか?




旭川の一番北にかかっていた橋が旭橋です。明治時代に入って旭橋のたもとには社交クラブ「旭館(朝日館)」が建てられました。旭館に集まる名士の中に、のちにアサヒビールになる大阪麦酒会社を創業した鳥井駒吉もいました。命名順としては、旭川→旭橋→旭館→アサヒビールということになるでしょうか?

さて、この旭橋ですが、湾岸開発に伴い昭和30年(1955年)の旭川埋め立てと共に無くなってしまいます。
その痕跡として4本の橋柱だけが残されているのですが、岡村橋どころか極楽橋と比べてもはるかに立派なものです。4本のうち2本の橋柱はもともとあった場所のすぐ近くにあります。竪川の川沿いですぐ真横に「天誅組義士上陸遺蹟碑」や「堺事件」の土佐十一士の石碑もあり、なかなか歴史がぎゅっと詰まった一角です。
そしてもう2本は、なぜかザビエル公園(戎公園)の南西の角あたりにあるのです。内川沿いとはいえ、少々距離は離れています。なんだってこんなところに橋柱が別れ別れに置かれることになったのかはよくわかりません。もしご存じの方がいらっしゃったらぜひ教えてください。


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▲こちらはザビエル公園に遺る橋柱。さぞ立派な橋だったのだろうと思われる風格が残っています。


それにしても、消えてしまった橋ですが、その建材はどうなってしまったのでしょうね。堀が埋められた時に、一緒に埋め立てに使われてしまったのでしょうか。それともどこかに持ち運ばれなんらかの形で利用されたのでしょうか? これもミステリーですね。



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