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まちあるき No.125

文化財特別公開に行ってみた~堺の大屋根・北の御坊~

中世から近代まで堺の歴史に触れる

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堺市では春と秋に文化財の特別公開が行われています。
普段は閉ざされた寺社史跡の扉が開いて、所蔵されている貴重な文化財を見ることが出来るとあってなかなかの人出があります。この時期に合わせて開催されるイベントもあって、堺のまちはいつもより賑やかになるような気がします。

その日、2018年4月8日は、文化財公開の最終日ですが、お釈迦さまの誕生日の花祭り(灌仏会)で、しかも空が見事に晴れていました。ちょっとお出かけついでの気分で、文化財公開をしている本願寺堺別院、通称御坊さんへと足を運んでみました。


■国際貿易都市 堺の繁栄と共に
御坊さんは、堺区の神明町東3丁にあります。
本堂は堺市でも最大の木造建築で、その大きな屋根は一際印象的です。
正面の門をくぐると、境内まで上りの坂道になっており、背の高い銀杏の木とその向こうにある大きな本堂が見えます。
本堂の前には、左右に向かい合う二体の彫像があります。
これはもちろん、浄土真宗の開祖親鸞聖人と中興の祖である蓮如上人です。

堺別院の由来によると、堺が国際貿易港として飛躍するきっかけとなった遣明船が入港した1469年の翌年1470年に蓮如上人は、堺の信者に蓮如上人の肖像や親鸞聖人御絵伝などを贈るなどし、1476年に堺御坊(信証院)を建立します。
その後、畿内での伝道を目指した蓮如上人は、堺を重視して何度も堺御坊を訪れたようです。

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▲お釈迦さま


本堂へ上がる階段の前には、花祭りらしくお釈迦さまの小さな像と、像にかける甘茶のセットが用意されていました。階段の上でも白い像に乗ったお釈迦さまの像が待っていました。
本堂に入ると、大屋根に相応しい大広間です。目を引くのはご本尊と親鸞聖人像・蓮如上人の掛け軸のある内陣と、その左右の黄金の襖絵でしょう。襖絵には堺らしく向かって左に南蛮船、右に南蛮船を待つ港の様子が描かれています。
南蛮貿易によって莫大な富を得た堺。富だけでなく、人口も情報も集まるこの都市だから、蓮如上人も堺を重視した。そんな歴史をこの襖絵からも感じられます。

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▲本堂内


■江戸時代 戦火から再建した堺
もちろん現在の御坊さんの建物は、蓮如上人当時のものではありません。南蛮貿易で栄えた中世自治都市堺は、大坂夏の陣で豊臣方に火を放たれ全焼します。その後、一回り大きくなり町割りも新たになって堺は復興します。
御坊さんは、18世紀になって再建がはじまったようですが、1798年に失火によって本堂・広間・台所が焼失。もう一度本堂が再建されたのは1825年で、これが今に残る建物です。

この失火以前で残っているのは銀杏の木と、建築物では鐘楼だそうです。
ただ、鐘楼の中の梵鐘は、現在の開口神社が念仏寺だった頃のものです。明治に入って廃仏毀釈で神仏分離がすすめられ、念仏寺が廃寺となったために、御坊さんに持ってこられたのでした。
江戸から明治への移行がただ政権の交代ではなく、文化や社会・信仰までもが大きく変化したことがうかがえます。その歴史の証拠がこの梵鐘なのです。なお、この梵鐘が作られたのは1617年で、年代がわかる梵鐘としては堺最古のものだそうです。

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▲鐘楼


もう一つ、御坊さんには社会に大きな変化が起きた歴史の証拠があります。
文化財公開で訪れた観光客を案内していた観光ボランティアさんによると、現在閉ざされているもう一つの門は、もともとは狭山藩で使われていた御成門なのだそうです。狭山藩の藩主は北条氏。あの天下の名城小田原城を有しながら、豊臣秀吉に攻め滅ぼされた北条一族の系譜です。第五代当主北条氏直が、徳川家康の娘婿であった縁で、北条氏滅亡後も許されて高野山に蟄居していました。その後、徳川政権となって、北条氏は今の大阪狭山市を中心に1万1千石のささやかな外様大名として復活し、狭山藩明治維新まで続きます。この狭山藩は幕末の頃には借金で首が回らなかった状態だったらしく、いち早く版籍奉還を行い、廃藩置県を前に明治2年に堺県に編入されてしまったそうです。そんな縁もあって、御成門が御坊さんに移設されたのでしょう。
そして、この御成門と御坊さんは明治に入ってもうひと働きすることになります。

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▲御成門


■明治時代 堺の中心になった御坊さん
明治元年、堺は堺県となります。当初は天領だけが県の範囲でしたが、堺の狭山藩のように周辺地域を吸収していき、泉州・河内・大和の三国を含む大きな県となります。当初県庁は江戸時代の堺奉行所に置かれていましたが、明治4年からは御坊さんに堺県庁が置かれることになります。
そして明治10年の明治天皇が御幸で来堺した際には、御坊さんを訪れています。その時、明治天皇が通ったのが、かつて狭山藩の御成門だった門だそうです。こちらの門は閉ざされているのですが、今日もくぐった普段使いの門の脇には、堺県庁跡の石碑も立っています。堺県は明治14年に廃止され、県庁として使われていた御坊さんは浄土真宗本願寺派へ返還されます。

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▲石碑


この日、文化財公開に合わせて、本堂では明治天皇から御坊さんに贈られたお礼状も展示されていました。
これは、日露戦争(明治37~38年)に際して、従軍僧侶を派遣したことに対するものでした。

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▲お礼状


大正、昭和と時代は進み、堺は3度目の大火に襲われます。1945年7月10日未明の、堺大空襲です。大小路を中心にした米軍の爆撃は堺市の旧市域の62%を焼き尽くしましたが、御坊さんの周辺は奇跡的に戦災を免れたのでした。
お陰で、堺の繁栄と共にあった長い歴史の証を、私たちはこの目で見ることが出来るのです。


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