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雑記帖 No.082

けやき通りを100年見続けた旧天王貯水池

けやき通りの今昔を聞く 

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三国ヶ丘の丘陵上を南北に続く並木道「けやき通り」は、多くの堺市民に愛されている通りです。
この通りの中ほどに、緑に覆われた盛土にレンガ造りの門がしつらえられた不思議な史跡があります。これが「旧天王貯水池」。明治時代に作られた上水道施設で、その美しいデザインと施工技術の優秀さから国の登録有形文化財になっており、100年も前から地域を見守り続けてきた施設です。
観光ガイドにも登場する「旧天王貯水池」ですが、広大な敷地を提供したのが堺の一市民であったことは意外にも知られていません。祖父の代に土地を提供したという高田憲さんを、南三国ヶ丘町のご自宅に訪ねました。


■貯水池の歴史を紐解く 昭和・明治
モノクロの写真のコピーが一枚テーブルの上に置かれました。ほとんど何もないただっぴろい土地に「旧天王貯水池」らしき姿がうつっています。現在は立派な並木道になっているけやき通りも、貯水池の向かいにあるはずの和菓子屋「宝泉菓子舗」さんの建物も見当たりません。
写真の持ち主は高田さん。お話を伺った敷地に作られた離れは、町会の寄り合いにも使えるようしつらえられた庵です。
「昭和30年代の頃かな。僕はちょうど新学制(6-3-3制度/昭和21年より)の最初の新制中学生だったんだけど、当時は『けやき通り』は泥んこ道で、わらじを履いて歩いてもすぐドロドロになって裸足と変わらない有様になったね」
今の並木道とはずいぶん様子が違いますが、当時の「けやき通り」はなんと呼ばれていたのでしょうか?
「名前なんてなかったよ。ただのあぜ道で、府大で飼っていた馬がよく連れられて歩いていたのを覚えているね」

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▲おそらく昭和30年ごろの「旧天王貯水池」。貯水タンクがあります。奥から手前に続く轍が当時のけやき通り。

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▲現代のけやき通り。アスファルトで舗装された広い道の両脇にはおしゃれなお店と住宅街が。

高田さんの父は旧制の国民学校から教頭をしており、熊野、殿馬場、三宝、錦と勤めていました。一家は熊野町に住んでいましたが、昭和27年に南三国ヶ丘の現住所に自宅を移しました。高田さんには父の勤め先まであぜ道を通って弁当を届けた思い出もあります。
「この写真の貯水池の向こうに見えるお家が今もある藤澤さんのお宅です。藤澤さんは長年高校の校長先生を務めていましたよ」
建物が何もないのは戦災のせいなのでしょうか?
「いえ。堺東から東はほぼ助かっています。このあたりは元々全部畑や田んぼだったんです。もっとも、流れ弾が田出井町や三国丘中学校の東あたりなどいくつか落ちて燃やされた所もありますが」

そして南三国ヶ丘町あたりに多くの田畑を所有していたのが高田家でした。高田さんの父は教頭先生でしたから、土地はお百姓さんに貸していました。
「子供の頃お百姓さんの所に、地代をもらいにいったような記憶があります」

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▲高田憲さん。「けやき通りまちづくりの会」の副会長を経て実質会長の会長代理。「私は中継ぎですから」と謙遜されています。

広大な土地を天王貯水池のために提供したのは、更に先代の祖父でした。
「このあたりにはため池も多くて、立地的にも貯水池を作るのにぴったりの場所でした。祖父は市のためにならと1000坪の土地を無償で提供したそうです」
当時は土地の値段が「あってないようなものだった」と言いますが、それでも広大な土地ですからめったにない話でしょう。
高田家は後に、新制の三国丘中学校が出来る時に、校舎しかなかった学校の校庭にするために1000坪の土地を、この時は有償ですが安価で提供したそうです。
「今でも三国丘中学校の校庭を見ると、ここがうちの土地だったんだなぁと思うことがあります」
高田さん自身も夜回りや町づくりのための活動に積極的ですから、三代続いて公共のために骨を折る伝統が継承されているのですね。


■天王貯水池の名前はどこから?

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▲堺東の踏切をまっすぐ丘を登った所にある「旧天王貯水池」。

「旧天王貯水池」という呼称がなぜついたのかは、ちょっとした謎です。高田さんの意見はこうです。
「貯水池の近くに『天王の池』と『天王の森』というのがあったんですよ。今は宅地になっていますが、宅地になる前は森の真ん中に広場があって集会所のようになっていました」
では、その『天王』の由来はなんなのでしょうか?
「随分昔にこのあたりに向泉寺というお寺があって、堺市駅から百舌鳥のあたりまで広がる大きなお寺だったそうです。『天王の池』も『天王の森』もその敷地の中にあったものが残っていたのではないでしょうか」
向泉寺は行基によって天平15年(西暦743年)に開基されたお寺で、16世紀に兵火で焼失しています。
「だから、『旧天王貯水池』の天王は、天皇ではなく仏教の天王ではないかと思うんです。ただ向泉寺に関する文献は非常に少ないそうで、研究されている方はいるのですが、確かなことはなかなか言えないんです」
現在、向泉寺の名前は、榎元町にある「榎元町公園」の別名「向泉寺公園」として残っています。


■消滅の危機を乗り越え100年
上水施設として堺市民の喉を潤していた「旧天王貯水池」ですが、その役割を終え、取り壊すという話が持ち上がりました。
「今から30年ぐらい前の話です。付近の住民は反対運動をおこしました。まだ元気だった私の父も反対運動に力を注いでいました」
反対運動には住民に大学の先生なども加わり、結局計画は撤回されました。
「もし計画通り取り壊されていれば、職員の宿舎とかそんなものにでもなっていたんじゃないでしょうか」
貴重な文化財が命脈を保てたのは喜ぶべきことですが、反対運動の結果、文化的価値が認められて登録有形文化財となったのは痛しかゆしでした。

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▲反対運動当時の「旧天王貯水池」。写真は建築家の柴田正巳さんから。

「現在、『旧天王貯水池』は年に二回、春と秋に一般公開されています。これは非常にもったいないことだと思います。常時開けるのは無理でも、せめて月一回は開けてほしい」
しかし、明治43年に完成した「旧天王貯水池」は雨漏り漏水などが起こり、次第に老朽化しはじめています。安全面の問題からも、簡単には公開できません。であれば、適切な補修をすればいいようなものですが......。
「国の文化庁の管轄の文化財となってしまったので、レンガひとつ手をつけることが簡単ではなくなってしまったんです。せめて草刈りぐらいはしたいのですが」

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▲同じく反対運動当時の「旧天王貯水池」内部。(写真提供:柴田正巳)

それでも高田さんも所属する、魅力ある町づくりのために活動する「けやき通りまちづくりの会」は、地域の資産として「旧天王貯水池」を積極的に活用しようとしています。
「2012年は、『けやき通りまちづくりの会』が出来て10年、旧天王貯水池が出来て100年。ちょうど記念の年でしたから、賑やかにイベントを開催しました。100才の人を呼んで祝賀会をしたり、100円ショップを開いたり、けやき100本(もなかったんですが)に100人のサポーターをつけたり」
大きなイベントを定期的に開催するのは大変ですが、「旧天王貯水池」を未来につなげる企画も行われています。
「建築家学会による建築物の再利用コンペが昨年あって、古いビルの改装工事に加えて、旧天王貯水池の再利用アイディアも募集されました。私もお飾りですが審査員として参加しました」
コンペでは学生によって様々なアイディアが出されました。
「私は個人的には野外劇場にしたらどうかというアイディアがあります。片側の斜面はソーラー発電パネルを置いて必要な電力や経費をまかなってもいいでしょう」
地域の人々が身近に文化に親しめる生きた資源として活用したいと高田さんは考えています。

高田さんの夢が膨らむのは、百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を見据えてのことです。
「世界文化遺産に登録されれば仁徳さんに近い『けやき通り』にも世界中から多くの観光客が来ると思うんです。その時には『けやき通り』が観光の中心地になるように、旧天王貯水池も活用していきたいですね」

地主だった高田家が三代続けて育んだ町を大切にする心が、今後より多くの町の人に受け継がれていくことでしょう。


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