| トップページ |
雑記帖 No.051

タチバナ印刷

時を越え、海を越えた堺の遺産

00_tatibana_kanban01.jpg
▲古い看板を手にする立花啓司さん。この看板の書体が今の社名ロゴに引き継がれているようです。

■北海道からのミステリー
堺の町の印刷屋さん『タチバナ印刷』に、突然北海道の石狩市の教育委員会からコンタクトがありました。
社長の立花啓司さんは驚いたといいます。
「連絡をくださったのは文化財課の工藤さんという方でした」

01_tatibana_naganosyouten.jpg
▲復元された長野商店(『長野商店物語』いしかり砂丘の丘資料館 より)。正面の大看板に『千歳』の文字がみえます。

石狩市では貴重な明治時代の建築物、指定有形文化財の『長野商店』の復元展示事業に取り組んでいました。
長野商店には、かつて堺の清酒『千歳』の大看板がかかっており、その復刻のために『千歳』のラベルを探していたのですが、ラベルを印刷していたのが『タチバナ印刷』だったのです。
『タチバナ印刷』には、100年前の木版多色刷りの美しいラベルが当時の色彩を残し奇跡的に現存していました。
「ラベルを送りましょうか? と言ったんですが、空輸中に万が一のことがあってはと、わざわざ北海道から撮影に来てくださったんです」
酒瓶・酒樽のラベルを文化財として敬意を払う姿に立花さんは感服しました。

それにしてもなぜ、美しいラベルを堺の印刷屋が作り、100年の時を経て北海道からの問い合わせが来るようなことになったのでしょうか? 

この謎・ミステリーを解き明かすべく、『タチバナ印刷』の歴史を紐解いてみましょう。


■タチバナ印刷秘史
02_tatibana_jyoujyuji.jpg
▲橘屋又三郎や立花家のご先祖様が眠る堺区宿屋町の六條成就寺。

立花家のご先祖様には、戦国時代の橘屋又三郎という種子島に渡って堺に鉄砲をもたらしたとされる伝説的な人物がいます。

又三郎は呂宋助左衛門と比肩するような、ただの商人に収まらない人物だったようですが、その業績は不確かな所も多く、また江戸時代の橘家の歴史も伝わっていません......とある理由によって。

その理由は後に述べるとして、立花家の軌跡がたどれるのは明治以降。橘姓だったのを明治時代に立花へと改め、啓司さんの曾祖父にあたる清次郎さんが堺区車之町で印刷業を営んで以降になります。

02_tatibana_tabakorabel.jpg
▲明治時代の木版印刷のラベルが美しいまま残っています。

「これを見て欲しかったんですよ。明治時代のマッチ箱やタバコのラベル。それとこちらが緞通(だんつう)の許可証」
130年以上前、明治10年代の色彩豊かな印刷は、全て木版の活版印刷によるもの。
大阪(上方)には、江戸時代以降綿々と独自の浮世絵の伝統があり、著名な浮世絵師も存在しました。
「おそらく大阪の活版職人を抱えていたんでしょうね」
木版多色刷りの技術は、もはや一部にしか残っておらず、現物は貴重なものです。

※当時の木版活版は絵師、彫師(ほりし)、摺師(すりし)の三者分業でした。

02_tatibana_dantuu02.jpg 02_tatibana_dantuu01.jpg
▲当時の『タチバナ印刷』では堺緞通の製作にもかかわっていました。今に残るこの資料は下絵の図版のようです。 ▲明治時代内務省から発行された緞通の版権登録証。

この木版印刷の技術を使って錦絵を思わせる美しいラベルの数々が作られ、『千歳』のラベルを含め「酒造関係だけで実に516種類」(『南蛮船は入港しなかった』/中井正弘 より)ものラベルが残されていたのです。


■酒処 堺の発展と衰退
03_tatibana_syousyo01.jpg
▲「立花清治郎」の名が見えますが「立花清次郎」の間違い。

今の堺からは想像もつきませんが、明治の頃、堺の製造業別割合いでは酒造が第1位でした。大浜からは、こんこんと良水が湧き出ており、数多くの銘酒が醸造されました。

大阪麦酒(後のアサヒビール)の初代社長・鳥井駒吉の名にちなんだ『春駒』もこうした銘酒のひとつ。『春駒』など『鳥井』関連のラベルが、『タチバナ印刷』には数多く残されています。

駒吉の設立した『鳥井合名会社』の住所を見ると甲斐町2丁となっていますから、駒吉と車之町の清次郎の間で色んなやりとりがあったのでは? なんて空想も。

03_tatibana_kurumanocyou.jpg 03_tatibana_syuzai01.jpg
▲車之町にあった『タチバナ印刷』の営業所の写真。 ▲取材に答える立花さん。立花さんも印刷技術を学んだ印刷技術者です。

残されたラベルを調べると、北海道の『千歳』だけでなく、山口や九州、それに韓国釜山にまで堺で醸造された酒が販売されていたことがわかります。
「関東が見当たらないのは、東京に印刷会社があったからでしょうか? 想像ですが港を通じて堺の酒が広まっていったように思います」

海を越えて商売が広がっているのは、橘屋又三郎を先祖に持つ家系の面目躍如ですね。
「又三郎のDNAが清次郎に流れていたんでしょうね」

03_tatibana_kanban03.jpg
▲阪堺鉄道関連の看板。阪堺鉄道は鳥井駒吉によって設立された鉄道会社です。

その後、水質悪化に伴い堺の酒造会社の多くが灘へと移転しはじめます。堺の酒造業界にもかげりが見えてきました。
そして堺にとっても、『タチバナ印刷』にとっても悲劇の時が訪れます。

堺大空襲。焼夷弾の炎が堺の街を襲ったのです。


■灰燼の街からの復活
堺大空襲は今の阪堺線大小路電停付近を照準にして爆撃されました。住民の努力などもあり、材木町以北はなんとか焼け残ったものの、以南は見渡す限りの焼け野原になりました。残っていた酒造会社も壊滅的な打撃を受けます。

04_tatibana_kanban02.jpg
▲戦災を免れた『立花商店』の名が刻まれた明治9年頃の看板。

当時車之町にあった『タチバナ印刷』も全焼の被害にあいました。
ラベルの元になった版木や、あったかもしれない橘屋又三郎に関する資料も、江戸時代の歴史も灰燼に帰したのです。
今残っている酒瓶・酒樽のラベルは被災をまぬがれた数少ない資料だったのです。

まだ生まれてもいなかった立花さんには、過去をたどる術もありません。失われた物の大きさに思わず嘆きの言葉が......
「あの戦争が無ければ、と思います」
戦火は人命も、文化も、歴史も破壊したのです。


■継承されるべきものは
戦後『タチバナ印刷』は車之町から宿屋町へと移転し、更に昭和38年に現在ある南清水町へと居を移します。

05_tatibana_minamisimizu.jpg
▲南清水町にある現在の『タチバナ印刷』。

『タチバナ印刷』を復活に導いたのは、立花さんの父である章さんでした。
「堺のJCI(日本青年会議所)の発起人の1人だったと聞いています。高度成長期ということもありましたが、コツコツと頑張ったんだと思います」

05_tatibana_kinenhin01.jpg
▲JCI10周年の記念品。

現在、4代目社長となった立花さんが今も使う印刷機や裁断機は父・章さんから受け継いだもの。
年代物の橋本鉄工の活版印刷機も働いています。
「父親が築いたJCIなどの人の縁で、今も仕事があるんだと思っています」
過去からの縁、人とのつながりによって今の自分があるんだと立花さんは強く思うのです。

05_tatibana_insatuki01.jpg
▲今は無き橋本鉄工所の全自動活版印刷機B3ワイド。ドイツ製の活版印刷機とはまた違った趣きがありますね。

「物があるだけで満足してはいけません。物の前にあるそれを作った技術や歴史を大切にするべきだし、物の後にあるものも大切にしないと」
戦火をまぬがれたラベルは、立花家の歴史にとってだけではなく、明治時代の堺と印刷業・酒造業、さらには海を越えた石狩市などにとっても貴重な資料です。立花さんは、これからも大切に残されていくことでしょう。

修正後_05_tatibana_tenpomae.jpg


タチバナ印刷
堺区南清水町1丁1-11
TEL 072-233-7405
FAX 072-233-7406




検索

2018年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

お気に入りに追加

| トップページ |