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颯爽人 No.021

稲本 耕一 クラリネット奏者

失われない音

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稲本耕一
profile
大阪音楽大学卒業。
ドイツの名門・国立デトモルト音楽大学などヨーロッパで研鑽。
1977年、ソリストデビュー。長男・響(ピアノ)、次男・渡(クラリネット)と共にファミリーでの音楽活動も。


50年かけて磨き続けてきた大切な技が、一瞬にして消え去ってしまった。
堺のクラリネット奏者・稲本耕一さんは、喉頭癌を煩い一度は完治宣言も受けたものの再発。2011年、クラリネット奏者の命でもある声帯を摘出する手術を受け、声を失いました。
二度とクラリネットは奏でられない。奏者としての生命は絶たれた。誰もがそう思って数年が経ちました。

2013年の冬、意外な知らせが飛び込んできました。稲本ファミリーのクリスマスディナーショーにて稲本耕一が復活するというのです。

奇跡の復活劇は本当のことなのか、稲本さんの自宅にある『堺テクネルーム』を訪ね、一筋縄ではいかない道程の原点、少年時代の音楽との出会いから伺いました。

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▲稲本さんが生まれ育った堺の町屋を改装し『堺テクネルーム』が生まれました。


■吹き続けた少年時代
稲本少年のクラリネットとの出会いは、殿馬場中学に通う中学3年の時。前年の卒業生が卒業記念に楽器を寄贈して出来たブラスバンドに参加したことにはじまります。
「お琴や三味線、長唄など邦楽のレコードが家にあり、小学生の時にはアコーディオンもやっていました」
音楽に親しんでいた稲本さんは、当初格好いいトランペットにあこがれました。
「ところが口の形がトランペットに合わない口だったんです。口が合わないとどれだけ努力しても難しいんです」

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▲妻である暁子さんの合いの手とIpadでお話を伺いました。

気落ちする中、ふと見つけたのが隅っこに転がっていたクラリネットでした。
「クラリネットとはぴったりと口があったんです」
偶然ラジオから流れてくるクラリネット曲を耳にして、「こんなにも素晴らしい曲が吹けるんだ」と感動し、深くのめり込むことになります。

進学した三国丘高校にも吹奏楽部はありませんでした。
「殿馬場中学からの経験者7人と他校からの経験者20人ぐらい、それと2年・3年の先輩たちとブラスバンドを結成したんです」

クラリネットに夢中になっていた稲本さんは水を得た魚。
「三国にはクラリネットを吹きに行っていた」
と、朝に校門が開いてから、夕方に用務員から追い出されるまで、ずっと屋上で吹き続けました。
「おかげで、おちこぼれで卒業してから数年間は恥ずかしくて高校の前を通れませんでした」

そんな落ちこぼれをただ一人認めてくれた先生がいました。ハンドボールの名選手で、全日本チームの監督としてオリンピックに出場した村田先生です。


■応援され世界へ飛翔
村田先生は、型破りで人望のある先生でした。
「今ならあり得ないでしょうが、学校でタバコを吸っている生徒を見つけると鉄拳でボコボコにして叱りつけるのに、『吸うんだったら俺の家で吸え』と、家に呼ぶような先生でした」
そんな破格の先生が、どうしたわけか稲本さんを目にかけてくれたのです。

住宅地の真ん中にある高校の屋上で連日朝から晩までクラリネットを吹き続けるのですから、クレームがこないわけがありません。
「相当のクレームがきていたのを全部村田先生が止めてくれていたんです。村田先生のやる事だからと他の先生も何もおっしゃらなくて、そのことを知ったのはつい最近の事なんです」
稲本さんが忘れられないのは、卒業する時に村田先生からもらった言葉でした。
「『おまえには見込みがある』と、おっしゃってくださったのがずっと心の支えでした」

後にソリストとして東京でリサイタルを開催できたのも、村田先生の尽力があったから。稲本さんの人生の節目ごとに背中を後押ししてくれた村田先生。その村田先生も、取材直前に天寿を全うされました。


高校3年生の時にプロの音楽家への道を進もうと決意し、大阪音楽大学へ進学。卒業後は、名古屋の中学校で一年間音楽教師を務めた後、アンサンブルを組んで音楽活動を開始し、大阪市音にも4年間在籍しました。
「フランス人の先生に憧れて、29才の時にヨーロッパへ留学しました」
人の縁もあってドイツの先生に師事しますが、フランスまで出かけて憧れの先生に指導してもらう事もありました。
「すごく怖い先生で、何かあると『帰れ!』と怒られたものですが、いざ日本に帰国する時には泣いて『帰るな』とおっしゃってくれました」

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▲ドイツ人の先生の孫弟子が、息子の渡さんの先生になったのも不思議な縁です。


■クラシックと日本の民謡は同根!?
ドイツへ留学した稲本さんは、楽曲のルーツを訪ねるようになりました。作曲家の故郷やゆかりのある場所へ行き、取材するのです。直接肌で知ったのは貴重な経験でした。
「楽譜だけを見て演奏するのとはまったく違ってきました」

クラシックの起源に直に触れるうちに、あることを感じ始めます。
「クラシックと日本の民謡は同根なのではないか?」
子供の頃に民謡に耳慣れて育ち、クラシックに真摯に取り組んだ稲本さんならではの大胆な着想でした。

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▲滝廉太郎の「荒城の月」のオリジナル曲がヨーロッパでは演奏されており、誰も日本の曲だとは思っていないとか。その違いを演奏して教えてくれる稲本さん。「日本版では半音を使わない」

「奈良時代に日本にモンゴル馬が入ってくるのですが、同時に遊牧民の音楽も入ってきたのです。それが小諸馬子歌となり、江差追分へと受け継がれます。一方で草原の音楽は西へも進みます。クラシックの源流はハンガリーの民謡ですが、ハンガリー人の起源はアジアの遊牧民族なのです」
遊牧民族の音楽がユーラシアの東西の端へ広がったのではないか? そんな歴史が紡ぎ出せるほど。クラリネットで民謡を奏でるインスピレーションへとつながります。

帰国してからも音楽文化の原点をさぐり日本各地の民謡の現場も取材しつづけます。
その成果は初アルバム『Message from MIN-YO』で結実します。

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▲クラリネットで奏でたニューアレンジアルバム『Message from MIN-YO』。「室町時代にはキリスト教音楽の影響もあり、お琴の『六段』もクラシックの高度な変奏曲といえます」

「日本でも日常の中でクラシックを楽しめるはず。もっと身近なものにしたい」
ソリストとして初めてのリサイタルの中で、非難覚悟で江差追分を演奏したのは1977年のことでした。
「ところが偉い先生たちも『これからの新しい形だ』と絶賛してくださったんです」

第2回からは、演奏の合間に曲の解説やエピソードを話すようにしたのです。これも日本では初めてのことです。
「それまでよくわからずに聞いていた部分が身近に感じられるようになったと、これも好評でした」

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▲堺テクネルームでは身近なコンサートを開催(写真は「ひなかざりコンサート」にて)。

「ヨーロッパでは日常の中に音楽がありました。町のパン屋さんや花屋さんが、休みの日にちょっと着飾ってクラシックを聴きに行く。そんな気軽なものなんです」
日本でも、地方へ行くとヨーロッパと同じように民謡のサークルがあり音楽を楽しんでいました。

「日常の中で気軽に音楽を」という願いは、1989年に自宅に併設した『堺テクネルーム』という形で実現します。
ヨーロッパでも日本でも地方の民謡サークルでは、お茶やお酒を飲みくつろいで音楽を楽しんでいて、話すことはほとんどそっくり。それを故郷の堺でやろうとしたのです。
「古代ギリシアのシンポシオン(饗宴)と呼ばれる集まりではソファに寝そべって杯を傾けながら哲学談義に華を咲かせました。テクネとはギリシア語の技術という意味ですが、当時は技術(テクネ)=美のことだったんです」
単に演奏技術の事ではなく、美を追究する気持ちを表現した名前でした。


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▲東北大震災で被災地にいけないのが何よりも悔しい。しかし大学入学の際に買って長年物置にしまい込まれていたピアノを息子の響さんがリペアして、被災地でのコンサートに使用。思いが受け継がれていきます。

そんな思いを上回る体験とも出会います。
1995年1月17日の阪神淡路大震災。数千名の死者行方不明者をだし、神戸の町は瓦礫の町に変貌しました。

音楽家の稲本さんも被災地へ赴いて演奏し、そこで忘れられない光景に出会います。
「丁度炊き出しのボランティアで鰻丼が配られていたんです」
おなかもすいているだろうし冷めては美味しくないと、食べてから演奏を聴きに来てくださいと薦めたのに、皆は蓋をしたままやってきました。
「皆さん演奏をお聞きになって、終わった後に一斉に蓋をあけて食べ始めたんです」
その光景に稲本さんは体が震えたといいます。
「命の次に音楽は大切なんだ」


■1秒に気持ちをこめて
2005年。
喉頭癌が見つかります。
癌の進行状況は初期のもので、即手術を行い患部を摘出すれば命は助かるという状況でしたが、摘出は拒否。手術をすれば喉に空気穴をあけ、口での呼吸は行えず、クラリネットの演奏は不可能になるからです。
「命よりクラリネット。そう思ったんです」

コンサートでの体力が奪われるため抗がん剤での治療も拒否。3ヶ月の放射線治療を受け、その後の検査で癌は消失。ずっと経過を見続け、2009年の音楽活動50周年記念コンサートの翌年である2010年には完治宣言を行います。

しかし、その数ヶ月後に異変が現れたのです。
「検査をしてどうもおかしいとなって、12月のクリスマスコンサートを終えた2011年に精密検査をすると癌の再発がわかったんです」
今度こそ摘出手術が必要でした。一度は手術を拒絶するも、喉の痛みは激しくクラリネット演奏どころか日常の生活もままならない有様でした。

「丁度1月に母を亡くしたこともきっかけになりました。音楽よりも命が大切だと思ったんです」
母の葬式での演奏が、人前で吹いた最後の演奏となったのです。

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▲地道な『食道発声』のトレーニングを続け、徐々に独自の奏法を編み出しつつあります。

喉頭摘出を行い世界はがらりと変わりました。
口では息をしないので、食べ物の匂いも感じないし、熱い物を吹いてさますこともできない。鼻をかむことすらできないのです

それでも稲本さんは諦めていませんでした。
可能性をかけたのは『食道発声』という鼻にためた空気を使って発声する方法です。リハビリを行って通常3ヶ月から半年、稲本さんのように腸を食道につなぐ手術をした人では、時には2年もかかるという発声法です。
「手術の結果によっては不可能な場合もあり、食道発声の成功率は30%程度だと言われています。でも諦めずに続ければできるはず」

手術を受けた直後からストローでコップの水を泡立てる訓練に取りかかりましたが、肺活量がかつての数十分の一に落ちており、ぴくりともなりません。
訓練を続けて半年、ようやく最初の一音が出ますが、それはあまりにも小さな音でした。
「小さな音に、喜びよりもむなしさを感じました」

それでも諦めたくないという思いが音楽家を駆り立てます。
「オリンピックと同じです。少しずつ少しずつ記録をのばしていくことへの挑戦を続けるんです」

2年近い月日が流れ、稲本さんのクラリネットは少しずつ鳴り続けるようになりました。
2013年夏、ようやくリコーダーで曲が吹けるようになり、12月にはクラリネットでの演奏をクリスマスディナーショーで披露すると宣言します。

かつては自慢の肺活量で一分近く音を響かせることもできた稲本さんでした。
「今は1秒がやっとです。でもその1秒に技術じゃない、気持ちを込めることができればと」
テクネとは美である。その思いを胸に、稲本さんはクラリネットに命を吹き込み、音を奏でるのです。

※コンサートの予定
★稲本耕一・響・渡 ファミリーアンサンブル
■日時:12月22日(日)
■場所:リーガロイヤルホテル(大阪)
■詳細:リンク

★ミニコンサート 「阪喉会」(新年会にて)
■日時:2014年1月9日(木) 12:00~
■場所:住之江会館

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堺テクネルーム
堺区錦之町東2-1-11
TEL:072-221-2731
FAX:072-221-2785
E-mail : info@inamotofamily.com





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