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颯爽人 No.010

ギャラリーいろはに 北野 庸子

思いは受け継がれて

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北野庸子
profile
1950年  北海道生まれ。父は外科医。
1958年  大阪に転居
1974年  同志社大学法学部卒業
      (株)三井航空サービス入社
1977年 、同志社大学ワンダーフォーゲル部の先輩北野勝と結婚し堺市に在住。主婦となり、二男二女をもうける。
1999年  夫の実家の(株)キタノ洋服店(堺市山之口名店街)を閉じ、(株)ギャラリーいろはにを開設、現在に至る。

笑顔と笑顔がガラス戸の向こうに見えます。
『ギャラリーいろはに』の扉をくぐると、廊主の北野庸子さんと、談笑される初老の男性。
ですが、今日はお客様はいない日ではなかったでしょうか?
取材に訪れたその日はギャラリーの休廊日。企画展期間中の中日(なかび)のお休みです。
「表を歩いてたら、何か惹きつけられて。見る角度によって影が別の表情に見えて、不思議なオブジェですね」
と、偶然ギャラリーを通りかかったお客様でした。
展示されていた女性造形作家・宮本晴さんの作品を男性はまじまじと眺めておられます。
商店街の通りから壁一面のガラス窓ごしに、大地の女神のようなフォルムをした白い人形のオブジェ。
「丁度良かったんです。取材に合わせてお店を開けた途端に来られて」
北野さんの画廊『ギャラリーいろはに』には、休廊日にもかかわらずその後も二組のお客様がいらっしゃいましたが、北野さんはそのたびに、
「丁度よかったですね」
と、お客様を迎え入れ、さりげなくお茶を勧めます。

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▲作家宮本さんの先輩にあたる高石市からおいでになられた御夫妻。

アットホームな町中ギャラリー。そんな印象の『ギャラリーいろはに』ですが、世界各地のアーティストや、日本の若手のアーティストを迎えての前衛的な企画を14年間休みなく続けています。
中でも日本とカナダの架け橋となったアートフェスは規模といいその後の活動への影響といい大きなイベントでした。


■太平洋を越えた異文化の出会い。その原点は......?
2003年。カナダのケベック州の村サンソーヴァーにて、アートフェスティバル『エクスポ・カルチャー・ケベック&ジャパン(Expo Culture Quebec & JapanーSaint Sauveur)』が開催されました。北野さんは交流のあった主催者のアニー・デュポンさんから、50名もの日本人のアーティストを送り出すことを依頼されます。
飛行機代以外はすべて主催者持ちという破格の申し出でしたが、廃工場をリフォームして会場にした村人たち手作りのイベントだったそうです。
日本からの参加者は60名と予定を越え、そのうち堺からは竹工芸作家の田辺小竹さんら20名が参加し、茶道・華道・邦楽・絵画・彫刻など日本の芸術文化を広く紹介しました。

日本でイベントの成功を見守っていた北野さんでしたが、
「次は日本で開催してくれないかって。数十名もの作家を招いて宿泊してもらうなんて......この堺で出来るわけない!? と思いました」
しかし、断るわけにもいきません。
北野さんは知り合いから伊勢神宮の遷宮の際に木を提供する飛騨の匠の村・岐阜県の加子母村を紹介されます。
この加子母村の木造りの『ふれあいコミュニティセンター』は100名が宿泊できる施設でした。
北野さんは、5人の作家と加子母村まで出向き、施設を使わせてくれないですかと頼みます。
その申し出を受けた加子母村は、なんと60名にもなるカナダからの参加者の宿泊費を無料にしてくれたのです。
でも、大変だったのは食事です。
「関西の作家を中心にローテーションを組んで加子母村でまかないをしたんです。夫と友人が現地入りし、世話係をしてくれました」
加子母村で美術展覧会を初め様々なプログラムが組まれた他、堺でもホームステイやボランティアバスによる堺観光など活発な交流が行われました。

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▲アニーさんとの出会いの場面を再現する北野さん。

このイベントは偶然の出会いから始まりました。
北野さんは、神戸の『アートマルシェ2001』で小柄な外国人女性に目を止めました。
「アニーさんは一人でちょこんと座っていらして、声をかけると『マダム、ご覧になりますか?』って。小走りで一点一点作品を持ってこられて、最後には全部見せていただいたんです」
北野さんはその時のアニーさんの様子を身振り手振りで再現してくれます。
「堺でギャラリーをやっていますって言うと、目が輝いたんです」
アニーさんは日本で個展を開き日本人と交流したいと思ってました。アニーさんの願いは、アーティスト同士が仲良くして民間交流を重ねて世界が平和になること。
「ごく簡単に個展をオッケーすると、アニーさんの目がウルウルしてきて」

アニーさんは、油絵・現代アートの画家であるだけでなく、プロデューサー、キュレーター、そして新聞の発行まで行う活動的な人物でした。アートフェスでも主催者として地元の企業の協賛を取り付け1000万円の資金を集めました。
「アートプロデューサーというのが一番しっくり来るかもしれません」
アニーさんはその八面六臂の活躍により、フランスから勲章を授与されたとか。


■少年は「草になりたい」と言った
窓の外を見ながら親子は静かに話しをしていました。次男・勲(イサオ)さんは北野さんに呟きました。
「草になりたい」
と。そのイサオさんが家族のもとを去ったのは、『ギャラリーいろはに』のオープンの一年前のことでした。

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▲アニーさんの作品『忘却(oublis)』。「『忘却』とは、子供用の安価な、風で動くちっちゃな車の玩具のようなもので、『深い悲しみ』を忘れるのに大いに役立つ」

北野さんは芸術家の祖父や叔父を持つものの、自身は「学校の選択授業で選んだ程度」にしか芸術に縁がありませんでした。
そんな北野さんが『ギャラリーいろはに』をオープンしたのには二つの理由がありました。

北野さんの嫁ぎ先は洋服店を営んでいましたが、義母が逝去し長い歴史に幕を下ろしました。その閉めた店舗の壁が、ある日の大風で幅10mに渡って倒壊してしまったのです。
「商店街のこんな場所が吹きさらしだと向かいのお店にも迷惑がかかるから更地にもしておけないでしょ。それで店舗を造った......というのが『物理的な理由』です」

もう一つの理由。
それは北野さんの次男イサオさん、当時まだ17才の死でした。1998年、春。イサオさんは自ら命を絶ったのです。

「草になりたい」
と呟いた少年。母は尋ねます。
「草! なんで草なん?」
「小学校のとき、校庭の草引きが好きやった。なーんも考えんと一生懸命草引いてるのが楽しかった」
「お母さんな、山の上の草原で仰向けになって、風が渡っていくの感じていた時があったん。空を見ながら、自然の中に溶けていく気がした。すごい幸せやったよ」
「うん。草原の草がいい。風に揺れている草がいい」

少年は陸上部で活躍し大阪府の800mの高校記録を二回も塗り替えたアスリートでした。当時、公立高校の、しかも進学校と言われる学校の陸上部でそれだけの成績をあげるには、本人の非常な努力が必要でした。
「今思えばどこか芸術家的な感性を持っていた子でした」
イサオさんは部で指導を受けた走りと、自分が追求したい走りの間にギャップを感じていたそうです。
「『先生の意見とは違う気がする。自分なりの体型や体質にあった走り方があるんじゃないか』って」
盲目的にコーチの指導を受け入れるのではなく自分の走りを追求するイサオさんに、北野さんは自分の感性を大切にする芸術家的な資質を見ました。
「顧問の先生が部活動に熱心でなく部員がやる気を無くしていた時も一人黙々と練習をするような子でした。OBとして中学の陸上部を訪ね一番遅い子と一緒に走る、優しい優しい子でした」
そんなエピソードを北野さんは、イサオさんの死後、彼の友人や後輩たちから聞いたのでした。
「人を楽しませて生きていきたい」
イサオさんは、生前そうノートに書いていたのです。イサオさんは、ランドセルを忘れたまま学校に行こうとするような朗らかで天真爛漫な性格だったので、笑いの中心になることが多くありました。

北野さんは苦しみの中を彷徨う日々を送りました。
そんな北野さんを見かね、気分転換にでもなればと、ある友人が自分の作品を出品している展覧会に誘いました。会場の『楓ギャラリー』は、普通の民家を改装したギャラリーです。このギャラリーで北野さんは、ギャラリー経営講座の広告を目にします。丁度倒壊した店舗も建て替える必要があった時です。
(自分にも出来るだろうか?)
そう思う北野さんの背中を押したのは、イサオさんの遺志でした。
「人を楽しませて生きていきたい」

ギャラリーなら自分でも人を楽しませることが出来るのではないか?
「息子の思っていたことのひとつでも叶えたい」と、北野さんはギャラリー経営の道へと足を踏み入れます。

「直感があったんです。毎日忙しくしていたら苦痛を忘れさせてくれる。人と接していたら無理にでも笑うから空元気でも元気になるに違いない」
そんな予感を胸に、イサオさんの死から1年後の1999年『ギャラリーいろはに』がオープンします。


■ただ一つの石を見て帰る展覧会
「既成のものを踏襲して完成度を高めていくのが職人だとしたら、既成概念をずらして崩していくのが芸術家。日常とは違う誰もしたことがない見方を提示するんです」
北野さんは芸術が持つ力を苦しみの日々の中で実感しました。
「苦しい時、ぐっと視野が狭くなっていくでしょう。そんな時、芸術は違う見方を教えてくれ、視野を広げてくれます」
傷が癒えたわけではないけれど、芸術や人と接する日々が北野さんを楽にしてくれたのです。
「日にち薬ですね」

「苦しんでいる人々に、自分と同じ経験をして欲しい」
そう思った北野さんは、とりわけ『違う視点』をもたらしてくれる企画展を目指します。
「大理石を扱う若い作家さんが二人いるんですけど、その一人が『部屋に小さな石をひとつだけ置く空間を作っていいか』って。これは挑戦されているなと思って『いいよ』と返事しました」
表の部屋にぽつりと石をひとつだけ置き、ライティングにも凝って薄暗い照明にした結果、
「商店街の人から勘違いされて『長いことお店閉めてたんですね』なんて言われたりもしました」
そんな中、この石の展示を1時間も黙ってみつめるお客様もいたそうです。
「ただ見て、ただ帰る。そんな展示があってもいいなと思いましたね」

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▲北野さんが手にするのは『CDアート』の作品。アニーさんが最初に『ギャラリーいろはに』を訪問した時に丁度『CDアート』の展示会をしていたとか。

普通のギャラリーは、以前に評判の良かった展覧会と似たようなものを作家に求める傾向にあります。ですが、本当に自由に個展をさせてくれる『ギャラリーいろはに』は希有の存在です。
「作家の中には、知らずに自分で自己規制をかけている人もいます。私は自己規制をとっぱらう手助けをしてあげたいんです」
冒険的な作品や個展を歓迎する『ギャラリーいろはに』への出展を機に、作家にとって重要なシリーズが出来たこともあるそうです。

「アーティストは卵の中から殻を破ろうとしています。でも時には外からの一突きが必要な場合もあるんです。私はその一突きを手伝いたい」
もう一人の大理石を扱う作家は、積極的にアドバイスを求めるタイプで、北野さんはよく相談に乗ったそうです。
東京進出し大きな個展で成功したその作家さんは、大阪の高島屋で凱旋の個展を開催しました。
「北野さんが沢山の作家を育てたんですね」と言うと、北野さんは即座に応えます。
「とんでもない。私が育ててもらったんです」

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▲奥の展示室に飾られていた宮本晴さんの作品。宮本さんは『ギャラリーいろはに』の展示室を実際に見て、『ギャラリーいろはに』のスペースに合うように今回の作品を作られたそうです。


■ギャラリーの使命
「言い訳みたいですけど、私は素人でしたから、美術の勉強をやってきた人には感想は言えても、善し悪しや優劣の評価はできません。ですが、育ててもらって若干の知識はもらいました。提案はさせてもらいます」
ギャラリーは黒子だけど、まったくの影では駄目。時々は出て行かないといけないのです。

「日本ではアーティストが育つ環境が貧弱なんです」
日本は資金のあるギャラリーが少なく、また貸しギャラリーが多いのだそうです。
貸しギャラリーは場所を提供するだけで、ギャラリーは口出しをしません。すると作家は好きに展示できるのですが、ギャラリーと観客の目で鍛えられる機会が減少します。
これではプロの作家として戦って成長していく環境とはいえないのです。

「ともかく自分の作品を隙間無く壁に展示される方や、たとえば、まったく違うジャンルのものを統一感なく展示される方もいらっしゃるんです」
作品を魅力的に見せるためには、適切な余白を作ったり、ライティングにも工夫したりと、いくらでもこだわるべきプロの技があります。
自分の作品にはこだわりはあっても、展示方法の大切さは見逃されがちなのです。

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▲通りがかりの男性を魅了した宮本さんの展示作品。ライティングで複雑な陰翳が生まれています。

しかし、企画展はギャラリーにとってはリスクの高い物です。
スペースの賃料の定額を作家が支払う貸しギャラリーに対して、企画展でのギャラリーの収入は作品が売れた金額に応じたものとなります。
「経営側としては定期的に収入の入る貸しギャラリーをやる方が助かるんです」
ですが北野さんは10年かけて徐々に貸しギャラリーの比率を下げ、企画展の割合を増やし、企画専門のギャラリーへと成長されました。
「スタイルは固まってきました」
という北野さん。
「本当は現代アートに絞りたいと考えていたんですけど、人気があるのは風景画だったりするんです。だから、どっちも見られる中途半端なギャラリーでいいやって思いました」


■ギャラリーはずっと開けている
「作家と画廊、お客様の三者にとっていい画廊でなければ」
と、北野さんはいいます。
「遠いところから展覧会を見に来て、そっけない対応されたら嫌な思いをするじゃないですか」
北野さんは、最初の展覧会にこられた堺美術界の重鎮・河合勝三郎さんの言葉を心にとめています。
「一度開けたギャラリーは閉めてはいけない。ずっと続けなさい」
お客様がせっかく来訪されたのにギャラリーが閉まっていたら、お客様はもう一度こようと思うだろうか? 一度切れてしまった縁をつなぎ直すことはとても難しいものなのです。
取材中、休廊中に来訪された3組のお客様に対して「丁度良かった」と喜んで迎え入れた北野さんの笑顔。その源には河合さんの言葉がきっとあるのでしょう。

「入って来られた方には作品の一番いい所を知って、来た時より幸せになって帰っていただきたいのです」
北野さんは、ギャラリーの価値はお芝居のようなライブ感だといいます。生の体験、本物に触れることでお客様にはアートに接するだけで楽しいという貴重な体験をしてもらいたい。
「作家は時に自分の作品を客観的に見れなくなるんです」
ギャラリーは作家にとっても直接お客様の反応を知ることが出来る場でもあるのです。

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▲宮本さんの作品。同じシリーズでもっと大きなサイズのものがうつぼ公園で展示されたとか。

「地域のギャラリー、コミュニケーションの場としてみんなに喜んで貰えるギャラリーでありたいので、商店街にあるギャラリーというのは大きいと思います」
商店街の1階にある『ギャラリーいろはに』は、ふらっと入りやすいギャラリーです。
「入場料はいらないですし、作品を買う買わないではなく、気軽に入って貰えるギャラリーでいたいですね。私はただお茶を出したり、感想を言いたい方にはお話がしやすいように、黙ってみていたい方にはそのようにしているんです」
『ギャラリーいろはに』には北野さんとのおしゃべりを楽しみに来られる方も多いようです。
「お家では言えないことや、親しい人には言えないことってあるでしょう」


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▲作品も展示されているギャラリー内の庭。植木は三日とあけずに北野さんのご主人が世話をされているとか。


■芸術のピースを心の襞に
ギャラリーのオープンから14年、アニーさんの出会いから10年。カナダと日本を結ぶアートフェスは装いを変えながら毎年のように開催され、河合さんの縁により韓国で盛んなヌードクロッキーの展覧会が『ギャラリーいろはに』で開かれるようになりました。
「海外の作家は、その国の人がその国の人でしか感じ取れない問題や喜び、悲しみを表現します。堺を訪れたフランスの方が毎朝堺を散歩して『堺は美しい町だ』とおっしゃって。『どのへんのことやろう』と首をかしげるんですけれど、私たちが気づかないことを海外の方は気づくんですね」

ホームステイの受け入れや個展で多くの海外作家と接し、芸術に携わってきたお陰で北野さんは多くのことに気づけたと言います。
「たとえば電車に乗ると色んな人がいます。外から見ただけではわからないけど、きっとそれぞれ苦しみを抱えているんじゃないでしょうか。もしこのギャラリーをやっていなければ私はずっと嫌な人間で、他人の苦しみにも気づいていなかったんじゃないかと思います」
息子のお陰で自分はそれに気づくことが出来た。
「芸術のピースを心の襞の中にためこんでいって人格が形成され、柔らかな発想の原動力になります」

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▲山之口商店街にある『ギャラリーいろはに』。気軽に扉を叩いてください。

現在北野さんは、商店街の仲間たちと『山之口アートフェア』の企画に携わっています。
「大きなイベントは大変。私は小さなイベントを気軽にやる方が向いてます。アートフェアが町へ来るきっかけづくりになれば」
『ギャラリーいろはに』から北野さんの思いは人々へと広がり、受け継がれていくことでしょう。

■住所:大阪府堺市甲斐町東1丁2-29
■TEL/FAX 072-232-1682
■開廊:11:00~18:00
木曜日休廊

■アクセス:
 阪堺線「宿院」電停より徒歩2分
 南海本線「堺」駅より徒歩12分
 南海高野線「堺東」駅より徒歩17分
 「堺」「堺東」駅よりシャトルバス利用の場合「大小路」下車
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