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笑顔とお米の国の表通りと裏通り フィリピン紀行(4)

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フィリピン・マニラにあるイントラムロス地区とその突端にあるサンチャゴ要塞は、400年の歴史を持ちます。堺の商人ルソン助左衛門が、海を渡って交易していた頃、ルソン(フィリピン)島にあったマイニラッドと呼ばれていた都市は、スペイン人によって征服され、分厚い城壁に囲まれた要塞都市へと作り替えられたのです。
「フィリピンのことを知りたければサンチャゴ要塞へ行きなさい」と、知り合ったフィリピン演劇界の重鎮ロディ・ベラさんに勧められて、サンチャゴ要塞へ行くと、丁度現代アートの祭典マニラビエンナーレ2018が開催されていました。展示されていたアートが浮き彫りにし教えてくれたのは、サンチャゴ要塞が日本帝国軍の収容所として使われていた歴史でした。日本帝国軍の侵略、収容所の地下牢での拷問死など、フィリピン人の苦痛が、鑑賞者たちに突き付けられます。(前回記事
1942年からはじまった日本によるフィリピン占領の歴史は、1945年まで続きます。占領期の最後にやってきたのは、最大級の惨劇ともいえるマニラ市街戦(Battle of Manira)でした。
■マニラ市街戦(Battle of Manira)
サンチャゴ要塞のゲート近く。最初に見たアート作品「Children of War」の隣りのスペースで、その映像作品は上映されていました。
作品タイトルは「Inherited Memories(継承された記憶)」、アーティストはフィリピンのANGEL VELASCO SHAWさん。作品は、アメリカ軍が記録したと思われるマニラ市街戦
の映像にナレーションとテキストが加えられたものでした。
このマニラ市街戦とはどんな戦いだったのでしょうか。
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▲映像作品「Inherited Memories」(ANGEL VELASCO SHAW)。
マニラ市街戦は、1945年の2月3日から3月3日まで行われた戦いで、日本帝国軍14000人と、アメリカ軍35000人にフィリピンゲリラ3000人が参加し、逃げることができなかったマニラ市民70万人が、両軍の戦闘に巻き込まれたのでした。
戦いは銃撃戦で幕を開け、大軍のアメリカ軍に対して日本軍は堅牢な建物に立てこもってスナイパーで抵抗します。思わぬ被害を受けたアメリカ軍は艦砲射撃に切り替え、街とマニラ市民ごと日本帝国軍を叩き潰すことにします。
すでに敗戦は濃厚でしたが、日本帝国軍は降伏せず、分厚い城壁に囲まれたイントラムロス地区に立てこもります。戦火に追われたマニラ市民もイントラムロス地区に逃げ込みますが、追いつめられた日本兵はマニラ市民たちの中にゲリラが混ざっていると疑心暗鬼に陥っていました。男性であれば10代の少年であってもサンチャゴ要塞へ連行され、連行された男たちのほとんどは帰ってきませんでした。女性への強姦殺人も日常茶飯事だったようです。
2月22日になって、アメリカ軍はイントラムロス地区に総攻撃を開始します。砲撃は止むことなく一日中続き、翌23日にイントラムロスは降伏。捕虜となった日本兵は25名で、515体の遺体が発見されました。しかし、マニラ市民の遺体は、それをはるかに上回っていました。イントラムロス地区で生き残ったマニラ市民3000名は女性か子どもばかりで、成人男性はほとんどいませんでした。地下牢からは後ろ手に縛られた男性の遺体600体が発見され、砲撃の弾除けの壁にされ殺されたり、溺死させられたものが多数いたこともわかりました。
イントラムロス陥落後も、マニラ市内の地下室に籠城して抵抗を続けた日本兵を、アメリカ軍は火炎放射器で追いつめ焼き殺していきました。
3月3日になって、アメリカ軍はマニラでの戦闘終了を宣言し、マニラ市街戦は終結。
日本帝国軍の戦死者は12000名、対してアメリカ軍は戦死が1010名、負傷者が5565名。そしてマニラ市は灰塵と化し、マニラ市民の死者は10万名にも及んだのでした。
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▲イントラムロス地区の分厚い城壁。近代兵器を有し、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍も攻めあぐねた。
アート作品「Inherited Memories」は、このマニラ市街戦の生存者が、失った家族を探し続ける終わりの無い旅の記録でもありました。銃撃、爆撃による死だけでなく、餓死、獄死、拷問、強姦、連行といった暴虐による悲しみの記憶が細切れになっている今、それを説明するだけでなく、次世代へと継承していくための作品でもあるのでした。
マニラビエンナーレ2018の開催期間は2月3日から3月5日まで。ほぼマニラ市街戦の時期と一致します。この時期がベストの観光シーズンということもあるでしょうが、時期を合わせる意図もあったのではないかと思います。それ以外のテーマの作品もありましたが、中核をなしていたのは、やはりマニラ市街戦をテーマにした作品だったからです。
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▲10万人にも及ぶマニラ市街戦の犠牲者を追悼するモニュメント。
これらのアートは一時的なものですが、サンチャゴ要塞の外には、永遠に記憶を留めようとする記憶装置もありました。
イントラムロス地区の街かどにある小さな公園には、花に囲まれたモニュメントがあり、傷つき倒れた無辜の市民の像がありました。マニラ市街戦で殺された10万人の犠牲を悼むモニュメントです。
また、イントラムロス地区に沿ってある海岸通りベイウォークには、フィリピンの偉人たちなど歴史を刻んだ彫像が立ち並んでいましたが、その端に目隠しをしベールを被った女性像がありました。これは日本でも話題になったフィリピン従軍慰安婦の像です。彫刻家Jonas Rocesさんによるこの彫像は、細部にわたって繊細に作り上げられた美しい彫像でした。しかし、日本政府はこの彫像設置に抗議をしており、すでにこの時像の後ろにあった英語のプレートが削り取られていました。その後、ついに彫像は撤去され作者に返還されるのですが、歴史を受け継ぐ教材として小学校を巡回する予定だとニュースでは伝えられています。
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▲ベイウォークに建つフィリピン人従軍慰安婦像。この後撤去され、作者のJonas Rocesさんは、「フィリピン人としての尊厳を失った」をコメントした。
■役者たちの見たフィリピン
サンチャゴ要塞を訪れた日の夜、日本からマニラインターナショナルフリンジフェスティバルに参加した劇団ガンボ(Theatre Group Gumbo)の作品「Are You Lovin’ it?」の最終公演が行われました。あえて言えばフィジカルブラックコメディとでもなるこの作品は、前年2017年アメリカのサンディエゴインターナショナルフリンジフェスティバル2017でも上演され、最優秀コメディ賞とアーティストピック賞(参加アーティストが選ぶ最優秀賞)の二冠に輝いた作品でした。架空のワクドナルドランドへバカンスに来たワーカーホリックな日本人サラリーマンや育児ノイローゼのヤンママが次第に洗脳されていく物語です。そこには世界を覆う帝国主義への批判が込められており、上演する場所ごとにアレンジも加えられます。フィリピンでは、フィリピン人がアメリカ軍基地を撤去したエピソードが盛り込まれました。
開演一時間前から待っているお客様もいたり、サンチャゴ要塞行を薦めてくれたロディ・ベラさんはこの日も観劇し、文字通り大笑いをしていました。
帰国後になりますが、劇団の役者さんたちに、フィリピン公演などを通じて感じたフィリピンについてインタビューすることができました。
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▲腸が飛び出ても仕事の電話を続ける日本人サラリーマンを演じた西原亮さん。
まずはワーカホリックな日本人サラリーマンを演じた西原亮さん。
「空港からマカティ地区にいくまでタクシーから川沿いのスラムを見ました。これまで行った国の中では貧しい国に来たのだと思いました。これまでも大人のホームレスは見たけれど、家族のホームレスは初めて見ました。マカティはすごい都会だけど、境目に銃を持った警備員が立っていてお金持ちのエリアを守っている。貧富の差が目の前にリアルに露骨に存在していて、地元の人は気にしていなかったけれど、ストリートチルドレンは衝撃的でした。どう反応していいかわからなかった。フィリピン教育センターのマリベルさんが貧困問題にも詳しくて、彼女に今度フィリピンに来るときは教育プログラムを受けたいと言いました。その教育プログラムというのは、スラムの家に行って一緒にご飯を食べるというものです。フィリピン教育センターは文化センターのようなものを作って、子どもたちに勉強を教えたりもしているそうです」
「(アートについて)香港はアートが停滞している印象があったけれど、フィリピンは裕福じゃないけれど、陽気なエネルギーでなんとかしていこうという雰囲気がありました。一所懸命、一緒に作ろう、良いものを作ろうとしていて、ビジネスライクなところ、システマチックなところも一切なかった。これまでやってきた国でいうと、欧米の感じと雰囲気が良く似ている。何があっても大丈夫さ、という感じ。人が明るく、エネルギッシュでポジティブ。これからもフィリピンでやっていけると思いました」
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▲代表の田村佳代さんは、育児ノイローゼのヤンママを演じた。どこの国で演じても、「自分もそうだった」と共感する育児経験者が多いそうです。
自らの経験もあって育児ノイローゼのヤンママを演じた代表の田村佳代さんも、まず目にとまったのはストリートチルドレンたちの姿だったといいます。
「生活するだけで精一杯、赤ちゃんが排気ガスまみれで真っ黒な顔をしている。そんな赤ん坊を見たらもう無理。お母さんが一所懸命に差し出してくる手に、私はお金を渡していました。躊躇したとかはなくて、考えてなくて、自然に渡していました。そして、そんな中でもアートがある。無くならない。フィリピンではお金持ちの人がアートをやっているわけではなかった。いらないものは淘汰されていく中で、アートがあった。こんな生きていくのに精いっぱいのまちだから、アートが必要なんだと思ったんです。私たちは、東日本大震災の後、南三陸へ行きました。南三陸の小学校の先生が言ってくれたのは、本物のアーティストが来て美しい歌も歌ってくれた、キムタクも来てくれた、でも今みんな心の底から笑いたいんだ。一時間でいいから思い切り笑いたいと。それはガンボのやれること、思いっきり笑えるワークショップをした。人って本当に辛い目に合った時、いきなりは泣けないんですよね。思いっきり笑った後、やっと泣けるんです。その時に似ていると思いました。私たちは信念をもってアートをすることが試されている。自分がもう一回覚悟を決めることが試されていると思いました」
「(フィリピンのアートについて)照明とかの技術がすごく高い。演劇教育が結構盛んだと思います。スタッフがこちらの言っていることをすぐ理解して動いてくれた。頭が柔らかい。劇場スタッフを見たら、大体どれぐらいのレベルかはわかります」
「(フィリピン教育センターのプログラムについて)日本人の役者とスラムの住人が一緒になって、スラム街で『ロミオとジュリエット』をやったそうですが、それ自体すごいブラックなパロディです。日本人が買春旅行でフィリピン女性を買っていること。(海外旅行できる)日本人とスラムで生きるフィリピン人の絶対越えられない壁が『ロミオとジュリエット』に盛り込まれている。フィリピンで出会った演劇人はみんな純粋で毎日のようにメールが来ます。今度はみんなが日本に来て一緒にやろうよ、と言うんですが、それはお金が無いから僕らは行けないよ、って言うんですね。でも、文化の交流は絶対に必要です。表現することで、人と対話する。みんなと必要なことだと思う」
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▲サラリーマンやヤンママを洗脳するワクドナルドガールを演じた宮坂野々さん。
最後に2人を洗脳するワクドナルドガールを演じた宮坂野々さん。宮坂さんがフィリピンに来たのは2度目でした。1度目は、宮坂さんの祖父が太平洋戦争のフィリピン・レイテ沖海戦時にレイテ島の陸戦で戦死し、その墓参りに行くためでした。
「(戦死した祖父のこと)私は長野県の田舎の出身なのですが、長野では多くの村が満州に集団開拓団として行った中、祖父がなぜかそれに反対して止めたんだそうです。満州に行っていたらみんな死んでいたかもしれません。祖父が徴兵された時、父は3才でその兄は5才、弟はお腹の中でした。長野の川船場で敬礼して見送ったそうです」
「(レイテ島への墓参り)祖母はずっと墓参りに行っていたのですが、私も一度行こうと思って、祖母の訪問団に私と兄もついていきました。祖父がレイテ島のどこで死んだのか分からないのですが、島をずっと回って部隊ごとにお参りするポイントがあって生還した人が案内してくれます。お墓には現地の墓守がいて、墓守の人たちも訪問団の謝礼を収入源にされているのですけれど、お墓をずっと綺麗にしてくれていました。ポイントに行くたびに、『故郷』を歌うのがパッケージになっているんですけれど、私も何か歌えと言われて、地域のお祭りで長野の御柱の木落としがあって、落とす前に神様に捧げる歌を歌いました」
「(フィリピンのアートについて)技術面では日本の方が先に行ってるかもしれません。フィリピンの機材は古いものもありました。でも、劇場のスタッフもアートで生活が出来ている。日本より、ここの人たちはアートで食べていける。アートに対してお金が降りやすいのかもしれません。フィリピンに行く前は、マニラフリンジが続くとは思えないとか、なぜアートをするのだろうとかも思っていたけれど、実際に来てみて人が活力を得るためにはアートは必要だろうと思いました。ただ本当に貧しい人たちがアートを見るためには、アートがパンの値段ぐらいにならないと見られないでしょうね」
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▲すべての講演終了後、若いフィリピン人スタッフと打ち上げ。
では、逆にフィリピンでお世話になったスタッフにも、少しインタビューしてみました。
――堺では、400年前のフィリピンと日本の貿易があったことを良く知っているのですが、皆さんは知っていますか?
「はじめて聞きました。そういう細かな歴史は高校まででは習いません。大学で専門的な歴史教育を受けたら習うんじゃないでしょうか」
――日本のサムライがフィリピンにやってきたことは?
「知らないですね」
彼らは、近代以降の日本とフィリピンの歴史についてはどのぐらい知っていたのか、次に機会があれば尋ねてみようと思います。
■空港へ フィリピン時間の謎と海を渡る若者たち
公演の翌日、フィリピンを後にするため空港へ向かうことになりました。
渋滞を懸念して朝10時頃にはホテルを出るつもりだったのですが、フロントマンの忠告でさらに余裕を見て9時に出ることにしました。やってきたタクシーに乗り込み、運転手に交通事情を尋ねました。
「渋滞は毎日あるよ」
――マニラの人口ってどれぐらいなの?
「わからないね。日々マニラの人口は増えているから」
そんな会話をしているうちに、日本の援助で出来た日比友好トンネルをくぐります。この日、想定外に道は空いており、私たちは1時間と少しで空港につきました。10時に出ていても十分間に合ったかもしれません。
ここに来てようやく公演がなかなかスタートしない「フィリピン時間」の謎が解けました。ごく限られた路線しか鉄道が走っておらず、交通インフラが脆弱なマニラでは、移動時間がまったく読めないのです。
渋滞に巻き込まれればいつまでたってもつかないし、運よく渋滞に出会わなければあっという間についてしまう。劇団ガンボの公演に1時間も早くきてしまった人は、せっかちな人でも律儀な人でもなくただ運が良かっただけの人だったのです。「フィリピン人は時間にルーズなのだろうか?」最初の疑問は、無知ゆえの偏見でした。
そもそも日本帝国軍とアメリカ軍の戦闘に巻き込まれ、壊滅状態になったマニラです。
その後のフィリピンの歴史も、ようやく独立を果たしたものの、内戦や独裁に苦しめられました。その中で、ここまで発展したきたのは、あの前向きなフィリピン人たちの活力があってこそでしょう。混沌のマニラは、苦難の歴史とそれを乗り越えてきたフィリピン人たちの生きる力の証のように思います。
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▲イントラムロス地区にあるマニラ大聖堂。修復の募金を募るため、長い歴史の展覧会も行われていた。この教会もまた、記憶装置といえるでしょう。
空港でチェックインしようとしていると、お揃いの制服を来た学生風の若者たちが列をなしていました。皆大荷物です。修学旅行にでも行くのだろうかと尋ねると、日本で職業訓練を受けるのだというではありませんか。
どうやら、外国人技能実習制度で日本へ向かう若者たちの一団だったようです。この制度は問題が多いと指摘されている制度です。技能実習にかこつけて、低賃金や劣悪な労働環境で外国人を働かせるケースが後を絶たちません。
しかし、400年の植民地だったフィリピンの国内産業は貧弱で、海外への出稼ぎはフィリピンでは数少ない富を掴めるチャンスです。
明るい笑顔で仲間たちと会話を交わすフィリピンの若者たちの様子は、修学旅行中の日本の若者たちの喧騒とそっくりです。どうか、ちゃんとした企業が彼らを受け入れてほしいと願わずにはいられませんでした。
「もし日本で何かあったら連絡してね」
と、私たちは名刺を渡しました。
「ありがとうございます」
と、彼らは日本語で答えました。それから数か月、今のところ連絡はありません。
※参考資料
「証言記録 マニラ市街戦 ~死者12万 焦土への一ヶ月~」(NHK DVD)

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