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呂宋の海へ~アジアネットワークの中の堺~(2)

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16世紀から深い繋がりがあったフィリピンのマニラと堺。
徳川幕府による鎖国で、両者の関係は絶たれたのかと思いきや、最近の研究ではどうやらそうでなかったことがわかってきました。16世紀末にスペインの侵略を受けたフィリピンと、琉球を通じてアジアと貿易をはじめた堺を交互に見た前回に引き続き、400年前のアジアの海を俯瞰してみましょう。

■日本の奴隷貿易
16世紀の終盤、スペインに攻略されたマニラは、アジア貿易やキリスト教布教の拠点となっていました。応仁の乱で兵庫津が使えなくなったことをきっかけに国際貿易港になった堺は琉球や東南アジアとの貿易で富を築き、生野銀山を開発すると、日本は世界有数の銀輸出国となります。堺の港を出た銀は、マニラからアカプルコ(メキシコ)の海のシルクロードを通り、世界中に広がっていきました。
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▲オランダ船リーフデ号。1600年に日本に漂着し、堺にも姿を現した。スペイン・ポルトガルの南蛮人から、紅毛人と呼ばれたオランダ人と取引する時代へ。
実際にルソン(フィリピン)に渡ったのは有名な堺商人・納屋助左衛門、別名呂宋(ルソン)助左衛門だけではなく、マニラには当時最大規模の日本人街があったといいます。しかし、貿易だけでなく、日本とマニラの間には緊張関係もありました。
天下統一を果たした豊臣秀吉はフィリピン侵攻を企て、1592年にマニラのスペイン総督府あてに恫喝するような書状を送っています。スペイン総督は、マニラの防備を固め、日本の動静に注意を払っていたようです。
この頃、秀吉はキリスト教容認の立場を変え、バテレン追放令や禁教令を出しています。しだいに日本と西洋社会の緊張は高まりつつありました。この秀吉の侵攻計画が実現しなかったのは、彼が朝鮮侵略に忙しく、野望を達成しないうちに1598年に死亡したからです。
秀吉がキリスト教を禁止した理由はいくつかの説がありますが、日本人が奴隷として売買されていたこともその一つだとされていますが実際にはどうだったのでしょうか?
フィリピンと堺の関係について堺市博物館の学芸員矢内一磨さんを訪ねてみました。
お話を伺っていると、この奴隷売買の話も伺うことができました。矢内さんによると、戦国時代には奴隷売買は一般的に行われていたとか。
「戦国時代は戦争捕虜などが、奴隷として輸出されていました。しかし、それも大坂夏の陣を最後に大きな戦争が無くなったので、日本から奴隷は出さなくなりました」
戦争が無くなり、戦争捕虜が無くなれば、大きな奴隷供給源も自然に消滅します。
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▲堺市博物館の学芸員・矢内一磨さん。江戸時代の堺をテーマにした著書を手に。映画『嘘八百』にもアドバイスをし、劇中には矢内さんをモデルにした(かもしれない)学芸員が登場します。
江戸時代に入って鎖国になると、国際貿易港としての堺も役目を終え、堺も歴史の表舞台から姿を消した……多くの堺市民がそんなイメージを持っていたはずです。しかし、矢内さんはそうではないといいます。
「堺は中世に反映し、近世の江戸時代は姿を消し、近代の明治時代になって再び貿易で輝いたと思われてきました。しかし、そうではなかったのです」
堺の貿易はその後も形を変え続いていたのです。矢内さんは、数々の資料を紐解き、これまで注目されていなかった江戸時代の堺商人の活躍に光をあてたのでした。

■堺の長崎商人
1603年に徳川家康が征夷大将軍になった翌1604年に貿易許可状である朱印状を持った朱印船貿易がはじまります。1635年に終了するまで朱印船は356回も派遣され、堺からは木屋弥三右衛門が10回、西ルイスが6回、皮屋助左衛門が2回、朱印船が派遣されています。
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▲堺区山之口商店街には、小刀屋の伝統を受け継ぎ金物屋『小久』さんが営業されています。1945年の堺大空襲でお店は焼けてしまい以前の詳しいことはわからりませんが、かつては大工さんが使う小刀などを扱っていたそうです。
その後、朱印船貿易が終わって、海外との貿易は長崎の出島に限定されるようになります。しかし、堺の商人はしぶとかった。「堺の長崎商人」と呼ばれた者たちがいたのです。これは堺から長崎に出向いて貿易をしていた商人たちで、井原西鶴が著した『日本永代蔵』の中にも登場します。
それは『日本永代蔵』の巻六に登場する小刀屋です。
井原西鶴は、この中で堺のことを長者の隠れ里のようなまちで、底の知れない大金持ちが沢山いると記しています。小刀屋はそんな長者に肩を並べるほどのものではないが、40歳ごろに銀3貫5百目ほどだった資産を25年後の臨終の時には850貫目の現銀にまで増やして子どもに譲り渡したと紹介されます。銀1貫が今のお金にして125万円ほどとのことなので、850貫目というと10億円ほどでしょうか。それで長者たちには並ぶべくもないというのですから、堺の大金持ちってとんでもないレベルだったのでしょうね。
それはともかく、この小刀屋が金持ちの仲間入りをしたきっかけが長崎商人になったことでした。長崎に唐船がたくさん出入りして、糸や錦が安値になったことを知った小刀屋は、10人の友人から金をかき集めて長崎へ向かい大きな利益を得たのでした。
この小刀屋の子孫は今も堺で商売をされていて、堺区の山之口商店街の金物屋『小久』さんがそれだと矢内さんは言います。
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▲堺の商家が所蔵している『世界図屏風』には、堺が世界の国々と貿易していた様子が記されていた。
当時、どことどんな取引がなされていたのかの有力な証拠も堺には残されています。
それは、やはり堺の商家が所蔵している『世界図屏風』です。この『世界図屏風』の一部は、さかい利晶の杜の1階壁面に壁画として複製されていて見ることが出来ます。この『世界図屏風』には、貿易相手国と交易している特産品も描き込まれており、当時の貿易の様子がうかがい知れます。
それによると、マニラを経由した三角貿易では、明の糸巻物、南蛮物ラシャ、猩々皮。ルソンの特産品としては鹿皮、蘇木(そぼく/生薬)、白砂糖・黒砂糖、水牛の角。明でもルソンでもないものとして、葡萄酒、珊瑚が記載されています。日本からマニラへ輸出されたものとしては、小麦粉、銅、鉄やかん、水風呂、はさみ、さまざまな器具、食器類などがあげられています。
これだけのやり取りが日本と海外の間でなされており、小刀屋の例をみても、直接ではないにせよ、日本と海外はしっかり結びついていました。そのため今では江戸幕府の海外政策のことを「鎖国」という言葉は使わず、「海禁」政策と言うようになっています

■近代に蘇るルソン助左衛門
明治に入って、この海禁政策が解かれると、日本からフィリピンに向かって出稼ぎの移民が押し寄せるようになります。その数は太平洋戦争勃発までに5万人を超えたとか。これは東南アジアへ向けての移民の中でもずば抜けて多いものでした。

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▲独立不羈を誇りとする堺の冒険商人ルソン助左衛門は権力に利用されることを良しとしなかったのではないか。そんな想像もロマンチックすぎるでしょうか。
そして、日本が近代化に成功し、秀吉以来の海外への野心を膨らませるようになると、再び名前が知られるようになった人物がいます。
それがルソン助左衛門でした。南洋へ乗り出した冒険商人であるルソン助左衛門がこの時代にピックアップされたのは、南方へ進出したい日本政府の国策があったのではないかと、学芸員の矢内さんは推測されています。ルソン助左衛門は、海外へ進出するロールモデルとして利用されたのでしょう。
しかし、それは果たしてルソン助左衛門にとって本意なことだったでしょうか。豊臣秀吉に睨まれたルソン助左衛門は、危機をいち早く察知し、ルソンへと逃げ出します。自由の海へと旅立った彼はマニラで客死したとも、さらにカンボジアへ渡って再び財を成したともいわれています。
権力者におもねらない。自由を愛する堺商人のルソン助左衛門にとって、数百年後の権力に利用されるなんて、きっと馬鹿馬鹿しいことだったのではないでしょうか。
さて、堺とルソン(フィリピン)の関係を学んだ所で、現代のフィリピンはどんな国か、実際に行ってみました。次回から、フィリピン紀行のはじまりです。
参考文献
・堺市『アジアの海がはぐくむ堺』
・鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』中公新書
・早瀬晋三『未完のフィリピン革命と植民地化』山川出版社

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