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福助人形と福助人形展の謎に迫る!?

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ここ何年か堺市では年明けすぐに「新春まちなか福助人形展」というイベントが開催されています。堺市立町家歴史館山口家住宅をはじめとした複数の施設が会場となり、しだいに新春の風物詩として認知されつつあるイベントではないでしょうか。
つーる・ど・堺では、2017年度(2018年1月)の「新春まちなか福助人形展 笑門来福」の4会場をレポートしましたが、2つの疑問がむっくり首をもたげてきました。
そもそも福助人形ってなんなのか? そして、なぜ毎年堺で福助人形展が開催されるのか? 
その謎を追って、堺市役所の文化課を訪ねてみることにしました。

■諸説あり!! 実在の人物をモデルにした福助人形
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▲町家歴史館山口家住宅での雛壇展示。大きさも大小さまざま、造型もバラエティに富んだ福助人形の数々が展示されています。
文化課では担当の岡田さんと学芸員の松浦さんから話を伺うことが出来ました。さっそく福助人形って何なの? という疑問をぶつけてみます。
「福助人形は江戸中期から後期にかけて生まれたもので、モデルになった人がいるとされています。誰がモデルかは諸説あります。まず1つ目の説は、摂津国西成郡の農家に生まれた佐太郎さんがモデルという説。富を築き幸せな人生を送ったので、彼にあやかって姿を写した「叶福助(かのうふくすけ)」という土人形が作られ、文化元年(1804年)ごろに売り出されて流行したそうです。次に、京都にあった呉服屋「大文字屋」彦右衛門は一代で財を成し、貧しい人に施しをしました。そのお返しに貧しい人が彦右衛門さんの像を作ったのが福助人形の始まりという説。そして、近江国柏原のもぐさ商「亀屋左京」の番頭福助が商売を繁盛させたので、彼をモデルに京都・伏見の人形師が人形を作って売り出したという説。様々な説がありますが、いずれもモデルになった人は小柄で頭が大きな成功者だったことが共通しています」
共通している部分がありながら、三つの説のどれもが、それぞれ具体的でオリジナルな部分もあります。どれか一つをルーツに認定することは難しそうです。
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▲烏帽子をつけた福助人形。つややかで栄養状態も良さそう。かなりいいとこの子ですね。
ただいずれにせよ、発祥は上方からであり、時期は天明年間(1781年~89年)に牛(撫牛)の流行の後に流行したもの。伏見人形の窯元にさまざま福助人形の原型が残されていることや文献などから、伏見人形屋が創り出したものであろうとされています。
その後、徳川幕府の産業振興策として、伏見人形の職人は全国各地へ派遣され、全国で福助人形が作られるようになりました。各地の福助にはそれぞれ特徴があり、いわばご当地福助です。ひょっとしたら、現代でもあるご当地人形のはしりといえるかもしれせんね。
では次の疑問は、堺で福助人形展が開催されるのは何故なのか? やはり堺は昔から商業都市で商家が多かったからなのでしょうか?
「いえ、福助人形は商売に特に限っていたわけではありません。一般市民に広く愛されていて、子供向けのおもちゃにもなっているんですよ」
では、何故か? それは堺発祥のある企業の歴史が関係するのです。

■福助の名にあやかって
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▲町家歴史館清学院での展示。寺子屋として使われた清学院の教卓からかつての教室を見つめています。
それは1882年(明治15年)のこと。堺の辻本福松さんは、大町(現在の堺市堺区)に足袋装束店「丸福」を創業します。おそらく自らの名前福松から、一文字をとって縁起のいい丸をつけて「丸福」としたのでしょう。1892年(明治25年)には「丸福」を商標登録するのですが、これにまったがかかります。和歌山にあった「丸福足袋」が商標取り消しを求める訴訟を起こし、1899年(明治32年)福松さんの「丸福」はこれに敗訴します。
「丸福」を使えなくなった福松さんは困ったことでしょう。これを救ったのは、ある人形との出会いでした。
翌1900年(明治33年)の元日、福松さんの子の豊太郎さんは伊勢参宮の際に、古道具屋で一体の人形を見つけます。これが福助人形でした。この購入した福助人形にあやかり、1900年7月18日に商標を「福助堺足袋」と改めます。以後、福助の加護を祈念し、数々の福助人形の収集が始まりました。
福助の加護がどれほどだったかはわかりませんが、会社は成長して1964年(昭和39年)に「福助株式会社」に変更されます。そう、下着メーカーとしてお馴染みのフクスケです。
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▲明治後期、伏見で作られた福助人形。
しかし時代は移り変わるもの。2003年(平成15年)に経営悪化により、民事再生法の申請に伴い「福助株式会社」は倒産してしまうのです。ブランドを含めた一切を譲渡し、本社機能を堺市から東京都渋谷区へ移したのです。
「堺市には、受注センターの機能が残されていますが、もう一つ社名変更以来集めてきた福助人形のコレクションが堺市に寄贈されたのです。寄贈されたコレクションの数は約1700点にも及んでいました」
こうして、寄贈された膨大なコレクションを活用するために「福助人形展」は始まったのでした。これで、ようやく2つの謎が解けました。
■新春、笑う門には福来る
堺市にコレクションが寄贈されたのは、2004年(平成16年)のこと、最初の福助展は2009年(平成21年度)のことなので、すぐに展覧会が始まったわけではありませんでした。
「人形を研究されている田中正流先生に調査を依頼していて、材質・製作地・製作年などがわかったものから展示しているのです。なにしろ量も膨大ですし、人形だけでなく、郷土資料として湯のみ、とっくり、食器、おもちゃ、鈴、笛などの楽器と多岐に渡っているのです」
福助人形展が始まったのは2009年から、3回目の平成23年度からは、2012年(平成24年)の新年に「新春まちなか福助人形展」として開催されることになりました。
「福助はおめでたいということもあって、お正月に見るのに相応しいと、結構定着してきて、毎年楽しみにされている方もいます。展示するのは同じものもありますが、違うものも毎年出していますから、それを楽しみにされている方も。今年で9回目、新春でするようになってから7回目。毎年テーマを設定しているのですが、今年のテーマは『笑門来福』。笑う門には福来るです」
これは正月らしいテーマといえそうです。
「そうですね。お正月からおめでたい気分になって欲しくてこのテーマです。笑うという字には、花が咲く、蕾が開くという意味があるので、花柄の着物を着た作品もあります」
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▲さかい利晶の杜に展示されている福助人形とおふく。これは仲睦まじい夫婦っぽいかな。

展覧会の会場は5会場、点数も百数十点に及びます。せんとくんなどで有名な籔内佐斗司さんなど木彫りの作品もありますが、数が多いのは土人形です。
「焼き物なので、焼くと縮むため大きいものほど作るのが難しいです。顔などの模様も絵付けで描いているものと、眉などが盛り上がっていて形で模様をつけているものがありますが、形で模様をつける方が難しい。出来上がりをイメージして型を作るのが、焼き物の難しさでもあります」
福助人形を鑑賞する時は、ぜひそういった細かな所にも注目して見られてはいかがでしょうか。
注目ポイントは他にもあります。
男性の福助だけでなく、時折福助と一緒にいる女性の人形があるのですが、これは何者なのでしょう。
「名前はお福、お多福、オカメ、諸説あるのですがここでは名前は『おふく』としています。何者かも諸説あります。大体福助の方が小さくて、福助を背負っていたりするので福助の母親説がありますが、他にも夫婦説、愛人説と色々あるようです」
2体並んで同じポーズをとっている人形だと夫婦に見えますし、珍しくお福が福助にしなだれかかっているものは愛人にしか見えません。一体どんな関係の人形なのかを想像するのも楽しそうです。
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▲福助株式会社が今年作った戌年の年玉人形。

そして、戌年の新春ということで、犬を連れた福助にも注目です。
「福助株式会社さんから、毎年干支にちなんだ『年玉人形』が作られています。最新の平成30年の年玉人形も展示していますよ」
今年のものだけでなく、12年前のもの、24年前のもの、36年前のものと、過去の戌年の年玉人形も一堂に会している会場もあるようです。こうして福助株式会社の歴史と連れ添う福助人形と出会う事が出来るのも嬉しいことですが、堺市から本社が移っても毎年新しい福助人形が作られ、それが”故郷”の堺市に贈られていることも福助ファンにとっては嬉しいエピソードではないでしょうか。
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▲堺市役所文化課の岡田さんにチラシをもっていただきました。
「新春まちなか福助人形展」は2018年1月29日までです。

詳細は→こちら
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