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炎で海の神を暖める 奇祭やっさいほっさい(1)

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■やっさいほっさいを知ってますか? 
「泉州の奇祭やっさいほっさい」。 
その名前だけでいかにも奇祭というインパクトのあるこのお祭りは、戎様をお祀りした石津太神社(いわつたじんじゃ/堺市西区)で毎年12月14日に行われ、火渡り神事で知られています。 
なぜ、海の神様である戎様の神社で、修験道のイメージが強い火渡りを行うのでしょうか。 
 
それは、古事記や日本書紀にも登場する蛭子命(ヒルコノミコト)の故事によります。国生みをした二柱の神様イザナギとイザナミの子である蛭子命は生まれて3年たっても立つことが出来ず海に流されてしまいます。蛭子命を乗せた天磐樟船(アメノイワクスフネ)は海岸に漂着し、その地に五色の神石を置いたので石津(いしづ)と呼ばれるようになりました。石津の住人は、海を渡ってきて冷え切った蛭子命のために、108束の葦を集め篝火を焚いて身体を温めたのだそうです。 
石津太神社は、蛭子命と八重事代主命(ヤエコトシロヌシノミコト)を戎さんとしてお祀りしており、日本最古の戎社とされています。 
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▲石津太神社の本殿には、御神木が用意されていました。

 
やっさいほっさいの起源は意外にも新しく200年~250年ほど前、江戸時代の中頃になります。お祭りの正式名称は「冬季例大祭」で、通称の「やっさいほっさい」とは神事の際の掛け声で「108束」が訛ったものではないかと言われています。 
資料によれば、大阪湾を挟んで対岸にある西宮戎神社では、石津太神社の神事の火を見て迎え火を焚いたともあります。 
 
つーる・ど・堺では、すでに南区の上神谷に伝わる國神社/櫻井神社の神事である「こおどり」を取り上げています。こちらは、神鳳の降臨からはじまり、稲作と太陽への信仰を感じさせる神事でした。秋の「こおどり」と違って、冬の「やっさいほっさい」は海の神様の神事。さて、どんなお祭りなのでしょうか?  2016年に執り行われたお祭りのレポートです。
 
 
■2800本の御神木 
南海本線「石津川駅」からほど近く、住宅街の細い路地を抜けると石津太神社にたどり着きます。 
境内には戎さまのイラストをプリントした法被を着た保存会の方、氏子の皆さんが、すでに大勢集まっていました。受付をする方、ぜんざいの支度をする方、神事の準備をする方と、お祭りを前に慌ただしい様子です。 
 
13時を過ぎて、本殿の正面の鳥居をひとつ挟んだ向こうにあるとんど場に、宮司さんが姿を現しました。とんどをくみ上げる場に対してお祓いを行います。宮司さんは東西南北の四方から儀式を行い、その手から放たれた白い紙吹雪が風に舞いました。 
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▲とんど場を清める儀式が行われました。

 
風は弱く明るい陽射しですが、大気は冷え込んでいます。 
しばらくすると本殿から大量の御神木がとんど場に運ばれてきました。 
「(伝説にある)108束より多いですね」 
思わずもらすと、作業されている方から一言ありました。
「もっとあるよ。今年はたしか2800本あったかな」 
とんどに使われる御神木の一本一本には、奉納された方の芳名を記した紙がまかれています。 
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▲慎重に御神木を選び、とんどを組んでいきます。

 
一本の御神木の長さは50cmほどでしょうか。 
この御神木を井桁に組んでいくことから、とんど作りがスタートします。2段、3段と組み上げていくのですが、組む作業にも神経を使います。というのもこの御神木は、整形されておらず、太さも形もばらばらだからです。高さを調整しながら組みつつ、井桁の中には藁束や豆木を突っ込んでいきます。藁や豆木は火付けのためのものですが、とんどを支える芯の役割も果たしているようです。 
今ではこうした豆木もよそから入手していますが、作業を見守るご年配の方によると、昔は地元で簡単に手に入ったそうです。 
「豆木は、昔はそのへんの田んぼの畦なんかに植えてたもんだよ」 
もはや失われてしまった古い堺の風景から生まれた神事だったのですね。 
 
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▲とんどの井桁の間は隙間なく藁と豆木で埋められていきます。
40段ほどで人の頭を超える高さの塔になりました。もはや作業をするのには脚立が必要です。今度は塔の周囲四方にも御神木を拡張して組み上げていきます。真上から見下ろすと、丁度十字型を描く塔になります。二重目を上まで積み上げると、今度は更に幅を広げ角も埋めるようにして、3重目を組んでいきます。この頃には作業時間は1時間を越えていました。 
 
 
■お旅所祭 
本殿の方でも動きがありました。 
若い神主さんと、氏子の総代の方が玉串を手に姿を現したのです。 
2人を先頭に10名ほどの行列が境内を離れます。一行は「お旅所」で「お旅所祭」を行うのです。石津川の川岸にあるお旅所は、蛭子命が天磐樟船でたどり着いたとされる場所です。 
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▲石津川を一度渡り、一行は御旅所へ向かいます。
 
石津太神社からお旅所までは約1キロ。 
地元の生活道路を縫うようにして一行は進みます。南海本線の高架をくぐり、石津川沿いの道に出ると、幹線道路を越えるために橋を渡って迂回して川を下ります。一行は世間話や思い出話に花を咲かせて楽しげです。お勤めの方も多いであろう男性陣が、この機会にご近所同士でコミュニケーションを深めているようです。とんど作りもそうですが、お祭りというのは、こうした何気ない協働作業を通じてコミュニティを強化する役割を果たしているのだと実感されます。 
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▲御旅所で祝詞をあげ、玉串を捧げます。
 
お旅所は柳並木の間の小さな敷地にありました。 
普段は閉ざされている鉄柵の門を開けると、お社のようなものは無く、青空の下木々に囲まれてひと抱え以上はある岩が鎮座しています。お旅所は「磐山」と通称されているとのこと。神社が今のようにお社を作るようになったのは仏教の影響で、本来は自然の森や岩を信仰対象にしたといいますから、古い信仰の形を感じさせる聖地です。 
神主さんが岩の前に立つと、背後の氏子の皆さんも表情を引き締めます。祝詞をあげ、1人1人が玉串を岩に捧げていきます。 
 
こうして無事「お旅所祭」が終わりました。 
石津太神社に戻った頃には、すっかりととんどが組み上がっていました。 
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▲例年より高いとんどが出来上がりました。
 
後篇へ続く)
※読者からのご指摘があり、駅名と神社名の誤記を訂正いたしました。ご指摘ありがとうございました。

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