インタビュー

堺市博物館館長 須藤健一(2) 星の航海師

お気に入りという仏像と。
須藤健一
profile
堺市博物館館長。文化人類学・民族学研究の権威で、平成21年度から平成28年度まで、国立民族学博物館長を務める。
堺市博物館の専属館長に就任された須藤健一さんは、国立民族学博物館の館長を務めた方ですが、若き日にはオセアニアのミクロネシアで、母系社会の残る島へと向かい、そこで星と波と風で何千キロを航海する伝統航海術(スターナビゲーション)に出会いました。前篇では古代の航海術と、それをオセアニアに広めたハワイアンルネッサンスというムーブメントについても触れました。中篇では、須藤さんが次のフィールドワークの地でのお話から。そこで須藤さんは、日本とも関係のある現代社会の問題に出会います。
■地域の文化とグローバルな動きを先取りしていたポリネシア
1989年、ミクロネシアの島から、須藤さんはオーストリアのキャンベラの国立大学で客員として研究にあたります。文化人類学者の須藤さんは、そこで移民社会を知ります。
「キャンベラにはトンガやサモアからも移民が沢山来ていました。そこで家族の問題や、性に関する研究もした。(以前いたミクロネシアの)トラック諸島との比較研究もしました」
文化人類学というと、なんだか現代社会とは隔絶した古い伝統社会を研究する学問かと思ってしまいがちですが、現代社会の人々の生活と諸問題も研究対象なのです。
「トンガ王国の人口はわずか10万人。多くの国民が海外へ出て仕送りをして親に豊かな生活をさせていたりします。一方では男性が出稼ぎ先で『再婚する』ことも多く、トンガでは母子家庭が増えて社会問題となっていました」
移民先でのトンガ人の暮らしも楽なものではありませんでした。
「ハワイでのトンガ人移民の代表的な仕事は庭師なんですが、ホテルなどの大きな仕事は先行して移民していたフィリピン人に押さえられていた。だからトンガ人は、個人の家の園芸や道路の街路樹の伐採などをするしかなかった」
過酷で賃金も安い仕事に従事するトンガ人は、文化・習慣を移住先でも持ち続けていました。そのトンガ社会をまとめる中心的な機能を果たしていたものが教会でした。
「日曜日にはみんなトンガ教会に行く。トンガ人は『スドウ、教会へ行くことは、トンガ語を話し、トンガ料理を食べるので、田舎に帰ったのと同じことなんだよ』と言っていました」
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▲各地で活躍する太平洋からの移民たち。筆者がサンディエゴのフェスティバルで出会ったサモアの人たちは、サモアの苦難の歴史を伝統舞踏を交えてパフォーマンスで紹介。左はサンディエゴ在住のサモア人スタッフ。
小さなコミュニティと文化を維持しながら、トンガ人は外へ外へと出ていく。それは、まるで遠い過去に古代の航海術で海を渡り太平洋へ広がっていった衝動が、今もトンガ人たちを突き動かしているかのようです。その動きは、オーストラリアやアメリカなど近代国家にぶつかって、「移民」という現代的な状況を作り出しています。
「ローカルな社会があるのと同時に、グローバルな動きを先取りしているのもポリネシアの社会なんです」
トンガ王国の人口は10万人程度に対して、海外のトンガ移民の人口はその数倍にもなっています。小さなトンガでも、あるいはだからこそ、国境ではさえぎることが出来ない世界とのつながりがあるのですが、私たちの住む日本はどうなのでしょうか?
■日本企業も関わる森林伐採問題
須藤さんが関心を寄せるフィールドには、資源保護や資源利用といった分野もあります。
「ボルネオ島(インドネシアのカリマンタンやマレーシア)での森林伐採は問題となっていました」
ボルネオ島は世界で3番目に大きな島で、島を覆う亜熱帯林はアジアサイやオランウータンをはじめ、およそ地球上の生物種の5%が生息する生物多様性の宝庫とされています。この亜熱帯が、輸出用木材のために、乱伐や違法伐採が繰り返された結果、現在までに50%の森林が消えさってしまったといいます。さすがにこの地域での伐採は国が規制するようになると、森林伐採はよその地域へと移ります。
「1990年代になると、ソロモン諸島やニューギニアでの森林伐採が始まりました。これは中国系や日本企業も関わっています。森林業者は現地の人に約束をするんですよ。道や学校や診療所を作って伐採したところに植林もしますよと。しかし、森林業者は村から見えるところにしか植林をせず、わずか3年ほどで森は消え去って土石流でサンゴ礁も死んでしまうのです」
インフラは整えられても、土地使用代を払うなど約束は肝心のところが守られず、引き換えに現地の生活環境が破壊されてしまったのです。
「森林破壊をした森林業者は、他の島へと逃げて会社の名前を変えて(司法の手から逃れて)しまう。ソロモン諸島のガタルカナル島は、太平洋戦争の時はガ島と呼ばれて、日本軍と米軍が激戦をした島ですが、大きな島です。森林資源を有効に使えばいいのに」
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▲国立民族学博物館(みんぱく)に展示されているソロモン諸島のカヌーの船首飾りが、現地の独特で美しい文化を伝えてくれる。
こんな悪質な森林業者をのさばらせておくしかないのでしょうか。
「オランダやオーストラリアなどのNGOが、現地の人たちに自分たちの生活や環境を守るための教育プログラムを行っています。しかし、現地では森林の所有者と森林業者とのあいだで今でも裁判ばかり」
この森林破壊・生活破壊に、間接的にでも日本は関与しています。須藤さんにも、複雑な思いがあったのでしょう。
「本当なら私ももっとアクティビスト(活動家)として活動したかった。しかし、簡単に日本を離れなくなってしまった」
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▲堺市博物館館長須藤健一さん。現地でのフィールドワークを志向するも、裏方でも活躍をしてしまい、神戸大学の学部長や博物館の館長を務めることに。

長らく海外の現場で活躍してきた須藤さんでした。文献だけを基に研究するのではなく、自分で現地に足を運んでフィールドワークをもとに研究するのが須藤さんの主義でした。
「私の研究は、現地に入って、現地の人と話をして、その社会のあり方を理解して記述する形。足で稼ぎ、目で見て、頭で考えてというたちだった」
しかし、周囲は須藤さんにそれを許さなくなってしまったのです。
■大学の国際交流に尽力
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▲神戸のまちを見下ろす神戸大学の国際文化学部のキャンパス。(写真提供:林)
1993年に須藤さんは神戸大学国際文化学部の教授となります。
「神戸大学で授業することになり、長期間海外に出られなくなってしまった。サタワル島にも行きたかったんだけど、船便が2か月に一度しかないから一度行くと2か月帰ってこれない。とてもそんな時間はとれなかった」
神戸大学で須藤さんが取り掛かったのは、それだけ精力を傾けなければならないことでした。
「神戸大学はそれまでの教養部を、1990年代に文部省の大学改編方針に従って一つの専門の学部に改組した。それが国際交流を目指した国際文化学部で、海外へ学生を送って、海外から学生を呼ぶ。そういう目的の学部になったんです」
ところが、思わぬことを須藤さんは知ります。
「ある日、学生が私の所に来て『神戸大学は詐欺だ』と言うんです。驚いて、なんのことかというと、国際文化学部は留学が出来るという触れ込みだったのに、留学先がないじゃないかと。神戸大学は国際文化学部を作ったものの、留学生をやりとりする海外の協定大学が無かったんです」
これはいけないと、須藤さんは国際交流委員長として、協定大学になってくれる海外の大学を捜します。その結果、
「イギリスのシェフィールド大学、オーストラリアのカーティン工科大学に、中国の人民大学など10余校と協定を結びました」
やれやれと肩の荷を下ろしたいところでしたが、この活躍が評価されたため、須藤さんは評議員や学部長まで務めることになってしまいます。そして、現在では国際文化学部では16か国の28大学が協定大学となっています。

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▲神戸大学国際文化学部の留学生の方にお話を伺うと、「神戸大学はかなり自由に研究できますし、留学生には授業料免除申請もあって、沢山支援をしてもらっています。(神戸大学で)良かった」、そして「景色も綺麗。神戸の絶景が見れる」と好評でした。(写真提供:林)
実力を発揮するほどに、不本意ながらフィールドワークの現場から離れることとなった須藤さんですが、次の職場も現場からは遠く離れた博物館でした。須藤さんは、「みんぱく」の愛称で知られる、古巣の国立民族学博物館の館長に就任したのです。
そして「みんぱく」も、また須藤さんが立ち向かわなければならない問題を抱えていたのでした。
(後篇へ)
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