インタビュー

堺市博物館館長 須藤健一(1) 星の航海師

須藤健一さん

須藤健一
profile
堺市博物館館長。文化人類学・民族学研究の権威で、平成21年度から平成28年度まで、国立民族学博物館長を務める。
ここ3年間観光局長が兼任していた堺市博物館の館長に、久しぶりに専属の館長が就任しました。六代目館長になった須藤健一さんは、あの国立民族学博物館(通称:みんぱく)の館長を長年務められていました。
「みんぱく」といえば、関西の博物館好きなら一度は行ったことがある博物館。トーテムポールや不思議な仮面、世界中のエキゾチックな品々が展示されていて、子供心をときめかすスポットです。須藤さんは、中でも人気のある展示・オセアニアの巨大カヌーと関係深い研究者です。
まずは、須藤さんの文化人類学者としての出発点である、ミクロネシアでの冒険から話をお聞きしました。
■スターナビゲーターとの出会い
須藤さんがミクロネシアに興味を持ったのは、意外にも海や航海ではありませんでした。
「大学院時代に、日本の家父長制度に対して、母系社会に関心を持ったんです。日本に近いアジア太平洋地域で母系社会が存在するのは台湾とミクロネシアだけだったので、当時のトラック諸島(現チューク諸島)とサワワル島へ入って調査することにしました」
須藤さんが、はじめて中央カロリン諸島のサタワル島へ向かったのは1978年のことでした。みんぱくの助手の時です。
「日本からグアムへ飛行機で3時間。グアムからヤップ島へは1時間40分。そこから1000キロ離れているサタワル島へは船上10泊、2~3か月に1度しか出ない船旅です」
ミクロネシアでは、コプラというココヤシの胚乳を乾燥させたものが唯一の輸出品です。途中の島々で、ひとつの島で丸1日かけてコプラの積みこみをしながら行く気の長い船旅でした。
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▲国立民族学博物館(みんぱく)で展示されているミクロネシア マーシャル諸島の海図。航海師たちの頭の中に海図は入っているので、航海の荷物に積み込むことありません。

そうしてたどり着いたサタワル島はわずか周囲6㎞の島でしたが、母系社会というだけでなく太平洋でほぼ唯一古代の航海術を今に伝える島だったのです。
太平洋の島々の住人たちは、かつて古代の航海術を駆使して何千キロも離れた島々に旅して、太平洋中に広がっていったのでした。
「古代の航海術で大切なのは、星と風と海流なんです。彼らには星座コンパスというものがあって、1年のある時期に出る星の位置を当てはめて32方位のコンパスを作っている。北は北極星、南は南中時の南十字星座。そして東は4月に上がってくるアルタイル、日本で言う彦星です。彼らは星座の名前で方位を呼んでいる。ただ東といってもぴったり北極星から90度ではなく、非常に曖昧な非科学的なコンパスなんだけれど、それで方位と海上の位置を知ることができる」
星が見えない昼間や曇りの日はどうするのかというと、それは海流(うねり)で方位をわりだしているのです。
「太平洋には北東の貿易風がアメリカ大陸から一年中吹いていて海流も東から西流している。航海師は、カヌーを走らせて、波がカヌーのどこにあたるかで方位がわかるんです。ベテランになると、カヌーの上で寝ていてもわかる。彼らによると波には6つの種類があるそうです」
魔法めいた話ですが、この古代からの伝統航海術の実用性は、いくつかの実験航海で証明されています。
1975年の沖縄海洋博の際にサタワル島から沖縄まで、アウトリガーカヌー・チェチェメニ号が伝統航海術で3000kmの大海原を航海したのもその一つ。このチェチェメニ号は、1977年に開館した国立民族学博物館に引き取られ、今でもその雄姿をオセアニア展示場に見せてくれています。
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▲みんぱく展示場の入り口入ってすぐのオセアニアゾーンで来場者を迎えてくれるチェチェメニ号。シンボル的な展示物といえるだろう。
「現地に行ってみると、(伝統航海術は)意外にも研究されていなかった。私はのべ15か月間サタワルに滞在して、80年代まではミクロネシアの調査を続けました」
須藤さんの調査したデータは、論文にまとめられただけでなく、チェチェメニ号と一緒にみんぱくの展示にも生かされています。
■ハワイアンルネッサンス
チェチェメニ号の航海の翌年に、この伝統航海術で大洋を渡り、今も現役で活躍しているカヌーがあります。それはホクレア号(ハワイ語で喜びの星の意味)。このホクレア号の誕生には、ハワイアンルネッサンスというムーブメントが背景にあります。
当時アメリカは建国200年祭を控えていたのですが、ハワイの人々にとってそれは1983年にハワイ王国を転覆され、1898年のアメリカ併合以降、ハワイ語、伝統の宗教や文化を奪われた歴史でもありました。神像を作ることも禁止されたハワイでは、併合以前と以後では文化もまるで様変わりしており、かつてのハワイ文化を復興する「ハワイルネッサンス」運動が沸き起こったのです。
それはひとりハワイ人だけのものではありませんでした。ハワイということばは「ポリネシアの源郷」という言いです。そのハワイの人々の祖先は1000年前にタヒチから移住したという伝承があります。
しかし、タヒチからハワイの距離は4400km。その距離を本当にカヌーで渡り得たのだろうか? そんな疑問に、ハワイアンは果敢に挑んだのです。古代の航海術の有用性を証明することは、ハワイのみならず太平洋の海の民の誇りを証明することでした。

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▲堺市博物館館長須藤健一さん。何十年前のことでも年数なども淀みなく答えられ、さすが学者さん、博物館の館長さんでした。
1973年にハワイの人々が中心となって「ポリネシア航海協会」が設立され、1975年に双胴のカヌー「ホクレア号」が建造されます。しかし、タヒチでもハワイでも、古代の航海術は数百年も前に失われていました。
「唯一古代の航海技術が残っていたのがサタワル島と、周辺のもう一島のみ。サタワルには8人の著名な航海師がいて、そのうちのマウ・ピアイルク(Mau・Piailug)が航海師として、ホクレア号の航海を導くことになったのです」
しかし、名航海師ピアイルクにとっても、この航海は容易なものではありませんでした。
「サタワル島は赤道に近い北緯7度、それに対してハワイは24度。星の出る時期や航海にもちいる星座が全然違ったわけです。そこで、航海を前にハワイのパウアヒ・ビショップミュージアムのプラネタリウムに入ってピアイルクは自分の知る星と、航海に出発する5月から6月のハワイの星を比べたのです」
準備を整えたピアイルクとホクレア号は、ハワイ人をキャプテンに若いハワイの男たちを連れてタヒチへの航海に出発しました。ホクレア号は1976年の5月~6月に33日の航海で見事にタヒチに到着し、先住タヒチ人の5割に匹敵する2万人がパペーテの港に集まっての大歓迎で迎えられたのでした。

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▲みんぱくにはハワイアンルネッサンスなど先住民の文化運動を伝える展示もありました。ホクレア号の活躍や在りし日のピアイルク航海士の写真も掲示されています。
こうして、100年前に祖先がなしとげたタヒチとハワイ間の航海が可能であることは証明されたのですが、その後悲劇が訪れます。
「ピアイルクは、自分の航海術を帰路タヒチからハワイへの航海で若者に伝えるつもりでいました。しかし、往路で若いクルーが船長の命令に服従しないという事件が起きた。それはシーマンシップに反することで、ピアイルクには我慢ならないことだった。怒って彼はサタワルに帰ってしまったんだ。だからハワイ人に航海術は伝わらなかった」
その後、1978年にハワイ人だけでホクレア号のタヒチへの航海を試みたのですが、転覆事故を起こしクルーの1人を失ってしまいます。
「親友だったクルーを失ったナイノア・トンプソンという男が、サタワルから航海して滞在していたサイパン島までやってきてピアイルクに航海術の伝授を頼み込んだんです」
それは丁度、須藤さんもサタワルで調査中で、ピアイルクから航海の体験を聞いていた頃のことでした。
「ピアイルクがサイパン島から帰り『スドウ、俺はハワイの秀れた若者に頼まれたのでいかなければならない』と言いました。彼は再びハワイへ向かい、ハワイ人に航海術を教えたのです」
ピアイルクから伝統航海術を伝授されたトンプソンたちは、80年に再度タヒチへの航海を試み見事に成功させます。そして、ピアイルクからトンプソンたちが受け継いだ航海術は、星の航海術(スターナビゲーション)と呼ばれるようになりました。
■日本にも来たホクレア号
「言語学的に見ると台湾の原住民が太平洋に広がっていたのですが、海流と貿易風の向きは東から西なので、逆向きです。ヨーロッパの科学者からはそんなことができるはずないと言われていましたが、ホクレア号の航海でオセアニアの高い航海技術が証明されました。台湾の原住民は、フィリピンなどに移り住み、今から3300年前にタロイモと犬と鶏と豚の家畜と土器などの新石器文化をたずさえてニューギニアの北の島々へ渡り、太平洋へと拡散し定住したのです」
ホクレア号は、ハワイからタヒチだけでなく、ニュージーランドやイースター島などポリネシアの島々への実験航海を成功させました。ポリネシアの人々が大洋を渡り、島々に定住したことを実証したのです。
大きな役割を果たしたホクレア号は、博物館に収まったチェチェメニ号と違って大海原を航海し続けました。それはたとえば小学生たちを船に乗せ、海と自然と人の関係を知る海洋教育でした。自然のエネルギーを使い、海と一体になれる技術を子供たちに教えたのです。現代文明の行き詰まりや破綻があちこちで噴き出す現代で、ホクレア号の航海は意義のあるものでした。
実はホクレア号は2007年には日本にも来ています。ハワイの日系人の故郷、原爆が投下された広島と長崎などを訪れるためです。また、
「当時、宇和島水産高校の練習船えひめ丸が米国海軍の潜水艦と衝突されて亡くなったと言う事故の記憶もあって、ハワイ人は日本人に同情的だったんです」
さらにホクレア号は2014年、太平洋を飛び出して世界一周の航海にも旅立ちます。世界の子どもたちに、海と共に生きることを知ってもらうためです。
「太平洋からインド洋。ヨーロッパを巡り、大西洋を横断してブラジルへ。そこからパナマ運河を通って再び太平洋へ。2017年6月に、3年間で28カ国の国を訪れ、世界一周をやりとげたのです」
太平洋の島々に渡って現地で調査を続けていたのが若き日の須藤さんでしたが、その後違うフィールドへと向かいます。それは日本も含めた現代社会の深刻な問題と向き合うことでした。
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