ハンラクのヒーロー 阪田三吉(3) Leveler

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明治時代の将棋界は、江戸時代の家元制が崩れ混迷の時代だったようです。家元でない最初の名人・小野五平も品格や名声で選ばれた側面がありました。小野の就位に一時は果たし状を送り付けたのが阪田三吉のライバル・関根金次郎でした。小野の死後、東京の関根金次郎と大阪の阪田三吉のどちらが名人に就位するか、世間は注目しましたが、これも実力で決まったわけではありませんでした。阪田はそもそも名人になる気持ちはなく、すんなり関根に決まりました。世間から見れば肩透かしだったでしょう。
しかし、関根が名人となって4年後の1925年、突然大阪の支援者たちの後押しを受けて阪田が名人を名乗ったのです。
(→前篇中篇
東西に名人が並立する異様な事態。当時は関根を中心に将棋組織が一本化しつつあり、1924年に「東京将棋連盟」が発足しています。当然、東京将棋連盟は阪田の就位を認めませんでした。
東西対立で語られることもある阪田の名人就位騒動ですが、もっと根深く阪田の土台、明治時代に見捨てられた人々の姿が背景にあるように思えてくるのです。ここで再び、生まれ故郷の塩穴に目を向けてみましょう。
■差別と闘う人たちを支えた堺・舳松
阪田三吉の生まれ故郷は堺の舳松村の塩穴。江戸時代に持っていた独占的に牛馬の死体を扱える草場権を失い、免税権も失い、警察権に伴う権威も失って差別と貧困が残った村でした。そこは傘を全開にできなくて、半分に開くのがやっとで「はんらく」と呼ばれた狭い路地に密集するあばら家で、雨が降れば雨漏りで眠ることが出来ない劣悪な環境でした。
貧しい、汚い、学がない……すべて近代になってから政治的な不備によって生み出された、放置された差別だといえます。
先祖からの仕事を失った舳松の住人は、就職でも苦労しました。舳松周辺には近代的な工場も建てられたのですが、舳松出身者というだけで最初からリストに×がついていて、門前払いでした。
そんな中で、差別と闘うために1920年に泉野利喜蔵ら舳松の若者によって「一誠会」が生まれます。会では教育学や社会学の本を読む勉強会を開いて互いに学びました。1922年(大正11年)には、利喜蔵も係って全国水平社が結成され、同年に舳松水平社が結成されます。
水平社の闘いは環境改善や教育など多岐に渡りましたが、就職においては門前払いはやめてほしい、スタートラインを一緒にしてほしいという要求でした。
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▲人権ふれあいセンター近くにある中川家の新工場跡。工場では一誠会の勉強会を開くなど活動の拠点にしていた。
水平社の運動の中で、堺の舳松の果たした影響は大きなものだったといいます。
会議や演説会のために場所を提供し、食事や宿・活動資金を援助したりといった舳松の援助がなければ水平社運動も違った歴史をたどったことでしょう。あの「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光りあれ」の『水平社宣言』起草で知られる奈良の西光万吉も舳松を「第二のふるさと」と呼んでいるとか。
この西光の書いた戯曲「浄火」は舳松が舞台で、阪田三吉の愛称「三んきい」が記載されています。阪田の胸のすくような活躍は、舳松だけでなく全国の被差別部落の人々にとって、心の支えになるようなニュースでした。差別をはねのけて巨大な権威と闘う阪田の存在は、まるで自分たち自身のように思えて元気をもらえたに違いありません。
阪田三吉も、後の復帰戦となる名人への挑戦者を決めるリーグ戦で東京遠征をする際には、水平社の松本治一郎に介添えを頼んでおり、松本は丸三日間阪田のそばで無言の激励を送りました。
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▲新しくなった人権ふれあいセンターの壁に移設された巨大な水平社宣言のプレート。

そのようにして同胞たちが水平社運動を盛り上げたことと、阪田三吉の名人就位は関係があったようにも思えるのです。
そもそも、関根の名人就位は、無学な阪田三吉の人の良さにつけこんだもので、実力で上回るとされた阪田に対して関根の血筋の良さを言うのであれば、それは差別意識の言い換えに過ぎないものです。実力が上回る阪田が準名人に甘んじることは、故郷や全国で不当な扱いと闘う同胞たちにネガティブなメッセージを送ることになるかもしれないと、阪田はどこかで思ったのではないでしょうか。
推測に過ぎないけれど、阪田が関根に名人位を譲った1921年の翌年の1922年に全国水平社が創立されたことは、阪田の心境に影響を与え、その数年後の名人就位につながったのかもしれないのではないか。
一方、1927年には関根の「東京将棋連盟」と大阪の木見金治郎の「棋正会」が1つになって「日本将棋連盟」が創立されます。「日本将棋連盟」は阪田の名人位を認めず、同年には妻コユウも死去します。公私ともに阪田は取り残された存在となります。
そしてこの後、将棋の表舞台から姿を消した阪田の沈黙は13年の長きにわたることになります。
■伝説の端歩付き
阪田三吉を将棋界に再登場させたのは、皮肉にも関根による名人制度の改革でした。八段を持つ棋士リーグ戦による第一期名人戦がはじまったのです。
阪田三吉は自らの名人位を返上し、名人リーグの番外戦に参戦します。第一戦の相手は、31才と脂の乗り切った木村義雄八段。対する阪田三吉は67才の老兵で、しかも実戦から13年も遠ざかっています。この過去の男が、しかし世間を驚愕させるのです。
京都南禅寺での対局。阪田の初手は9四歩。
これが驚愕の一手、端歩突きでした。将棋の定跡ではありえない、一手損をする手でした。
この一手を新聞で知った大阪の作家・織田作之助は、「阪田はやったぞ。阪田はやったぞ」と呟きました(『聴雨』より)。ですが、対戦自体は、木村の勝利となります。
翌月、今度は花田長太郎八段(39才)との対戦となり、この時は初手1四歩と再び端歩をつきますが、敗戦します。
はたしてこの2回の端歩はなんだったのか。阪田自身が何も語っていないために、将棋界最大のミステリーとして残されることなりました。気鋭の木村・花田にはかなわぬと思っての、自暴自棄の一手、奇手奇策……そんな風に見なされもしました。しかし、将棋に対して誠実で美意識の強い阪田三吉がそんな事を自らに許すでしょうか。やはり、老いてなお将棋の可能性を広げるような革命的な一手をこの大切な一戦で試みた。そんな挑戦者で阪田三吉はあったように思います。事実、現在では初手に端歩をつくこともあるそうで、阪田の挑戦が将棋の可能性を広げた証でしょう。
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▲阪田三吉記念室に掲げられたパネルは端歩つきを表している。
次いで阪田三吉は第二期名人戦に参戦し、この時は名人にこそなれませんでしたが、7勝8敗の総合4位となります。70才を迎えてなお、現役の棋士であることを証明したのです。
その後、晩年の阪田の生活は貧しいものだったそうですが、将棋界からの援助も断ったといいます。1946年の3月12日に、終生のライバルだった関根金次郎が死去し、その後7月23日に阪田三吉も没します。食あたりから寝込み、三女の美代さんに看取られながら苦しむこともなく静かに息を引き取ったのだそうです。
死後、阪田自身が予言したように、阪田三吉を主役にした舞台や映画や演歌が作られ、大ヒット作となります。しかし、それらは虚像の粗野で無学な阪田三吉は実像とはかけ離れたものでした。
今回は実像の阪田を生い立ちから追ってみました。この多彩な表情を持つ人物の一端しか描けなかったのですが、それでも将棋界に収まりきらない大きな業績を残した人物だとわかります。
比肩する人物として思い浮かべることができるのは、個人的には、たとえばモハメッド・アリです。モハメッド・アリは、アメリカのボクシング界を「蝶のように舞い、蜂のように刺す」革命的なスタイルで席捲しただけでなく、社会的弱者の黒人のために立ち上がり、正義無きベトナム戦争には加担しないと懲役を拒否してチャンピオンをはく奪され、老いたのちの復帰戦でも奇跡を見せました。ジャンルの中での業績と革命性、弱者に寄り添って権力と闘い、老いにも挑戦し、時代のアイコンとなったこと……。モハメッド・アリがアメリカ貧民街のヒーローなら、阪田三吉ははんらく生まれのヒーローではないでしょうか。
■ハンラクは無くなった
舳松村塩穴の差別の歴史は中世から続くものでしたし、近代に入ってからも根深く残っているものでしたが、堺には珍しい文言が残っています。
それは阪田三吉が誕生して一年後に出た「四民平等」の太政官布告「解放令」を受けて、各地で出された口達です。当時の堺県で出された口達には、「差別なく」という文言が入っており、他でそのような文言は見当たらないそうです。
なぜ堺でだけ、一言とはいえ差別と闘う文言が盛り込まれたのか。舳松人権歴史館の職員の方に、個人的な見解で構わないので、としてお聞きしたところ。
「堺は南蛮貿易など国際的な貿易港としての歴史があり、異質な存在になれていたんだと思います」
つまり、多様性(ダイバーシティ)が反差別の精神の土壌になっていたというのです。たえず海外から新奇なものがもたらされ、それが富を生んできた堺では、珍しいもの、変わったものは良いものという意識が根底にあり、異質なものへの受容性は高い傾向にあるように思います。また、長く自治独立都市であった歴史も、身分制度への反発の空気を生んでいるのかもしれません。
「堺は早くから人権宣言都市を名乗っていて、歴代の市長さんも人権問題への取り組みに熱心な方が多かったのです」
と、職員の方は付け加えました。
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▲舳松人権歴史館に展示されている「解放令」の堺県口達。原稿用紙中央から右二行目に「差別なく」の文言がある。
社会全体として差別は根強くある一方で、内外に差別と闘う人々がいて、阪田三吉や泉野利喜蔵の後継者たちの闘いは舳松村が協和町となった戦後も続きました。
「協和町の周囲には色んな企業の工場が多くありましたが、近隣の工場に就職する人はあまりいなかったんです。就職差別を解消しようとする中で、たとえばフクスケさんやミノルタさんは、早くから理解がある企業でした。いまではようやく近隣の企業への就職も見られるようになりました」
人権歴史館の啓発コーナーを見ると、2010年頃から就職差別などの認知件数が一見減っているようですが、21世紀になってようやくか、それでもまだあるのか、ということに複雑な思いを抱きます。
「最近はネットでのヘイトスピーチもあって、新しい問題になっています」
また、結婚差別など表に出にくい差別はそもそも実態が把握されづらい差別もあります。データは一面のデータでしかなく、目に見えない差別、より分かりづらくなった差別がどれだけあるのかを私たちは把握できないでいます。私たちの社会は、果たして差別の解消に向かっているといえるのでしょうか。
人権歴史館を出て、阪田三吉の生まれ故郷がどのように変わったのかも案内してもらいました。
同和対策事業によって、「はんらく」は姿を消し、市営住宅に生まれ変わっています。
住宅地の中には阪田三吉の顕彰碑があり、十五世名人大山康晴の名が刻まれています。この大山には、阪田三吉との思い出が残されています。
まだ大山が若いころ、対戦の記録係の仕事をよくおおせつかったのだといいます。その報酬は安いもので、対戦が長引くと食事代で足が出るようなものでした。しかし、阪田三吉の対戦の時だけは違ったのだといいます。
「……昭和12年に初段になった私は、何度か記録係をさせていただいた。その都度、「5円」を小使いに、と云って下さったのである」と大山は書き残しています。当時の「5円」はうどんなら70杯、カレーなら50皿は食べられることが出来るほどの金額でした。
貧しいものへの気遣いや、優しさを阪田三吉はずっと持ち続けていたようでした。
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▲名人大山康晴の書による阪田三吉顕彰碑。大山にとって若いころに受けた阪田からの優しさは忘れられない思い出だった。
阪田は弱いものへ慈しみのまなざしを向ける人でした。
ちょっと不思議なものを好きだと言い残しています。それは「赤ん坊の泣き声」なのだとか。赤ん坊の泣き声を聞くと、「自然に心が聖(ママ)まる。何だかよい気持ちになる」。それはまるで目の不自由な方が、暗いところから明るいところにでて、その見えない目で光を見た時のような気持ちなのだと。それは赤ん坊の泣き声には混り気がないからだろう。将棋に負けても、その負け方が自然で、うまい負け方をしている時の朗らかな気持ちで、それが赤ん坊の泣き声に似ているのだと。
阪田三吉が将棋を覚えたのは、このまちがまだハンラクで、小さな妹たちのいる少年時代でした。赤ん坊の泣き声をきくたびに、阪田三吉は「さんきい」と呼ばれたハンラクの少年時代に戻っているのではないか。そんな風にも思うのでした。
これで堺と阪田三吉を巡るお話は終わり……のつもりだったのですが、舳松人権歴史館のある人権ふれあいセンターで、阪田の孫弟子にあたる若松政和棋士の講演会が開かれることを知りました。これは取材をしないわけにはいきません。そして、そこで若松棋士だけでなく、阪田ゆかりのある方とお会いすることもできたのです。その方は、読み書きが苦手だった阪田が名人として出した立派な免状に関係の深い方でした。
新たな稿にお話は続きます。
舳松人権歴史館

堺区協和町2丁61-1
(人権ふれあいセンター内)

入館料 無料
開館時間 午前9時30分から午後6時30分
休館日 月曜日(祝休日は開館)・年末年始
※参考文献
『反骨の棋士 阪田三吉 その栄光と苦難の道』/舳松歴史資料館
『さんきい物語 へのまつ村の阪田三吉』/部落解放堺地区舳松歴史・文化を守る会 舳松歴史資料館
『棋神 阪田三吉』/中村浩(講談社)

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