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堺で知る原爆と被爆者の今「堺原爆展」(2)

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広島と長崎で暮らす市民の頭上で原子爆弾がさく裂し、何十万の命が奪われ、日常が破壊されてから72年たった夏。堺原爆被害者の会の主催で、「第9回堺原爆展」が開催されることになりました。
前篇では記者会見での発表を中心にお届けしましたが、後編では会長の中谷好文さんと、堺原爆被害者二世の会副会長の片岡文子さん2人の個人と家族の物語から始めます。
■原爆ぶらぶら病と被爆者差別
中谷さんは昭和20年4月生まれで、8月9日に被爆した時は4か月未満の赤ん坊でした。和歌山出身の父・楠市さんは、徴用され長崎で働いていました。
「父は直接の怪我はしていないんです。列になっている時に丁度建物か木の影になっている時に原爆にあった。列の前を歩いていた人と後ろを歩いてた人は亡くなったそうです。父は顔が熱かったとだけ。でも一歩間違えれば父も死んでいた」
一方、兄の中谷進さんは、長崎県立大学の校庭で被爆したそうです。
「父から聞いていることも、兄から聞いていることもそれだけです。私と一緒に被爆した母からは何も聞かされていません。お袋は『被爆者であることは言うな』とだけ」
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▲堺原爆被害者の会会長中谷好文さん。何も語らない兄・進さんでしたが、和歌山に被爆体験を語った記録が残されていることを、中谷さんは兄の死後知りました。
年の離れた兄、進さんは、なかなか仕事が長続きしない人でした。中学生になった中谷さんは、そんな兄に対して馬鹿にした言葉を投げつけたといいます。
「根性ないな。じきに仕事をやめるやんと兄を責めた。今はとても後悔しています。兄は肝硬変から肝臓がんになって、60代で死んでしまった。被爆して内臓を損傷していた兄は、体を動かすのもしんどくて根気も続かなかった。仕事に行っても、休んだり辞めてしまう。それを繰り返してしまう。見た目は何もないけど、ぶらぶらしている。中学生だった私はそんなことがわからなかった」
進さんと同様に、被爆して外からわからない内臓疾患などの被害から仕事が続かずにいる人たちのことを、周囲は怠け者と責め、原爆ぶらぶら病というようになりました。
「他にも20代前半の人が元気でいたのに、突然亡くなることもありました。白血病などが原因です。それは就職差別にもつながりました。被爆者はいつ死ぬかわからない。大事な仕事を任したらあかん。採用したらあかんと言われたのです」
被爆の苦しみに加え、後遺症の苦しみ、周囲の不理解による差別の苦しみ、そこから貧困の苦しみも重なったことでしょう。多重の苦しみの中に被爆者はいました。
「被爆者健康手帳ができた時も、取りに行かない人も多かった。被爆者と証明されてしまうと、色んな差別に合うから。後になって医療費の助成を受けることも出来るようになったけど、はじめのころは何もなかった。何もなくて差別だけがあるのだから、被爆者健康手帳を取りに行くなんてアホだけやなんて言われた」
昭和40年に堺原爆被害者の会が出来た頃も、差別は根強くありました。
「会員の中でも、郵便物を送ってくれるな。電話をかけてくれるな。会費だけは払うからと。被爆者であることは家族の者にも言ってないんだと」
前篇でも書いたように、堺原爆被害者の会は、広島と長崎から一字ずつとって、堺広長会という別名を作り、郵便物などは堺広長会の名で送るようにしていました。
「郵便物を送ってくれるな、家族にも言っていないというのは、特に女性が多かった」
それは、被爆の影響が次の世代に受け継がれる可能性があるから。たとえそうでなくとも、不安を拭い去ることは困難です。それは、堺原爆被害者二世の会の片岡さんの半生からも窺えました。
■時を越えて蘇る地獄 
片岡さんは被爆二世。中谷さんと同じように、被爆した父から聞いている話はわずかなものでした。
「小さい頃から、原爆におうてるねんという話は聞いてましたが、具体的な話は何も聞いてませんでした。でも、原爆資料館に行ったり、毎年記念式典をテレビで観たり、折あるごとにそういう話をして、そういう自覚を持てという感じはあった。原爆はあかん。戦争はあかんという、そこだけ」
そんな片岡さんが聞いたわずかな話からまとめると、父の被爆は以下のようでした。
父の白川豊昭さんは、岸和田出身の昭和2年生まれ。原爆投下の時は18才で、長崎から10キロ離れた川南造船所で働いていました。
「そこで仲間と一緒に長崎であがる原子雲を見て、翌日に救援に行けと言われて行った。いわゆる入市被爆です」
片岡さんが父から聞いた被爆一日後の長崎の様子は恐ろしいものでした。
「周辺から中心に向かっていくと、泣きわめいている声の地獄がある。そして中心部には人が居ない。沈黙の地獄やったと」
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▲堺原爆被爆者二世の会副会長の片岡文子さん。
終戦後もしばらく豊昭さんは実家に帰ってこず、死んだと思われていたそうです。その後、無事帰郷し、結婚して子供が出来ても、被爆の体験が頭から離れることはありませんでした。
「私の妹が小さいころ鼻血を良く出したんです。子供なんだから良くあることなんだけれど、被爆の影響なんじゃないかと心配したりしました。私も腰のあたりにあざがあって、年をとってあざが盛り上がってきて、皮膚がんの心配がありました。その時に思ったのが、親が生きているうちに死んだら、自分のせいと思うやろうから、絶対にこれで死ねない。疑いを持った時に思ったのはそれ。親が傷つく」
幸いにも、片岡さんのあざは皮膚がんではありませんでした。
「父とは一度だけ長崎の原爆資料館へ行きました。年をとって、これで最後だろうと。私の息子も連れて一緒に。父は展示を見た瞬間、ものすごい匂いを感じたそうです。まわりの人は匂いなんてしないと言いました。きっと父には、何十年もたって入市した時の被爆地の匂いが蘇ったんでしょう」
泣きわめく地獄と沈黙の地獄の匂いを、豊昭さんの身体は忘れていなかったのです。
多くを語らなかった豊昭さんですが、原爆資料館訪問の際には自らの体験を書き残して持って行っていたそうです。片岡さんが父の被爆体験を知ったのはそれがはじめてでした。
「被爆体験の話はしてくれなかった父ですが、二世の会を立ち上げて原爆展をする時は、そっちへ行けと言いました。いつ死んでもええねんというような生き方でをしていた父でしたが、88才まで生きて2年前に亡くなりました」
■メリットはなく差別だけあった被爆者健康手帳
中谷さんは、薄紅色の被爆者健康手帳を見せてくれました。
「昔は被爆者一般手帳と特別手帳の二種類がありました。特別手帳は2キロ圏内で、一般手帳は入市被爆とか距離が遠い人に与えられるものでした。ただ、当時はなんのメリットもなく、被爆者への差別だけがあるのだから、手帳を取りに来るものも少なく、申請も容易でした」
その後、医療支援などを受けられるようになるのですが、それは昭和40年の堺原爆被害者の会が出来てから後のことだったのではないかと中谷さんはいいます。
「医療費の助成が受けられるようになってから会員が増えたと先輩たちが言っていたと思います。最初は、どうやったら被爆者健康手帳が申請できるのかとか、どんな支援があるのかとか、そうした被爆者特有の情報を得るための互助の役割を会は果たしました」
その後は、被爆者健康手帳の申請条件も「第三者二名以上の証言」など、しっかりとしたものになりました。

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▲中谷さんの持つ被爆者健康手帳。
しかし医療の支援を受けられるといっても、実際には十分な診療に繋がるとは限りません。たとえば、指定医療機関になっている病院は、民間の病院では限られた病院しかありませんでした。
「このあたりでは耳原総合病院ぐらいでした。他の病院だと被爆者が行っても何せ(被爆は)はじめての事だから医者も良くわからないということが多かった。その点、耳原は医者も良く勉強しているし、理解してくれているから安心でした」
病院にとっては指定医療機関になったところで儲かるわけではなくて、なりたがる医療機関少なかったのです。
制度運営が硬直的という問題もありました。
「二世も一世が受けているのと同じ検診を年に一度受けられるのですが、指定された日時に指定された機関(耳原)に行かねばならず、とても不便でした。現役世代はわざわざ休みをとっていかなければならないので、利用する人も少なかったと思います。せめて一世の検診に行く時に、付き添いで行く二世も一緒に受けさせて欲しいと、二世の会でも運動した結果、ようやく一緒に出来るようになったんです」
被爆者への国の対応も後手後手の印象がありますが、被爆二世への対応となると更に不十分なものだと思えます。なにしろ被爆二世といっても、国は実態調査さえ行っておらず、正確な人数も把握されていません。
「そもそも被爆二世の位置づけすらはっきりしていないやないか」
と中谷さんはいいます。片岡さんも、
「被爆二世には病院が健康管理手帳というのを出してくれるんですけど、書き込むのは自分なので、向こうが書いてくれる文だけお薬手帳の方がありがたいぐらいですよ」
と笑います。原爆被害者とその二世が、どれだけ置き去りにされてきたのか、そしてその状況が今も根本的には変わっていないことがこのことからもわかります。東日本大震災の避難者へのいじめが繰り返されていることも、被爆者への差別が根本的に無くなっていないことを明らかにしているでしょう。
■「核兵器はあかん」の一点で結集した堺原爆被害者の会
当初は互助会的な組織だったという堺原爆被害者の会ですが、権利闘争へと路線は変わっていたのでしょうか。
「堺だけでというのはあまりなくて、そこはやはり広島や長崎が大きかった」
では、堺原爆被害者の会は全国組織の支部にあたるような存在なのでしょうか。
「大阪被団協に加盟していて、大阪は日本被団協に加盟していますが、支部ということでもないですね」
堺は堺で独自色のある組織として存在していました。それは、たとえば大阪が区ごとに分かれたのに対して、堺ではひとつでまとまったまま(保健所の所轄ごとに支部はあった)だったこともありますし、政治との距離の取り方もそうでした。
「昭和61年から鳳の支部長をしていたんですが、当時の方針は実のところ自民党一色でした。しかし、会員の中に色んな政党支持があるから、一つの政党やったらあかんやん、全部に声をかけようと言ったんです」
中谷さんの主張は受け入れられて、その後は特定の政党に頼らない路線が出来ました。
「被爆者の会というと左寄りという決めつけもされがちですが、そうではありません。私たちはどの党にもお願い事や相談事を持っていける今のやり方が一番いいと思っています。被爆者の当事者がしていて、核兵器はあかんという一点でやっているのが一番の特徴です。昨年の堺原爆展も、特にどこの党も偏りなく来てくれたと思います。また行政の協力も得やすい。今回の原爆展も堺市、堺市教育委員会、堺市社会福祉協議会が後援してくれています」
■共感の輪を広げていきたい
全国的に見れば数少ない二世の会があるのも、堺の原爆被害者の会の特徴の一つでしょう。たとえば原爆展が開催できるようになったのも、二世の会の存在が大きいのです。
「二世の会の力を借りて原爆展や懇親会はできています。しかし、全国的に見ると二世の会がないところがほとんどです。一世が子供たちに伝えていかないとあかん。二世に啓蒙活動を一緒にやってくれと」
と中谷さん。二世の片岡さんも、課題は多いと感じています。
「二世も一つにまとまってはいてない。自分は関係ないと思っている人もいる。二世の自分たちが(原爆のことを)知らない。自分から勉強をしないと、と思います。二世もそうやし、二世以外にも広げていかないと」
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▲インターネットメディア「omoroi堺」の藤岡雅人さんと藤井万寿美さん。
今回堺原爆展とDVD製作に携わった「omoroi堺」の藤岡雅人さんは、第三者としてこの活動に関わった思いを語ってくれました。
「そもそも堺に原爆被害者の会があることをみんな知らない。僕も知らなかった。全然当事者でない人間でも、これは伝えないといけないという人が賛同して、核兵器は絶対にあかんやろうという人が広がっていけばいいと思うんです。輪を広げていく必要がある」
啓蒙のため、広報のため、輪を広げていくための活動が、堺原爆展でありDVDです。
「他の団体が消滅していく中で、堺の原爆被害者の会はまだまだ元気ですし、中谷さんには全国の原爆被害者の会を堺が引っ張っていくぐらいの気持ちでやって欲しいんですよ」
被爆当時生後4か月未満だった中谷さんも、すでに72才です。
「この先、こっちの体力はだんだんなくなっていきます。語り部をしていた人もできやんようになってきた。会は弱体化していく。そういう中でどうやっていくのか考えないと展望を見出せない。しかし、大事なことやから続けないといけないと思っています」
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▲記者会見の準備や堺原爆展の後援など、堺市は協力してくれました。
この「大事なこと」を中谷さんたちだけに任せていいのだろうか、と思わずにはいられませんでした。片岡さんら二世や、藤岡さんら「omoroi堺」のように共感した人たちが自分たちの問題として取り組んでいくことも大切でしょう。
ここで、唐突に思えるかもしれませんが、堺市が百舌鳥・古市古墳群で目指しているユネスコ世界遺産について目を向けてみたいと思います。というも、ユネスコとはそもそも戦争へ の反省から生まれたものだからです。ユネスコ憲章前文では以下のように訴えています。
「相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった」
だから、相互の風習と生活を知るために、世界遺産が誕生したのです。原爆ドームが世界遺産となっているのも負の遺産として後世に伝えるためです。
堺市がユネスコの世界遺産登録に熱心になるのなら、まずはユネスコの精神を根本から理解して取り組むのが筋でしょう。ユネスコ憲章の前文にはさらに以下のようにあります。
「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果たさなければならない神聖な義務である」
原爆を知ること、原爆被害者と二世を知ること、それも「果たさなければならない神聖な義務」のひとつではないでしょうか。
■堺原爆被害者の会(web
〒593-8322
堺市西区津久野町2-4-7
メール:info@sakai-genbaku.org
■omoroi堺(web
お問合せ:090-3894-9162
■第9回堺原爆展(web
2017年7月22日(土)~23日(日)
堺市総合福祉会館
メイン会場:5階大会議室
ビデオ上映:6階ホール
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