インタビュー

小松清生 大和川市民ネットワーク事務局長(後篇)

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profile
小松清生 
 
泉大津市出身。  
1972年~堺市立五箇荘・五箇荘東・新浅香山・向丘・錦小教諭・退職後東浅香山小に勤務。  
1996年 「大和川かるた」制作 
1997年~2000年 大和川河川環境保全モニター 「わたしたちの大和川」編集委員  
2004年~2012年 大和川流域委員会委員  
2008年~大和川市民ネットワーク事務局長  
2011年 「歴史たんけん堺」を発行  
2016年 大和川市民ネットワークが「わたしたちの大和川2016 web版」発表
「大和川かるた」を出版し、一級河川モニターを務め、編集委員として副読本「わたしたちの大和川」を制作するなど、一般的な教員の範疇を越えて活躍する小松清生さん。その活動は、2000年代にはいくつもの地域を横断した大きなものになりはじめました。 
 
 
■大和川の復活 
「たくさんの人に応援してもらっていましたが、大和川に関わる私の活動を評価しない人もありました。『大和川に蓋をしてしまえばいい』と言う人すらいました」 
川を暗渠にして塞いでしまえば、その上に利用できるスペースが沢山できる。そんな主張が通って、地下に埋もれてしまった川は大阪にも堺にも少なくありません。 
「利よりも害 港つぶした大和川」 
と、「堺かるた」に詠われ、長らく水質汚染ワースト1の汚い川だった大和川は、決して周辺住民に愛される川ではありませんでした。 
 
「そんな状況が大きく変わったのは2004年でした」 
■付け替え300年を記念して
2004年は、大和川の付け替え工事300周年の年でした。様々な記念行事が行われ、小松さんもフォーラムに出席したり講演を行うなど積極的に活動しました。  
堺市では、文化財課、市長公室、環境対策課、下水道、高速道路大和川対策室からメンバーが集まり庁内連絡会議が設置されました。皆、個性的で行動的な面々だったとか。小松さんはオブザーバーでしたが、対等で楽しい会だったそうです
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▲堺市の大和川付け替え300周年記念事業は、記念フォーラム(8/1東浅香山校区連合自治会長の龍野健さんと小松清生さん)の開催、「大和川がやってきた」歴史パネルの巡回展示、大和川子どもまつりの開催でした。
 
「子ども祭を企画したのですが、その実行委員会には子ども自身にも入ってもらったんです」  
堺市内の小学校に実行員会メンバー募集の連絡をしました。  
4つの小学校から、それぞれ先生1人と児童が4人ずつ実行委員会に加わることになったんです。これが、なかなか面白い子どもたちでした。大人と対等にやりあい、成長しながらがんばりました」  
子ども祭は、2004年の11月30日に、大和川の河口にある「海とのふれあい広場」で開催されました。河口の公園までは、市街地からは何キロもの距離があって、子どもたちは車で連れて行ってもらいました。この「海とのふれあい広場」は、現在は魚釣りやバーベキューを楽しむことが出来る公園ですが、何十年か先には干潟が生まれ、直接海に触れ合うことが出来る空間になるよう取り組んでいるそうです。2004年に両親に連れられて子ども祭に向かった子どもたちも、干潟が出来る頃には父や母となって自身の子どもを連れて干潟で遊んだりしているかもしれませんね。 
■2004年度が大きな転機に  
大和川のせいで堺が衰退したという説も見直されていった1年でした。堺市博物館での研究がすすみ、学芸員の矢内一磨さんが中心になって、大和川付け替え300周年記念の特別展がもたれました。小松さんが願い続けていた7mの「大和川筋図巻」が全幅公開され、解説冊子も発行されました。  
大和川流域委員会が発足したのもこの年です。小松さんは、復活した住吉大社の神輿のお渡りの映像を紹介してその継続のために傾斜護岸の整備を要望。堺にも「水辺の楽校」を設置するなどの提案をしました。賛同の意見が続き実現に大きく踏み出しました。
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▲「川とあそぼう大和川クラブ」の活動で、大和川に川遊びが戻ってきました。漁師の高田さんの網に子どもたちが興味津々。(写真は2013年のもの)
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▲川とあそぼう大和川まつり」の葦船・大和丸(2005年7月)
こうした活動を受けて、2005年には「川とあそぼう大和川クラブ」がスタートします。   
新浅香山小学校北の水辺で、「大和丸」と命名された葦船を作って進水。 自分たちだけではもったいないからと、東浅香山校区連合自治会や堺市の応援を受けて、はじめての川遊び「川とあそぼう 大和川まつり」が開催されました。  
「淀川の河川モニターをされていた河合典彦さんに来ていただいて、投網をしていただきました。大和川は浅瀬や淵があって『淀川より面白い』と高評価。在来種が9種類もとれました。出島漁港の漁師・高田利夫さんも来てくださいましたが、海の魚がここまであがっていると喜ばれました」 
 
■大和川市民ネットワークの設立 
2005年には、小松さんは望んでいた錦小学校への異動が叶うことになります。  
実は泉大津出身の小松さんですが、高校生活や教員生活を堺で過ごすうちに、堺の歴史文化に魅了されていました。そのコアである環濠内エリア、学制発布前後からの貴重な資料が多く残る「泉州一番小学」だった錦小学校に希望していたのです。  
退職する2008年までの間、伝統産業が息づく地元の方々に助けられて昔の暮らしや刃物・線香・昆布などの学習に取り組みました。学校史料を活用するとともに、堺市文化財課の事業に協力してその保存と研究にも取り組みました。大和川付け替えの学習では、土居川水系や環濠について考え、中九兵衛さんの特別授業もお願いし、錦校区らしい展開を考えました。朝日新聞に「大和川かるた」を楽しむ子どもたちの様子が載せられています。  
  
2009年には、こうした歴史研究の成果を教材として使える「プリント堺」として発表。2011年には、歴史探検や大和川に関する活動や、平和をもとめるピースアクションなどをつなげる形で、「堺たんけんクラブ」を発足させ、「プリント堺」を補充改訂し「歴史たんけん堺」を発行します。 
 
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▲分かりやすく堺の歴史に親しむことができる「歴史たんけん堺」。
前後しますが、2008年の退職のタイミングで、「大和川市民ネットワーク」が発足します。 
これは奈良と大阪の大和川流域で活動する様々な市民団体や市民をつなげるものです。代表は2年に1回交代するのですが、設立当初から今にいたるまで事務局長は小松さんが務めています。 
「各団体や個人が地域で取り組んでいる活動をつなげ、研究発表や、行政への提言も行っています。 総会は年に1回、奈良と大阪で交互に開催されています」 
「大和川市民ネットワーク」の活動が評価され、2011年「いい川・いい川づくりワークショップ」のグランプリを受賞します。「わたしたちの大和川」補充版を発行、平城遷都1300年イベントとして秋篠川舟りで川の再生を呼びかけた年でした。 
2016年1月、公益財団河川財団の「川づくり団体全国事例発表会」で表彰・発表の機会も得ました。「どうしようもない」と言われていた多摩川や名古屋の庄内川とそろって受賞し、居合わせた国交省の河川関係者など非常に感慨深げだったそうです。 
 
 
■教育と生活が大切 
教員であったころも、そして退職してからも、小松さんの活動は独特なものでした。教室を飛び出し、川やまちの中へ繰り出し、実際に目で見て手で触れるライブ感覚で取り組まれています。一体、この情熱の源泉はどこにあるのでしょうか?
 
「中学生の頃、全国一斉学力テストが導入される事になったのですが、先生たちは教育条件を整えずに画一的なテストをすることに反対でした。ボイコット運動が起きて、私はテストは受けて、回答は書いても名前は書かずに提出したんです。後で聞くと、7割の生徒が白紙で答案を出したそうです。ですが、反対運動をした先生は処分されてしまいました」  
この経験を通じて、小松さんは教育の重要さを感じたそうです。  
「それで私は進学のための勉強がいやになりました。でも中卒でがんばっている先輩たちに説得されたのです。条件のある人は進学して、学歴が無いとでけへん仕事をしてほしいと言われました。もう冬だったかな。頑張りました。教師になろうと思ったのは、自然な流れだったと思います」  
大勢に流されない小松さんの自立心・反骨心の出発点はここにあるのではないでしょうか。 
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▲「堺平和のための戦争展」のアフター企画「PEACE LIVE」を毎年開催。子どもたちと一緒に平和のパフォーマンスに拍手を送りました。
高校が堺の泉陽高校だったことや堺の教員になったことも、自由に活動できた大きな要因でした。  
「今思えば堺だからやってこれたというのもあるでしょうね。教職員組合がしっかりしていて、教育活動の自由が保障されていました。『五箇荘かるた』を作ったらと言ってくれたのは、教頭先生でした。『わたしたちの大和川』』も職場の皆さんに応援されましたが、たまに事情を知らないよその校長先生に、誰の許可を得てやっているのかと言われたこともありますが、手順を踏んでいることを説明すると、『それならいい。がんばれ』と応援してもらってきました」 
 
活動をはじめ30年以上の月日がたちました。大和川は美しくなり、子どもたちが川遊びをするようになりましたが、小松さんの活動は終わりません。  
「富田林高校では、高校生たちが石川に鮎をもどす活動をしています。環境は綺麗になっているのですが、3mもの堰で流れをせき止めて鮎がのぼれないので、魚道を作ろうと調査・研究、すばらしい活動を続けています。『大和川市民ネットワーク』の総会で活動報告をすることになった時に、上級生たちが試験で発表できず、入学したばかりの1年生に託したのですが、これが活動の意義をしっかり自覚した立派な発表でした」  
若者たちへ活動のバトンが繋がれていきます。  
 
 
川にまつわる活動、まちに関わる活動も、今後長く続ける必要があるもの。小松さんたちの後を継ぐ世代の育成も視野にいれています。 
「堺でも、すてきな若者が大和川市民ネットワークの仲間になりました」  
 小松さんの活動は、川筋は変わっても流れが続いている大和川のように、これからも生活に密着したものとして続いていくことでしょう。
 
 
 大和川市民ネットワーク
  
  
  
  
  
 

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